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一橋大学(2003年)

第1問

 15世紀イタリア社会の動向は、オスマントルコの小アジア、バルカン地方への進出と深く関係していた。トルコ勢力の攻勢の前に領土縮小を余儀なくされたビザンツ皇帝が自ら西欧に赴き、援軍の要請を行ってイタリア社会に大きな影響を与えたし、この時期多数のギリシア人が到来して、この地の文化活動にも影響を与えたからである。オスマントルコの進出に伴うこの東西キリスト教世界の交流と、それが15世紀イタリア社会に与えた影響について論じなさい。(400字以内)

伝説の超難問ですが、ちゃんと戦える問題です。問題文の中から書くべきテーマを拾いましょう。

1.「オスマントルコの小アジア、バルカン地方への進出」
2.「ビザンツ皇帝が自ら西欧に赴き、援軍の要請を行ってイタリア社会に大きな影響」
3.「この時期多数のギリシア人が到来して、この地(イタリア)の文化活動にも影響」
4.「オスマントルコの進出に伴うこの東西キリスト教世界の交流」
5.「それが15世紀イタリア社会に与えた影響」

上記の条件から連想して引き出せる知識を探します。

解答のポイント
①オスマン帝国は、コソヴォの戦いでセルビアを破り、バルカン半島への進出を強化
②これに対抗するため、ハンガリー王ジギスムントが対オスマン十字軍を率いたが、ニコポリスの戦いで敗北
③オスマン帝国のバルカン半島進出は、ティムールにアンカラの戦いで敗れたことで一時停滞
④再び侵攻を開始すると、ビザンツ皇帝が自ら西欧に赴き救援を要請
⑤その際、随行したギリシア人学者との交流により古代ギリシア・ローマの古典の知識がイタリアに伝わった
⑥この影響で、金融や毛織物業で発展していたフィレンツェでは、メディチ家の当主コジモによってプラトン学園が設立され、古典研究が進んだ
⑦その後、オスマン帝国のメフメト2世により、1453年にコンスタンティノープルが陥落してビザンツ帝国は滅亡
⑧ビザンツ帝国の滅亡前後に、多くの知識人たちがイタリアに亡命したことは人文主義者に刺激を与え、イタリア=ルネサンスが開化した

解答例
オスマン帝国は、コソヴォの戦いでセルビアを破り、バルカン半島への進出を強化した。これに対抗するため、ハンガリー王ジギスムントが対オスマン十字軍を率いたが、ニコポリスの戦いで敗北した。オスマン帝国のバルカン半島進出は、ティムールにアンカラの戦いで敗れたことで一時停滞したが、再び侵攻を開始すると、ビザンツ皇帝が自ら西欧に赴き救援を要請した。その際、随行したギリシア人学者との交流により古代ギリシア・ローマの古典の知識がイタリアに伝わった。この影響で、金融や毛織物業で発展していたフィレンツェでは、メディチ家の当主コジモによってプラトン学園が設立され、古典研究が進んだ。その後、オスマン帝国のメフメト2世により、1453年にコンスタンティノープルが陥落してビザンツ帝国は滅亡した。ビザンツ帝国の滅亡前後に、多くの知識人たちがイタリアに亡命したことは人文主義者に刺激を与え、イタリア=ルネサンスが開化した。(400字)

第2問

 次の文章は、明治四年(1871年)に日本をたち、世界各国の視察・調査をおこなった使節団がアメリカ合衆国の首都ワシントンで見聞したことを記したものである。これを読んで、下の設問に答えなさい。

売奴ノ存廃ハ、南部ノ棉花耕作ニ関係シ、棉花ノ利益ハ、米英両大国、数千万ノ生活ニ緊切スレハ、西洋人ノ利ニ熱中スル、永ク失フナカラント、売奴ノ束縛ヲ堅鎖シ、黒奴ハ元来奴隷ノ役ニ供スル、一種ノ賎人ナレハ、従来ノ交際ニテ十分ナリト謂ニ至レリ、是ヲ以テ廃奴ノ論党ハ、益其志ヲ粋励シ、終ニ一千八百六十年、大統領選挙ノトキニ至リ、其推服スル所ノ林根氏ヲ挙ルヲ得タリ、…(中略)…然トモ南部終ニ敗レ、六十五年ニ協議シテ、憲法ヲ増加スルニ至リ、黒奴始メテ人間ニ出タレトモ、交際モナク、丁字モナキ愚民ナレハ、…(中略)…但中ニハ早ク自主セル黒人モアリ、現ニ下院ニ撰挙サレタル人傑モアリ、……
        (久米邦武編『特命全権大使米欧回覧実記』より)

問1 上記の文章にある廃奴ノ論党の正式名称は何かをまず明示したうえで、その政党が目指した政治は、それまでの他の政党と比べてどのような特徴を持っていたのか、述べなさい。(100字以内)

解答のポイント
①共和党
②北部の商工業者を支持基盤として、南部のプランターを支持基盤とする民主党に対抗
③民主党は州権主義と自由貿易を提唱して奴隷制に賛成
④共和党は連邦主義と保護貿易を提唱して奴隷制に反対

