
一橋大学(2012年)
第1問
1598年のナントの勅令(王令)の公布は、16世紀後半のフランスで30年間以上にわたって続いていた長い戦乱を終結させた出来事として有名である。では、この勅令(王令)に至るまでの経緯はどのようなものであったのか、またその目的は何であったのかを、当時の政治状況および宗教問題に焦点を当てながら説明しなさい。(400字以内)
テーマ
1.ナントの勅令公布に至るまでの経緯
2.ナントの勅令の目的
3.当時の政治状況
4.当時の宗教問題
※書くときは4→3→1→2という順番が書きやすい
当時の政治状況は3つのことを意識しなければなりません。
①宗教対立、②王権と貴族の対立、③国際情勢です。
〇宗教対立、王権と大貴族の対立

〇国際情勢

ポイント
4.当時の宗教問題
①ヴァロワ朝末期、フランス国内でユグノーが増大し、カトリックとの間に摩擦が起きる
3.当時の政治状況
②王権強化を図るヴァロワ家(カトリーヌ=ド=メディシス)による、大貴族のカトリックのギーズ家とユグノーのブルボン家の勢力均衡策
③ユグノー戦争が勃発すると、ギーズ公がユグノーを虐殺するサンバルテルミの虐殺
④スペインがカトリック側、イギリス・オランダはユグノー側に立って内戦に介入
⑤イギリス・オランダ連合にスペインが敗れ、ユグノーに有利な情勢に
1.ナントの勅令公布に至るまでの経緯
⑥内戦に勝利したブルボン家のアンリは、自ら多数派のカトリックに改宗し、アンリ4世として即位
⑦ユグノーに信仰の自由を認めるナントの勅令を発布
2.ナントの勅令の目的
⑧信仰の自由を認めることで、国内政治に安定をもたらし、諸外国の介入を排除すること
解答例
ヴァロワ朝末期、フランス国内でユグノーが増大し、カトリックとの間に摩擦が起きていた。また、ヴァロワ家のカトリーヌ=ド=メディシスは、大貴族のカトリックのギーズ家とユグノーのブルボン家の勢力均衡を通じて王権強化をはかったため、宗教対立や政治対立が強まっていた。こうした対立を背景にユグノー戦争が勃発すると、ギーズ公がユグノーを虐殺するサンバルテルミの虐殺が起こり、またスペインがカトリック側、イギリス・オランダはユグノー側に立って内戦に介入するなど国政は大きく混乱した。やがてイギリス・オランダ連合にスペインが敗れ、ユグノーに有利な情勢になってブルボン家のアンリが内戦に勝利すると、彼は自ら多数派のカトリックに改宗し、アンリ4世として即位、ユグノーに信仰の自由を認めるナントの勅令を発布した。ナントの勅令の目的は、信仰の自由を認めることで、国内政治に安定をもたらし、諸外国の介入を排除することであった。(400字)
第2問
次の宣言は、1943年10月に出されたものである。これを読んで以下の問に答えなさい。
アメリカ合衆国、連合王国、ソヴィエト連邦および中国の政府は、各国が1942年1月の連合国による宣言、およびその後の諸宣言に従って、四カ国がそれぞれ交戦状態にある枢軸諸国に対する戦争を、枢軸諸国が無条件降伏を基礎として降伏するまで継続するという決意ににおいて結束し、四カ国自身及び四カ国と同盟を結ぶ人々を侵略の脅威から解放することを保障する義務を自覚し、戦争から平和への迅速で秩序ある移行を確保し、且つ、世界の人的及び経済的資源が兵器のために流用されることを最小限にしながら国際的な平和と安全を確立・維持する必要を認め、以下のように共同で宣言する:
1. 各国の敵国に対する戦争遂行のために誓約された四カ国の共同行動は、平和と安全を組織化し維持するために継続される。
2. 四カ国のうち共通の敵と交戦状態にある国は、その敵国の降伏及び武装解除に関する全ての事項について共同で行動する。
3. 四カ国は、敵国に課される条件の違反に対して、必要と認める全ての処置をとる。
