
一橋大学(2016年)
第1問
聖トマス(トマス=アクイナス)に関する次の文章を読んで、問いに答えなさい。
聖トマスは都市の完全性を二因に帰する。すなわち第一に、そこに経済上の自給自足あり、第二には精神生活の充足、すなわちよき生活、がある。しかして、およそ物の完全性は自足性に存するのであって、他力の補助を要する程度、においてその物は不完全とされるのである。さて、霊物両生活の充足はいずれも都市完全性の本質的要件であるが、なかんずく第一の経済的自足性は聖トマスにおいて殊更重要視される。生活資料のすべてについての生活自足は完全社会たる都市において得られると説かるるのみならず、都市はすべての人間社会中最後にしてもっとも完全なるものと称せられる。けだし、都市には各種の階級や組合など存し、人間生活の自給自足にあてられるをもってである。このように都市の経済性を高調することは明らかに中世ヨーロッパ社会の実状にそくするものであって、アリストテレース(アリストテレス)と行論の類似にもかかわらず、実質的には著しき差異を示す点である。聖トマスにおいてcivitasは「都市国家」ではあるが、「都市」という地理的・経済的方面に要点が存するに反し、アリストテレースは「都市国家」を主として政治組織として考察し、経済生活の問題はこれを第二次的にしか取扱っていない。
(上田辰之助『トマス・アクイナス研究』より引用。但し、一部改変)
*civitas:市民権、国家、共同体、都市等の意味を含むラテン語。
問い 文章中の下線部における聖トマスとアリストテレスの「都市国家」論の相違がなぜ生じたのか、両者が念頭においていたと思われる都市社会の歴史的実態を対比させつつ考察しなさい。(400字以内)
解説
テーマ:聖トマスとアリストテレスの「都市国家」論の相違が生じた理由を、両者が念頭に置いていた都市社会の実態を対比させて考察する
資料を読解すると、聖トマスは、中世の都市の地理的・経済的な性質を重視し、アリストテレスは、古代ギリシアの都市の政治組織としての性質を重視していたということがわかります。何について書くかということが一番大切な部分で、ここを見落とすと見当違いのことを書いてしまうことになります。資料や問題文にある「地理的」とか「経済的」などの言葉を見つけたら、まっさきにチェックをするようにしてください。中世都市の「地理的」・「経済的な側面」と古代ギリシアの都市の「政治的な側面」の実態をあげて、さらに「対比をする」ことが必要です。
解答のポイント
1.中世都市の「地理的・経済的側面」
①聖トマスは、中世都市の地理的・経済的な性質を重視
②中世後期、遠隔地商業が盛んになった結果、交通の要衝に発達(生産や流通の拠点)
③商人や手工業者たちは相互扶助と利益独占のためにギルドを結成し、市政を運営
④商人ギルドの親方が市政を独占していたが、ツンフト闘争を経て同職ギルドの親方も市政に参入
2.古代ギリシアの「政治的側面」
⑤一方、アリストテレスは、古代ギリシアの都市における政治組織としての性質を重視
⑥アテネではポリスは重装歩兵の主力となった市民によって運営
⑦成年市民による民会が政治の最高議決機関の直接民主制
3.両者の都市国家論の相違が生じた理由
⑧ポリスの市民が労働を奴隷に委ねて経済活動から遠ざかった
↕
⑨大半の中世都市市民の活動の中心は政治的活動よりも商業・手工業・交易活動といった経済活動
⑩ポリス市民は政治的に平等であった
↕
⑪中世都市では原則として政治に携わるのは経済力の豊かな大商人や親方階層であり、同じ市民の中に階級が存在
対比の問題なので、対照性を打ち出すことがポイントになります。
〇経済に対する考え方
(古代ギリシア)ポリスの市民が労働を奴隷に委ねて経済活動から遠ざかった
↕
(中世)大半の都市市民の活動の中心は、政治的活動よりも商業・手工業・交易活動といった経済活動
→古代ギリシアは経済軽視、中世は経済重視
〇政治に対する考え方
(古代ギリシア)ポリス市民は政治的に平等であった
↕
(中世)中世都市では原則として政治に携わるのは経済力の豊かな大商人や親方階層であり、同じ市民の中に階級が存在
→古代ギリシアは「市民」であれば全員が政治に関わる、中世は「市民」であっても政治に関わる階層は限定的。
解答例