解答例
問1共和党。北部の商工業者を支持基盤として、南部のプランターを支持基盤とする民主党に対抗。民主党は州権主義と自由貿易を提唱して奴隷制に賛成したが、共和党は連邦主義と保護貿易を提唱して奴隷制に反対した。(100字)

問2 こうした奴隷制度や奴隷貿易の廃止は、19世紀前半にイギリス、フランスをはじめとして世界的な規模で進行した。近代世界の成立とともに本格化した奴隷貿易は、18世紀にはいると激増し、ヨーロッパの植民地経営には欠かせないものとなったが、なぜこの時期にそのような奴隷に依存した体制が崩れていったのか。奴隷貿易の盛衰の背景にある政治的・経済的な要因と、国際的な要因を、カリブ地域やラテン・アメリカ世界を事例として述べなさい。その際、次の語句を用い、使用した語句には下線を引いて明示すること。(300字以内)

 砂糖 トゥサン=ルーヴェルチュール クリオーリョ インディオ

奴隷貿易の「衰退」ではなく、「盛衰」なので「盛」と「衰」の両方をしっかり書かなければなりません。

解答のポイント
1.「盛」の政治的・経済的・国際的な要因
①砂糖の需要が西欧で増大したことが背景(経済)
②黒人奴隷貿易は財源確保のための重商主義政策の一環として行われた(政治)
③各国は、西アフリカに武器を輸出して黒人奴隷を獲得
④カリブ海地域、ラテン・アメリカに輸出し、インディオに代わる労働力として使用  (国際)
⑤プランテーションで砂糖を生産して西欧に輸出する大西洋三角貿易
2.「衰」の政治的・経済的・国際的な要因
⑥アメリカ独立革命、フランス革命の影響で人権思想が伝播し、カリブ海地域、ラテン・アメリカで独立運動が始まる(国際)
⑦トゥサン=ルーヴェルチュールはハイチで世界初の黒人共和国を建設(政治)
⑧砂糖価格の下落が続き、奴隷貿易は衰退(経済)
⑨クリオーリョたちにより独立戦争が展開される過程で、黒人奴隷は解放された(政治)

問2
砂糖の需要が西欧で増大したことを背景に、黒人奴隷貿易は財源確保のための重商主義政策の一環として行われた。各国は、西アフリカに武器を輸出して黒人奴隷を獲得。これをカリブ海地域、ラテン・アメリカに輸出し、インディオに代わる労働力として使用。プランテーションで砂糖を生産して西欧に輸出する大西洋三角貿易を行った。しかし、アメリカ独立革命、フランス革命の影響で人権思想が伝播し、カリブ海地域、ラテン・アメリカで独立運動が始まった。トゥサン=ルーヴェルチュールはハイチで世界初の黒人共和国を建設。砂糖価格の下落が続き、奴隷貿易が衰退する中、クリオーリョたちにより独立戦争が展開される過程で黒人奴隷は解放された。(300字)
一橋(2003)大問Ⅲ

問題A,Bに答えなさい。
A つぎの文中に述べられている19世紀後半に試みられた「二世代の改革」とは、具体的に何を指しているのか。[  ]内の空欄に入るべき適当な言葉(5字以内)を考え、この二つの改革の相違点を説明しなさい。(200字以内)

 19世紀の中頃から20世紀の初めまでの二世代ほどの間に、中国の三千年来の古文化に西洋は止むことのない進撃を加えて、次々に拠点を占領して行った。技術の領域が征服されると、経済や、自然科学や、芸術や、ついには宇宙(天下)に関する古い観念についてまで、次々に譲歩せざるをえなかった。退却につぐ退却を重ねている間に、いつの間にか防御線を守りぬく希望さえ完全に放棄された。その過程でこの二世代の改革の努力は容赦なく粉砕された。…(中略)…彼らの悲劇は、中国の進歩派の努力が、たちまちのうちに時代おくれになっていくその変化の速さの中にあった。1890年代に[  ]を主張することは1910年に共和主義者となること、あるいは1930年に共産主義者であることを告白するより、大きな勇気を必要としたのである。(バラーシュ『中国文明と官僚制』、村松祐次訳に基づいて一部文章を改めた)

比較の問題なので必ず図を書きましょう。よほど注意しないと、流れだけを書くことになり、「相違点」を説明したことにはならないので注意してください。

解答のポイント
①洋務運動は太平天国の乱鎮圧に活躍した漢人高級官僚の曾国藩、李鴻章らを中心とする近代化政策
②中体西用の理念の下、伝統的な儒教思想を主体として、西洋の技術を導入したが、政治体制変革には至らなかった
③清仏戦争・日清戦争敗北で挫折
④変法自強運動は康有為、梁啓超ら公羊学者の下級官僚を中心とする近代化政策
⑤明治維新を模範に立憲君主制樹立を目指した
⑥西太后ら保守派による戊戌の政変で挫折した。

