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一橋大学(1992年)

第1問

西ローマ皇帝アウグストゥルスがゲルマン人傭兵隊長オドアケルに廃位されて以後 、八世紀半ばに至るまで、旧ローマ帝国領だった地中海地域には民族の移動を含む大きな政治的変化が生じた。これらの変化を、次の三つの人名を用いて説明せよ(400字)。

ユスティニアヌス帝 ムハンマド(マホメット) カール・マルテル(チャールズ・マルテル)

解答のポイント
①5世紀後半、西ローマ帝国滅亡した後、ゲルマン人国家が分立
②6世紀になると東ローマ帝国のユスティニアヌス帝がゲルマン諸国を征服して地中海のほぼ全域を統一
③ところが7世紀にムハンマドがイスラーム教を開くと、その勢力が東ローマ帝国からシリア・エジプトを奪う
④8世紀には北アフリカからイベリア半島を経てフランク王国にも侵入
⑤このイスラーム勢力をフランク王国の宮宰カール=マルテルは、トゥール=ポワティエ間の戦いで撃退
⑥同じくイスラーム勢力の進出を受けた東ローマ帝国ではレオン3世が聖像禁止令を発布
⑦ゲルマン人への布教を必要とする西欧ローマ教会は、保護を求めてフランク王国に接近し、ピピンの王位を承認
⑧さらに、ゲルマン諸部族を統一したカールに戴冠し、東ローマ帝国から自立
⑨こうして地中海地域は、ローマ=カトリックの西欧世界と、ギリシア正教の東ローマ世界、イスラーム世界に三分裂

解答例
5世紀後半、西ローマ帝国滅亡した後、ゲルマン人国家が分立していたが、6世紀になると東ローマ帝国のユスティニアヌス帝がゲルマン諸国を征服して地中海のほぼ全域を統一した。ところが7世紀にムハンマドがイスラーム教を開くと、その勢力が東ローマ帝国からシリア・エジプトを奪い、8世紀には北アフリカからイベリア半島を経てフランク王国にも侵入した。このイスラーム勢力をフランク王国の宮宰カール=マルテルは、トゥール=ポワティエ間の戦いで撃退。同じくイスラーム勢力の進出を受けた東ローマ帝国ではレオン3世が聖像禁止令を発布。ゲルマン人への布教を必要とする西欧ローマ教会は、保護を求めてフランク王国に接近し、ピピンの王位を承認。さらに、ゲルマン諸部族を統一したカールに戴冠し、東ローマ帝国から自立した。こうして地中海地域は、ローマ=カトリックの西欧世界と、ギリシア正教の東ローマ世界、イスラーム世界に三分裂していった。(400字)
※参考 京大(2006)
ベルギーの中世史家アンリ・ピレンヌは、古代の統一的な地中海世界が商業交易に支えられて、8世紀まで存続したと考えた。しかしこの地中海をとりまく地域の政治状況は、8世紀以前、古代末期から中世初期にかけて大きく変化した。紀元4世紀から8世紀に至る地中海地域の政治的変化について、その統一と分裂に重点を置き、300字以内で説明せよ。(京大2006)

地中海世界の統一と分裂の変遷
①統一 4Ⅽ初 専制君主制の下、ローマ帝国の統一維持
②分裂 4Ⅽ後半 ゲルマン民族の大移動
        帝国は東西に分裂
    5Ⅽ後半 西ローマ帝国は滅亡
③統一 6Ⅽ ユスティニアヌス帝による再統一
④分裂 7Ⅽ イスラーム勢力による分裂
      東ローマはシリア・エジプトを奪われる
    8Ⅽ イベリア半島からフランク王国にも侵入
⑤西欧統一  フランク王国のカールが西欧統一 カール戴冠
⑥結果 西欧世界とビザンツ、イスラーム世界に三分裂

解答のポイント
①4世紀初め専制君主制のもとでローマ帝国は地中海地域の統一を維持
②4世紀後半からはじまったゲルマン人の移動による混乱の中で、帝国は東西に分裂、5世紀後半に西ローマ帝国は滅亡
③6世紀になると東ローマ帝国のユスティニアヌス帝が西方のゲルマン諸国を征服して地中海のほぼ全域を統一
④7世紀にはイスラーム勢力が東ローマからシリア・エジプトを奪い、8世紀には北アフリカからイベリア半島を経てフランク王国にも侵入
⑤このイスラーム勢力を撃退したフランク王国が、ゲルマン諸部族を統一し、カールの戴冠で東ローマから自立
⑥地中海地域は西欧世界と東ローマ世界、イスラーム世界に三分裂した