4. 四カ国は、全ての平和愛好国の主権平等の原則に基づき、且つ、そのような大国小国の全てが参加し得る、国際的な平和と安全維持のための一般的国際機構を、実現可能な限り早期に設置する必要性を認める。
(以下略)
問い この宣言の名称を答えなさい。ところで20世紀には、この宣言で打ち出された目的を実現するための国際機構を作る試みが二度行われている。どのような国際機構が設立されたのか、またそれらはどのような問題に直面したのか、20世紀の国際関係を踏まえながら論じなさい。その際、次の語句を必ず用い、用いた語句に下線を引きなさい(400字以内)
総力戦 安全保障理事会 イタリア 冷戦 PKO
*PKO=平和維持活動
テーマ
1.国際連盟設立の経緯や性質
2.国際連盟が直面した問題
3.国際連合設立の経緯や性質
4.国際連合が直面した問題
※20世紀の国際関係の展開を踏まえる
ポイント
1.国際連盟設立の経緯や性質
①第一次世界大戦が勢力均衡の安全保障が崩壊したことで発生、総力戦によって大きな被害
②ウィルソンの14カ条の原則に基づき、集団安全保障を目的として設立
③全会一致の議決方式で議事運営が困難
④アメリカなどの大国が不参加
2.国際連盟が直面した問題
⑤上記の性質により、イタリアのエチオピア侵攻などの行動を抑止する力なし
3.国際連合設立の経緯や性質
⑥第二次世界大戦中の大西洋憲章で国際平和機構の再建が明記され、ダンバートン=オークス会議で国際連合憲章の原案が作成、サンフランシスコ会議で採択
⑦多数決制の議決方式、安全保障理事会に軍事的な制裁権を与える
4.国際連合が直面した問題
⑧安全保障理事会は常任理事国が拒否権を有しているため、冷戦下において、米ソが拒否権を行使したことで機能不全に陥ってしまう
⑨PKOによる平和維持活動の役割は増大しているが、停戦監視や選挙監視などに活動は限定される
解答例
モスクワ宣言。第一次大戦が勢力均衡崩壊により発生し、総力戦によって大きな被害が出たことの反省から、ウィルソンの14カ条の原則に基づき、集団安全保障を目的として国際連盟が設立された。国際連盟は、全会一致の議決方式のため議事運営が困難であり、アメリカなどの大国が不参加であったために影響力を欠き、イタリアのエチオピア侵攻などを抑止することができなかった。第二次大戦中の大西洋憲章で国際平和機構の再建が明記され、ダンバートン=オークス会議で国際連合憲章の原案が作成され、サンフランシスコ会議で採択された。国際連合は多数決制の議決方式をとり、安全保障理事会に軍事的な制裁権を与えた。安全保障理事会は常任理事国が拒否権を有しているため、冷戦下において、米ソが拒否権を行使したことで機能不全に陥ってしまった。冷戦崩壊後、PKOによる平和維持活動の役割が増大しているが、停戦監視や選挙監視などに活動は限定されている。(400字)
第3問
次の文章は1820年代初頭に植民地官僚ラッフルズが彼の母国イギリスとアジアとの交易について述べたものである。これを読んで、問1、問2に答えなさい。
私がイギリス国旗をかかげたとき、その人口は二百人にも達しないほどでした。三ヶ月のうちに、その数は三千人に及び、現在は一万人を越えております。主としてシナ人であります。最後の二ヶ月のあいだに主として原住民の色々な種類の船が百七十三隻も到着したり、出帆したりしました。それはすでに重要な商港となったのです。
(中略)
