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一橋大学(2000年)

第1問
ハプスブルク家は1438年から神聖ローマ帝国の皇帝位を世襲したが、その絶頂をむかえた16世紀にスペイン系とオーストリア系にわかれた。後者はいわゆる「ドナウ帝国」として東ヨーロッパヘその支配領域を拡大していくが、その契機はモハーチの戦い(1526年)の後にチェコとハンガリーの王位を継承したことにあった。以上の点をふまえ、その後の領域拡大と支配強化の経緯について次の語句を用いて説明しなさい。なお使用した語句には下線を引いて明示すること。
 (例 ウィーン)(400字以内)

 ウィーン包囲  三十年戦争  カルロヴィツ条約  ポーランド分割

論述の基本は「始点」と「終点」です。ここを取り違えてしまうと、大きく失点してしまうことになります。特にこの問題は、「終点」に注意です。

19世紀後半から「支配力」の方は低下が顕著になりますが、「領域拡大」は続き、ボスニア=ヘルツェゴビナ併合によって、スペイン系とオーストリア系にハプスブルク家が分かれて以来の最大領土を実現しますので、20世紀初頭までを書く必要があります。

指定語句に引っ張られると終点を間違えますので気をつけましょう。

解答のポイント
①三十年戦争後、ウェストファリア条約でドイツ諸侯の領邦主権が確立した
②オーストリアのハプスブルク家はドイツ支配より東欧や南欧への拡大に専念したため、帝国の重心はドナウ川流域に拡大
③第二次ウィーン包囲が失敗に終わった後、オーストリアは攻勢に転じ、カルロヴィッツ条約でハンガリー、トランシルバニアを獲得
④マリア=テレジア、ヨーゼフ2世が啓蒙専制君主として中央集権化を進める
⑤第一回、第三回ポーランド分割で領土拡大
⑥ナポレオン戦争後は、宰相メッテルニヒがウィーン会議を主催し、ウィーン体制の中心として自由主義・ナショナリズムを抑圧
⑦普墺戦争後は、ハンガリーに自治を認め、オーストリア=ハンガリー二重帝国として帝国を維持
⑧パン=ゲルマン主義を掲げてバルカン半島に領土を拡大し、露土戦争後のベルリン会議でボスニア=ヘルツェゴビナの行政権を獲得
⑨青年トルコ革命の混乱に乗じて同地域を併合

解答例
三十年戦争後、ウェストファリア条約でドイツ諸侯の領邦主権が確立したことで、オーストリアのハプスブルク家はドイツ支配より東欧や南欧への拡大に専念したため、帝国の重心はドナウ川流域に拡大した。第二次ウィーン包囲が失敗に終わった後、オーストリアは攻勢に転じ、カルロヴィッツ条約でハンガリー、トランシルバニアを獲得。マリア=テレジア、ヨーゼフ2世が啓蒙専制君主として中央集権化を進め、第一回、第三回ポーランド分割で領土を拡大した。ナポレオン戦争後は、宰相メッテルニヒがウィーン会議を主催し、ウィーン体制の中心として自由主義・ナショナリズムを抑圧した。普墺戦争後は、ハンガリーに自治を認め、オーストリア=ハンガリー二重帝国として帝国を維持した。パン=ゲルマン主義を掲げてバルカン半島に領土を拡大し、露土戦争後のベルリン会議でボスニア=ヘルツェゴビナの行政権を獲得、青年トルコ革命の混乱に乗じて同地域を併合した。(400字)

第2問
 次の文章は、アメリカ合衆国のジミー・カーター大統領が1977年5月22日におこなった演説の一部です。これを読んで、下記の問1、問2に答えなさい。

 わが国の未来が揺るぎないことを確信しているゆえに、現在われわれは共産主義に対して過度の恐怖を抱いていない。かつてはその恐れのために、独裁者であっても、われわれと同じ恐れを抱いている者とは手を結ばざるをえなかったのである。あまりにも長い年月、われわれはみずから敵対者の不完全で誤った原則や戦術を取り入れようと努め、ときには彼らの価値観を受け入れて自分自身の価値観を放棄した。われわれは火と戦うのに火をもってし、火は水をもって消す方が良いことに気がつかなかった。
 このような方策は失敗に終わった。知性と道義心に欠けたその方策がもたらした最悪のものがヴェトナム戦争であった。しかし失敗を通じてわれわれは今や自分自身の原則と価値観に立ち帰る道を見いだし、失った自信を取り戻したのである。 (有賀 貞 訳)

問1 この演説の背景となったアメリカ合衆国のヴェトナム戦争介入の歴史(1954~75年)について、その原因と結果を具体的に述べなさい。(200字以内)

解答のポイント
1.原因
①1954年のジュネーブ協定で仏は撤退したが、アメリカはホーチミンの共産主義政権を認めず
②南ヴェトナムのゴ=ディン=ディエム政権を支援
③ドミノ理論に基づき、東南アジアにおける共産主義拡大を恐れて直接介入
2.結果
④ベトコンと北ヴェトナムの根強い抵抗によって泥沼化し、国際的非難にさらされた。
⑤73年ニクソン政権はパリ和平協定でヴェトナム撤退
⑥75年サイゴンが陥落して北ヴェトナムにより全土が統一