第2問
東欧諸国が大国の政治支配から脱して真の独立国家を実現するには、長い時間を要した。東欧諸国のうちポーランドまたはチェコスロヴァキアを選び、その国が19世紀以降、形式的ではあれ、国家的独立を達成してからワルシャワ条約機構解体にいたるまでの歴史過程を、国際政治とのかかわりで大きく三期に区分して述べよ(400字)。

(1)ポーランドを選択した場合
解答のポイント
1.第1期は第一次大戦まで
①19世紀初頭にワルシャワ大公国が建国されるが、実態はナポレオンの傀儡でありその独立は形式的なもの
②ウィーン会議ではロシア皇帝を国王とするポーランド立憲王国が建国
③1830年に七月革命の影響を受け、ワルシャワで蜂起するが鎮圧
④1860年代にもロシアの農奴解放令を受けて反乱を起こすが、再び鎮圧
2.第2期は第二次世界大戦まで
⑤第一次世界大戦末期、ピウスツキの指導により独立
⑥ヴェルサイユ条約でダンツィヒ・ポーランド回廊を獲得
⑦1939年ドイツのヒトラー政権がこの返還を要求し、独ソ不可侵条約を結んでソ連と侵攻、両国により占領された
3.第3期は戦後
⑧戦後ソ連の衛星国となり、人民民主主義政権が成立
⑨しかし、スターリン批判を受けてポズナニで反ソ暴動が発生。
⑩ゴムウカが自由化路線を推進
⑪東欧革命を受けて、共産主義政権は崩壊
⑫自主管理労組「連帯」の議長を務めたワレサが大統領に当選

解答例
ポーランドについて。第1期は第一次大戦まで。19世紀初頭にワルシャワ大公国が建国されるが、実態はナポレオンの傀儡でありその独立は形式的なものであった。ウィーン会議ではロシア皇帝を国王とするポーランド立憲王国が建国。1830年に七月革命の影響を受け、ワルシャワで蜂起するが鎮圧。1860年代にもロシアの農奴解放令を受けて反乱を起こすが、再び鎮圧。第2期は第二次世界大戦まで。第一次世界大戦末期、ピウスツキの指導により独立。ヴェルサイユ条約でダンツィヒ・ポーランド回廊を獲得するが、1939年ドイツのヒトラー政権がこの返還を要求し、独ソ不可侵条約を結んでソ連と侵攻、両国により占領された。第3期。戦後ソ連の衛星国となり、人民民主主義政権が成立。しかし、スターリン批判を受けてポズナニで反ソ暴動が発生し、ゴムウカが自由化路線を推進した。東欧革命を受けて、共産主義政権は崩壊。自主管理労組「連帯」の議長を務めたワレサが大統領に当選した。(400字)

(2)チェコスロヴァキアを選択した場合
チェコスロヴァキアの場合は、ポーランドと第1期のスタート地点が変わってきます。チェコスロヴァキアは、19世紀はオーストリア=ハンガリー二重帝国の支配下にあり、国家としての独立を実現するのは第一次世界大戦後のことです。

解答のポイント
1.第一期は、第一次世界大戦後
①サン=ジェルマン条約で独立
②初代大統領マサリク、二代目ベネシュの時代に議会政治を確立し、工業も発達して安定した民主国家として発展
2.第二期はドイツの侵略期
③ドイツのヒトラー政権はチェコスロヴァキアに対し、ズデーテン地方の割譲を要求
④これを受けて開催されたミュンヘン会談で割譲を余儀なくされた
⑤その後、ベーメン・メーレンはドイツに併合、スロヴァキアも保護国となった
3.第三期は戦後
⑥マーシャル=プランの受け入れをめぐり、チェコスロヴァキア=クーデタが発生し、共産主義の独裁政権が樹立
⑦ドプチェクによるプラハの春で自由化を推進
⑧ソ連のブレジネフが制限主権論の下、ワルシャワ条約機構軍を投入して弾圧
⑨しかし、東欧革命の余波を受け、共産主義政権に対する不満からビロード革命が発生
⑩共産主義政権は崩壊し、議会制民主主義、市場経済に移行した。