聖トマスは、中世都市の地理的・経済的な性質を重視した。中世後期、遠隔地商業が盛んになった結果、交通の要衝に都市が発達。中世都市は生産や流通の拠点であり、商人や手工業者たちは相互扶助と利益独占のためにギルドを結成し、市政を運営した。一方、アリストテレスは、古代ギリシアの都市における政治組織としての性質を重視した。例えば、アテネでは重装歩兵の主力となった平民によってポリスの政治運営が行われるようになり、成年市民による民会が政治の最高議決機関の直接民主制であった。両者に相違が生じた理由は、ポリスの市民が労働を奴隷に委ねて経済活動から遠ざかったのに対して、中世都市の大半の市民の活動の中心は、政治的活動よりも商業・手工業・交易活動といった経済活動であったことや、ポリス市民は政治的に平等であったのに対し、中世都市では原則として政治に携わるのは大商人や親方であり、同じ市民の中に階級が存在したことである。(400字)
第2問
次の文章を読んで、問いに答えなさい。
ベルリンにはたくさんの広場がありますが、その中で「最も美しい広場」称されるのは、コンツェルトハウスを中央に、ドイツ大聖堂とフランス大聖堂を左右に配した「ジャンダルメン広場」です。この2つの聖堂はともにプロテスタントの教会ですが、フランス大聖堂は、その名の通り、ベルリンに定住した約6千人のユグノーのために特別に建てられたものです。この聖堂の建設は1701年に始まり、1705年に塔を除く部分が完成しました。壮麗な塔が追加されて現在の姿になったのは1785年のことです。
歴史的事件の舞台として有名な広場もあります。例えば、「ベーベル広場」は、1933年にナチスによって「非ドイツ的」とされた書物の焚書が行われた場所で、現在はこの反省から「本を焼く者はやがて人をも焼く」というハイネの警句を記したモニュメントが設置されています。この広場に面する聖へートヴィヒ聖堂は、ポーランド系新住民のために建設されたカトリック教会です。建設は1747年に始まり、資金不足や技術的困難を乗り越えて、1773年に一応の完成にこぎつけました。実際にはカトリック教会として建設されましたが、この円形聖堂は、もともとローマのパンテオンを摸して内部に諸宗派の礼拝場所が集うように構想されたものです。この聖堂をデザインしたのは当時の国王自身であり、彼の基本思想を象徴するものと言えるでしょう。
問い 文章中の下線部で述べられている2つの聖堂が建設された理由を比較しながら、これらの聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景を説明しなさい。(400字以内)
テーマ:2つの聖堂が建設された理由を比較しながら、聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景を説明する
ポイント
1.フランス大聖堂が建立された背景
①フランスでルイ14世が国内をカトリックに統一するためにナントの勅令を廃止
②フランス国内のユグノーたちが信仰の自由を求めて新教国のプロイセンに逃亡
③プロイセンは商工業者の多いユグノーを受け入れて、国内産業を育成
2.聖ヘートヴィヒ聖堂が建立された背景
④子フリードリヒ2世は啓蒙専制君主として諸改革を行い、宗教寛容令によりカトリックにも信仰の自由を認める
⑤中央集権を推進するためには宗教対立を回避し、移民を国内に定着を成功させる事は必須であった。
⑥オーストリア継承戦争ではカトリック教徒のポーランド系住民が住むハプスブルク家領のシュレジエンを占領
⑦その後プロイセンは七年戦争でシュレジエン領有を確定し、ポーランド分割によりポーランド系のカトリック教徒を支配下に置いたため、聖堂は増加するカトリックの受け皿となった
解答例
フランスでルイ14世が国内をカトリックに統一するためにナントの勅令を廃止すると、フランス国内のユグノーたちが信仰の自由を求めて新教国のプロイセンに逃亡した。プロイセンは商工業者の多いユグノーを受け入れて、国内産業を育成した。これがユグノーのためにフランス大聖堂が建立された背景である。プロイセンのフリードリヒ2世は啓蒙専制君主として諸改革を行い、宗教寛容令によりカトリックにも信仰の自由を認めた。中央集権を推進するためには宗教対立を回避し、移民を国内に定着を成功させる事は必須であった。オーストリア継承戦争ではカトリック教徒のポーランド系住民が住むハプスブルク家領のシュレジエンを占領した。これが聖ヘートヴィヒ聖堂が建設された理由である。その後プロイセンは七年戦争でシュレジエン領有を確定し、ポーランド分割によりポーランド系のカトリック教徒を支配下に置いたため、聖堂は増加するカトリックの受け皿となった。(400字)