問1原因。1954年のジュネーブ協定で仏は撤退したが、アメリカはホーチミンの共産主義政権を認めず、南ヴェトナムのゴ=ディン=ディエム政権を支援。その後、ドミノ理論に基づき、東南アジアにおける共産主義拡大を恐れて直接介入した。結果。ベトコンと北ヴェトナムの根強い抵抗によって泥沼化し、国際的非難にさらされた。73年ニクソン政権ははパリ和平協定でヴェトナム撤退、75年サイゴンが陥落して北ヴェトナムにより全土が統一した。(200字)

問2 ヴェトナム戦争介入がアメリカ合衆国の社会と対外関係に与えた影響を具体的に述べなさい。(200字以内)

解答のポイント
1.アメリカの社会に与えた影響
①反戦運動
②公民権運動の盛り上がり
③既存の価値観に対する批判からヒッピーに象徴されるカウンター=カルチャーが生まれる
2.アメリカの対外関係に与えた影響
④戦争の泥沼化を打開し、和平を実現するために中国に接近
⑤ニクソン訪中により中国との関係が改善
⑥莫大な戦費が米の財政を圧迫し、ニクソン大統領がドルと金の交換停止を表明(ドル=ショック)
⑦ブレトン=ウッズ体制が崩壊し、変動相場制に移行

解答例
問2社会に与えた影響。反戦運動を背景に公民権運動が盛り上がる一方で、既存の価値に対する批判からヒッピーに象徴されるカウンター・カルチャーが生まれたこと。対外関係に与えた影響。戦争の泥沼化を打開し、和平を実現するためにニクソン訪中により中国との関係を改善したこと、莫大な戦費が米の財政を圧迫し、ニクソン大統領は金とドルの交換停止を表明、これによりブレトン=ウッズ体制は崩壊し、変動相場制に移行したこと。(200字)

第3問
A 次の文章を読んで、問1、問2に答えなさい。
 15世紀末に始まるヨーロッパ諸国のアジアヘの進出は、主役とその形態を変化させながら、今日に及んでいる。初期の段階について考えると、彼らのアジア進出の目的は、当時のヨーロッパにおいて珍重されたアジアの物産を入手することにあった。この時期、彼らはアジアの物産を買い、それをヨーロッパ市場で売りさばいて利益をあげたばかりではなく、アジア内の貿易にも参加して、大きな利益を得ていた。

問1 下線部分をよく読んで、16世紀から18世紀中頃にかけて、ヨーロッパ諸国はアジアの物産を買い付けるための貨幣をどのように得ていたのかを、金銀の産地や経由地を明示しつつ、説明しなさい。(65字以内)

設問の問い方が微妙で、「獲得した」を中心とした文にするのか、「産地・経由地」を中心とした文にするのかが難しいところです。

解答のポイント
①ポルトガルはマカオを拠点とした対日貿易で日本銀を獲得
②スペインは新大陸支配で得たメキシコ銀をアカプルコからマニラ経由で運んだ

解答例
問1ポルトガルはマカオを拠点とした対日貿易で日本銀を獲得、スペインは新大陸支配で得たメキシコ銀をアカプルコからマニラ経由で運んだ。(65字)

問2 18世紀後半になると、ヨーロッパのある国を軸にして、アジアにおける交易に新たな形態が生じた。その新たな形態とはいかなるものであったのかを説明しなさい。(135字以内)

解答のポイント
①イギリスは清朝との茶貿易で大量の銀が流出していた
②マカートニーやアマーストを派遣し、自由貿易を要求するが認められなかった
③そこで、イギリスは産業革命で生産した機械制綿布をインドに輸出
④インドで栽培したアヘンを中国に輸出して、中国茶を獲得し、銀を回収する三角貿易を展開した

解答例
問2イギリスは清朝との茶貿易で大量の銀が流出していたため、自由貿易を要求し、自国製品の輸出拡大を狙うが認められなかった。そこで、イギリスは産業革命で生産した機械制綿布をインドに輸出、インドで栽培したアヘンを中国に輸出して、中国茶を獲得し、銀を回収する三角貿易を展開した。(135字)

B 次の文章を読んで、問3に答えなさい。
 ヨーロッバ諸国のアジア進出は各地で戦争をひきおこすことにもなった。
 19世紀前半にイギリスが当時の中国、清とのあいだにひきおこした戦争では、清にとっての不平等条約の先駆けとなる条約が結ばれ、ある場所がイギリスに割譲され、植民地とされることになった。

問3 割譲された地名をあけ、その植民地としての発端から現在までの歴史を、関連する戦争名・終結条約名、中国や日本との関係にも言及しながら記述しなさい。(200字以内)

解答のポイント
①割譲されたのは香港
②イギリスはアヘン戦争後の南京条約で香港島を獲得
③アロー戦争後の北京条約で九竜半島南部を獲得
④1898年に九竜半島北部を99カ年の期限で租借して香港全域を支配
⑤太平洋戦争中には日本の占領下に置かれたが、戦後はイギリスの統治下に戻る
⑥その後、目覚ましい経済発展によりアジアNIESの一つに数えられるほどになった
⑦1997年に中国に返還され、一国二制度の下、資本主義体制が維持

解答例
問3割譲されたのは香港。イギリスはアヘン戦争後の南京条約で香港島を獲得し、さらにアロー戦争後の北京条約で九竜半島南部を獲得。1898年に九竜半島北部を99カ年の期限で租借して香港全域を支配した。太平洋戦争中には日本の占領下に置かれたが、戦後はイギリスの統治下に戻った。その後、目覚ましい経済発展によりアジアNIESの一つに数えられるほどになった。1997年に中国に返還され、一国二制度の下、資本主義体制が維持されている。(200字)

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