解答例
チェコスロヴァキアについて。第一期は、第一次世界大戦後。サン=ジェルマン条約で独立。初代大統領マサリク、二代目ベネシュの時代に議会政治を確立し、工業も発達して安定した民主国家として発展。第二期はドイツの侵略期。ドイツのヒトラー政権はチェコスロヴァキアに対し、ズデーテン地方の割譲を要求。これを受けて開催されたミュンヘン会談で割譲を余儀なくされた。その後、ベーメン・メーレンはドイツに併合、スロヴァキアも保護国となった。第三期は戦後。マーシャル=プランの受け入れをめぐり、チェコスロヴァキア=クーデタが発生し、共産主義の独裁政権が樹立。ドプチェクによるプラハの春で自由化を推進しようとしたものの、ソ連のブレジネフが制限主権論の下、ワルシャワ条約機構軍を投入して弾圧。しかし、東欧革命の余波を受け、共産主義政権に対する不満からビロード革命が発生。共産主義政権は崩壊し、議会制民主主義、市場経済に移行した。(400字)

第3問
下記の問いに答えよ。

(ア) 「古代」、「中世」、「近代」という時代区分はヨーロッパ史をモデルに設定されたもので、非ヨーロッパ世界の歴史に対して、それをそのまま適用することはできない。しかし同時に、非ヨーロッパ世界の多くが、その前後の時代と異なる「中世」的な時代をへたこともまた歴史的な事実である。そこで、イスラム世界を例に、以下の二つの字句を説明するなかで、「中世」という時代の政治体制、思想状況の特徴を述べよ。なお、その際、字句は重複使用してもよく、また、字句の下には下線を付せ(200字)。

  マムルーク スーフィー信仰

解答のポイント
①アッバース朝はカリフが聖俗両権を握り、アター制の下、官僚制による中央集権的統治を行った
②しかし、ブワイフ朝がバグダードを占領し、カリフの実権を奪い、政教分離体制となった
③また、ブワイフ朝は、奴隷軍人であるマムルークなどに徴税権を与えて軍役を課すイクター制を採用しため、地方政権の分立が促進
④思想面では、イスラム教の形式化に対する反発から、神との一体化を唱える神秘主義のスーフィー信仰が拡大した

解答例
アッバース朝はカリフが聖俗両権を握り、アター制の下、官僚制による中央集権的統治を行った。しかし、ブワイフ朝がバグダードを占領し、カリフの実権を奪い、政教分離体制となった。また、ブワイフ朝は、奴隷軍人であるマムルークなどに徴税権を与えて軍役を課すイクター制を採用しため、地方政権の分立が促進された。思想面では、イスラム教の形式化に対する反発から、神との一体化を唱える神秘主義のスーフィー信仰が拡大した。(200字)

(イ) 1904年2月、ロシアとの戦争を決意した日本は宣戦布告に先だって、韓国領土を占領するとともに、次々に韓国に対し「議定書」、「協約」、「条約」を強要し、日本の朝鮮支配は一挙に完成にむかって加速された。朝鮮民衆は激しく抵抗したが、日本は直接これらの抵抗をうちくだき、ついに1910年8月韓国を併合した。次の用語をつかって日露戦争勃発から韓国併合までの過程をのべよ(200字)。

  日韓議定書  第二次日韓協約  抗日義兵闘争

解答のポイント
①日韓議定書で、日露戦争のために韓国領内での日本軍の行動を自由化
②第一次日韓協約で日本の推薦する外交・財政顧問の任用を義務づけ
③ポーツマス条約で韓国の指導・監督権を獲得
④第二次日韓協約によって外交権を奪い、統監府を設置
⑤ハーグ密使事件を契機に第三次日韓協約で内政権を奪って、韓国軍隊を解散
⑥民衆の抗日義兵闘争が激化
⑦安重根による伊藤博文の暗殺を機に日本は韓国を併合し、朝鮮総督府を設置

解答例
日韓議定書で、日露戦争のために韓国領内での日本軍の行動を自由化。第一次日韓協約で日本の推薦する外交・財政顧問の任用を義務づけ。ポーツマス条約で韓国の指導・監督権を獲得。第二次日韓協約によって外交権を奪い、統監府を設置。ハーグ密使事件を契機に第三次日韓協約で内政権を奪って、韓国軍隊を解散させた。民衆の抗日義兵闘争が激化する中、安重根による伊藤博文の暗殺を機に日本は韓国を併合し、朝鮮総督府を設置した。(200字)


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