※時期の特定が問題文を解く上でのカギになります。ナントの勅令廃止(1685)、オーストリア継承戦争(1740)、七年戦争(1756)、第1回ポーランド分割(1772)などが年代から出てくるかどうかという点で言えば、やはり年号をきちんと把握するような勉強の仕方が大切です。
聖堂建設が始まったのは本文にあるように1747年であるため「建設の理由」としては、オーストリア継承戦争(1740~48)時のシュレジエン占領までしか書けません。
ポーランド分割は1772年、1793年、1795年です。
聖へートヴィヒ聖堂の完成はリード文にもあるように1773年です。
完成まで入れれば第1回のポーランド分割までは入ってきますが、「建設の理由」というのは「なぜ建設したのか」を聞いているわけなので、理由が建設よりも時系列で前に来なければなりません。
ただ、もう一つの要求である「聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景」の方であればもう少し後まで書くのはありです。
七年戦争によるシュレジエンの領有確定や、ポーランド分割のことを書くのであれば、建設されたヘートヴィヒ聖堂が増加するカトリックの「受け皿になった」という表現で書く方法が良いでしょう。
第3問
次の文章は、1950年8月に周恩来が、同年6月に勃発した朝鮮戦争への対策を述べたものである。これを読んで、問いに答えなさい。
アメリカ帝国主義は朝鮮で突破口を開け、世界大戦の東方基地にしようとしている。したがって、朝鮮は確かに現在の世界における闘争の焦点になっており、少なくとも東方における闘争の焦点である。現在、我々は朝鮮について、兄弟国の問題としてとらえたり、我が国の東北と境を接し、利害関係がある問題としてとらえたりするばかりでなく、さらに重要な国際的闘争問題としてもとらえねばならない。このような認識は我々に新たな問題をもたらしている。すなわち、朝鮮人民を支援し、台湾の解放を先送りにし、積極的に東北国境防衛軍を組織することである。
(中共中央文献研究室編『周恩来年譜1949-1976』より引用。但し、一部改変)
問い 文章中の下線部が指す1945年以降の朝鮮半島の情勢を説明した上で、朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響を論じなさい。(400字以内)
テーマ:1945年以降の朝鮮半島の情勢と朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響
1.朝鮮半島の情勢
①第二次世界大戦後、北緯38度線を境界としてソ連が支持する朝鮮民主主義人民共和国とアメリカが支持する大韓民国が成立
②1950年北朝鮮が軍事境界線を越え、朝鮮戦争開戦、釜山付近まで侵攻
③これに対しアメリカは、国連安全保障理事会は中国代表権問題によりソ連が欠席していたことを背景にアメリカ軍主体の国連軍を朝鮮半島に派遣することを決定
④マッカーサー総司令官の下、仁川上陸作戦を決行し、中国国境付近まで侵攻
⑤中国共産党は、台湾侵攻を後回しにし、人民義勇軍を派遣
⑥北緯38度線付近を軍事境界線として板門店で休戦協定
2.中国・台湾への影響
⑦朝鮮戦争により台湾は国民党政権が存続、米華相互防衛条約により反共軍事同盟に入った
⑧中国では反米主義が高まり、アメリカの国力に対抗するために第一次五か年計画を開始し、核開発を本格化
解答例
第二次世界大戦後、北緯38度線を境界に朝鮮半島は米ソに分割占領され、その後ソ連の支持する朝鮮民主主義人民共和国と、アメリカが支持する大韓民国が成立した。1950年北朝鮮が軍事境界線を越え、朝鮮戦争が開戦し、釜山付近まで侵攻。これに対し、アメリカは国連安全保障理事会で、中国代表権問題によりソ連が欠席していたことを背景にアメリカ軍主体の国連軍を朝鮮半島に派遣することを決定した。マッカーサー総司令官の下、仁川上陸作戦を決行し、中国国境付近まで進撃した。一方、中国では共産党が台湾侵攻を後回しにし、朝鮮半島に人民義勇軍を派遣した。人民義勇軍の侵攻により北緯38度線付近で戦線が膠着し、板門店で休戦協定が結ばれた。朝鮮戦争により台湾では国民党政権が存続、米華相互防衛条約によりアメリカの反共軍事同盟に入った。中国では反米主義が高まり、アメリカの国力に対抗するために第一次五カ年計画を開始するとともに、核開発を本格化させた。(400字)