解答例
A立憲主義者。洋務運動は太平天国の乱鎮圧に活躍した漢人高級官僚の曾国藩、李鴻章らを中心とする近代化政策。中体西用の理念の下、伝統的な儒教思想を主体として、西洋の技術を導入したが、政治体制変革には至らなかったため、清仏戦争・日清戦争敗北で挫折。変法自強運動は康有為、梁啓超ら公羊学者の下級官僚を中心とする近代化政策。明治維新を模範に立憲君主制樹立を目指したが、西太后ら保守派による戊戌の政変で挫折した。(200字)

B 現代の中東では、多くの戦争と紛争が起きている。その起源は、何百年もの宗教・民族・文明の対立などではなく、19世紀末から20世紀初頭にかけての時代状況にあった。そこで、この時代状況とはどのようなものであったのかを、当時の中東で生じた事件を一つ取り上げる中で、説明しなさい。(200字以内)

解答のポイント
中東で生じた事件を一つ取り上げて、19世紀末から20世紀初頭の時代状況を説明する問題です。

「19世紀末」とはいつからか、「20世紀初頭」とはいつまでか。

19世紀末(1880年代)~20世紀初頭(1910年代)です。

「中東で生じた」と書いてあるのに、フランスで起こった「ドレフュス事件」をあげていたり(駿台)、「事件」と書いているのにバグダード鉄道敷設権などの中東政策を書いていて、どれが事件なのかが全くわからない解答例(赤本)もあります。

何を「事件」として定義するかが、まずポイントになります。

フサイン=マクマホン協定やバルフォア宣言、サイクス=ピコ協定などは「事件」ではありません。

シオニズムも「運動」であって「事件」ではありません。

こうした動きは、「事件」に関連するものとして位置づけていかなければなりません。

もし「事件」として取り上げるのであれば、「第一次世界大戦中のオスマン帝国に対するアラブの反乱」でしょう。

解答のポイント
①事件は第一次世界大戦中のオスマン帝国に対するアラブの反乱
②英はフセイン=マクマホン協定でアラブ人の独立を約束
③英仏露でオスマン帝国領を分割するサイクス=ピコ協定を締結
④19世紀末以降のシオニズム運動の高まりを受けて、英はバルフォア宣言でパレスティナにユダヤ人国家の樹立を約束する多重外交を展開
⑤同地域をめぐり、アラブ人とユダヤ人の対立が深まる結果となり、現代に至る禍根を残した

解答例
B事件は第一次世界大戦中のオスマン帝国に対するアラブの反乱。英はフセイン=マクマホン協定でアラブ人の独立を約束する一方、英仏露でオスマン帝国領を分割するサイクス=ピコ協定を締結。また、19世紀末以降のシオニズム運動の高まりを受けて、英はバルフォア宣言でパレスティナにユダヤ人国家の樹立を約束する多重外交を展開。同地域をめぐり、アラブ人とユダヤ人の対立が深まる結果となり、現代に至る禍根を残すことになった。(200字)

この問題は、様々な書き方ができます。

他にも、19世紀末から20世紀初頭に中東で生じた「事件」に該当するものが、以下のように複数あるからです。

1.ウラービーの反乱(1881~82)
2.マフディーの反乱(1882~98)
3.タバコ・ボイコット運動(1891)
4.イラン立憲革命(1905)
5.青年トルコ革命(1908)

ここではウラービーの反乱を例に別解を紹介します。

「時代状況」として書きたいのは帝国主義です。

欧米の帝国主義が植民地支配を生み、植民地支配が宗教・民族・文明の対立を生み、戦争や紛争を引き起こしているというのが前提理解です。

現在の中東紛争の背景になっている、民族主義やイスラーム主義が形成されたことを書いていきます。

この問題は2001年の同時多発テロを受けて作られたもので、2011年のアラブの春はまだ起こっていませんが、アラブの春以降の情勢を見ても、戦争や紛争の背景にあるのは民族主義やイスラーム主義です。

解答のポイント
①事件はウラービーの反乱
②エジプトは、近代化政策や戦争による莫大な費用をまかなうため外債を発行したが、財政難となり、英仏の財務管理下に置かれた
③重税と外国支配に対する反発強まる中、エジプト軍人のウラービーは、「エジプト人のためのエジプト」をスローガンに立憲制の確立を企図して反乱
④アフガーニーとその弟子、ムハンマド=アブドゥフのパン=イスラーム主義の影響
⑤英に敗れ、保護国化された。

解答例
B事件はウラービーの反乱。エジプトは、近代化政策や戦争による莫大な費用をまかなうため外債を発行したが、財政難となり、英仏の財務管理下に置かれた。重税と外国支配に対する反発強まる中、アフガーニーとその弟子、ムハンマド=アブドゥフのパン=イスラーム主義の影響を受けたエジプト軍人のウラービーは、「エジプト人のためのエジプト」をスローガンに立憲制の確立を企図して反乱を起こしたが、英に敗れ、保護国化された。(200字)

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