それは積極的にはオランダから何も奪いませんが、しかも、私たちにとってはすべてであります。それは、私たちにシャム・カムボヂャ・コーチシナその他とともにシナおよび日本に対する支配をあたえます。……この港を通じてシナへイギリスの綿製品を導入することに関して観察なさっていることは、一つの非常に重要な問題であります。……インドが充分廉価に製造することができなくても、イギリスはそうすることができます。……私はシナの大部分がイギリスの綿製品をつけないという理由を見い出すことはできません。……イギリスにおける東インド会社とシナにおける行(ホン)商人の独占は、私たちの船舶や広東港における公正な競争といったようなものの観念を排除しております。……(A. )においてすべての目的は達せられるでしょう。……シナ人自身が(A. )にやってきて購買します。彼らは行(ホン)商人の制限や着服なしに広東の色々な港に輸入する手段をもっております。シナの多くの総督は自分で秘密に外国貿易に従事しており、(A. )は、自由港として、かようにしてヨーロッパ・アジアおよびシナの間を結ぶ環となり、偉大な集積港となるのです。事実、そうなってきています。
(信夫清三郎著『ラッフルズ伝』より引用、一部改変した。)
問1 文中の(A. )に入る地名を答えなさい。ところで、ラッフルズは(A. )における交易の自由がアジアの物流を一変させると考えていますが、この思想との対比において、イギリスの東南アジアにおけるその後の政治的経済的活動の展開を述べなさい(200字以内)
問2 この時期の、ヨーロッパ諸国に対する清朝の交易体制について説明したうえで、その後の同国の交易体制の変化について述べなさい。
(200字以内)
問1 テーマ
1.ラッフルズの思想との対比において…
2.イギリスの東南アジアにおけるその後の政治的活動の展開
3.イギリスの東南アジアにおけるその後の経済的活動の展開
ポイント
1.ラッフルズの思想との対比において…
①シンガポール
②自由貿易の拠点確保
2.イギリスの東南アジアにおけるその後の政治的活動の展開
③19世紀前半、ペナン・マラッカ・シンガポールの海峡植民地を形成(点の支配)
④19世紀後半、マレー半島の領土支配に転換し、マレー連合州を成立させる(面の支配)
⑤ビルマ戦争を通じて植民地化し、インド帝国に編入
3.イギリスの東南アジアにおけるその後の経済的活動の展開
⑥マレー半島でゴムのプランテーションや錫の鉱山を経営など、植民地支配による利益獲得を目指した
⑦ビルマで水田開発を推進し、米の輸出
解答例
問1シンガポール。イギリスは、ラッフルズの思想に見られるように19世紀前半は自由貿易の拠点確保をめざし、ペナン・マラッカ・シンガポールを獲得して海峡植民地を形成。19世紀後半になると、マレー半島の領土支配に転換してマレー連合州を成立させ、ゴムのプランテーションや錫鉱山の経営など、植民地支配による利益獲得を目指した。また、ビルマ戦争でビルマを植民地化し、インド帝国に編入して水田開発により米の輸出を推進した。(200字)
問2 テーマ
1.1820年代のヨーロッパ諸国に対する清朝の交易体制
2.その後の同国の交易体制の変化
ポイント
1.1820年代のヨーロッパ諸国に対する清朝の交易体制
①清朝は朝貢体制
②乾隆帝の時代にはヨーロッパとの貿易港を広州一港に限定
③貿易は公行に独占
2.その後の同国の交易体制の変化
④イギリスの自由貿易要求を清朝は拒否
⑤アヘン戦争によって清は敗北、南京条約で五港開港、公行廃止
⑥虎門寨追加条約で協定関税制・片務的最恵国待遇を認めた
⑦アロー戦争後の北京条約で開港地を拡大し、外国人の内地旅行も承認
⑧フランスにも黄埔条約で同様の内容を承認
⑨清朝は西欧諸国の製品市場に組み込まれた
解答例
問2清朝は朝貢体制を取り、乾隆帝の時代にはヨーロッパ諸国との貿易を広州一港に限定し、貿易は公行に独占させた。イギリスの自由貿易要求を清朝は拒否したが、アヘン戦争で敗北すると、南京条約で五港開港、公行廃止。虎門寨追加条約で協定関税制・片務的最恵国待遇を認め、フランスにも黄埔条約で同様の内容を承認。アロー戦争後の北京条約で開港地を拡大し、外国人の内地旅行も承認。清朝は西欧諸国の製品市場に組み込まれた。(200字)