
一橋大学(2009年)
第1問
次の文章を読んで、問いに答えなさい。
カール大帝の帝国は、イスラムによってヨーロッパの均衡が崩壊したことの総決算だった。この帝国が実現しえた理由は、一方では、東方世界と西方世界の分離が教皇の権威を西ヨーロッパに限定してしまったことであり、他方では、イスラムによるイスパニアとアフリカの征服がフランク王をキリスト教的西方世界の支配者たらしめたことである。それ故マホメットなくしてはカール大帝の出現は考えられない、と言って全く正しいのである。古代のローマ帝国は7世紀には実質上にすでに東方世界の帝国となっており、カールの帝国が、西方世界の帝国になった。
問い この文章は、ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌ(1862-1935年)による『マホメットとシャルルマーニュ』(日本語訳の標題『ヨーロッパ世界の誕生』)からの一節である。ここで述べられる「カール大帝の帝国」は、どのような経緯で成立したのか。当時のイタリア、東地中海世界の政治情勢、またマホメット(ムハンマド)との関係に言及しながら論じなさい。(400字以内)
テーマ:「カール大帝の帝国」は、どのような経緯で成立したのか
1.当時のイタリアの政治情勢との関係
2.東地中海世界の政治情勢との関係
3.マホメット(ムハンマド)との関係
※書く順番は3→2→1が良いです

ポイント
3.マホメット(ムハンマド)との関係
①ムハンマドが開いたイスラム教が東地中海に進出し、ビザンツ帝国を圧迫2.東地中海世界の政治情勢との関係
②ビザンツ帝国の皇帝レオン3世はイスラム教に対抗するために聖像禁止令を発布
1.カール大帝の帝国の成立 当時のイタリアとの関係
③ゲルマン人への布教のためローマ教皇は布教に聖像を必要とし、ビザンツ帝国との間に聖像崇拝論争
④カール=マルテルがトゥール=ポワティエ間の戦いでイスラム勢力を撃退し、フランク王国の台頭
⑤ローマ教皇はビザンツから自立するために、軍事的な保護者を求めてフランク王国に接近
⑥ピピンがクーデタを起こして国王となると教皇はこれを承認
⑦ピピンはイタリアを支配するランゴバルト王国と戦い、奪ったラヴェンナを寄進
⑧カールはランゴバルドを滅ぼすなど、ヨーロッパの主要部を統一
⑨敵対する勢力からの襲撃にあった教皇レオ3世の救援要請に答え、ローマに来ていたカールは、教皇からローマ皇帝として戴冠
解答例
ムハンマドが開いたイスラム教が東地中海に進出し、ビザンツ帝国を圧迫した。ビザンツ帝国の皇帝レオン3世は、イスラム教に対抗するために聖像禁止令を発布したが、ゲルマン人への布教のためローマ教皇は布教に聖像を必要とし、ビザンツ帝国との間に聖像崇拝論争が起こった。その頃、トゥール=ポワティエ間の戦いでイスラム勢力を撃退したフランク王国が台頭していたため、ローマ教皇はビザンツ帝国から自立するために、軍事的な保護者を求めてフランク王国に接近した。ピピンがクーデタを起こして国王となると教皇はこれを承認、一方ピピンはイタリアを支配するランゴバルト王国と戦い、奪ったラヴェンナを教皇に寄進するなど両者の関係が強化された。その後、カール大帝がランゴバルド王国を滅ぼし、ヨーロッパの主要部を統一、敵対する勢力からの襲撃にあった教皇レオ3世の救援要請に答え、ローマに来ていたカールは、教皇からローマ皇帝として戴冠した。
(400字)
第2問
次の文章を読んで、問いに答えなさい。
第一次世界大戦は、植民地をめぐる帝国主義列強間の対立を要因として勃発したことから、戦火はヨーロッパの内部にとどまらず、かつてない規模での紛争をもたらした。しかし、人類がグローパルな紛争を体験したのは、このときが最初ではなかった。大航海時代がもたらした空間秩序は、しだいに緊密の度を強め、局地的な紛争がグローバルに波及する構造を創り出した。世界大戦のように総力戦体制をともなうものではなかったが、これらの紛争では先住民や移民など植民地に住む人々や、ヨーロッパの外にある独立諸国が、すでに「主体」として一定の役割を果たしていた。
問い 下線部に関連して18世紀なかばに生じた「グローバルな紛争」について論じなさい。(400字以内)
テーマ:18世紀半ばに生じた「グローバルな紛争」
1.オーストリア継承戦争
①マリア=テレジアがハプスブルク家の家督を相続したことに対して、プロイセンなどが反発してオーストリア継承戦争
②フランスはハプスブルク家打倒のために参戦
③フランスとイギリスは南インドではカーナティック戦争
④北米ではジョージ王戦争
2.七年戦争
⑤外交革命でオーストリアとフランスが同盟し、さらにロシアが加え、七年戦争
⑥プロイセンは苦戦するがロシアの裏切りにより勝利し、シュレジエンを確保
⑦北インドのベンガル地方ではプラッシーの戦い
⑧イギリスがフランスとベンガル諸侯の連合軍を撃破
⑨北米ではフレンチ=インディアン戦争
⑩先住民と結んだフランスにイギリスが勝利し、パリ条約でフランス勢力を植民地から締め出す
解答例
マリア=テレジアがハプスブルク家の家督を相続したことに対して、プロイセンなどが反発し、オーストリア継承戦争が勃発。フランスはハプスブルク家打倒のために参戦した。この戦争中、フランスと植民地をめぐって対立するイギリスは、南インドではカーナティック戦争、北米ではジョージ王戦争を戦った。オーストリア継承戦争で敗北したマリア=テレジアは外交革命でフランスと同盟し、さらにロシアを加えてプロイセンと七年戦争を戦った。プロイセンは苦戦するがロシアの裏切りにより勝利し、シュレジエンを確保した。七年戦争においてイギリスはプロイセンの側に立ち、北インドのベンガル地方をめぐり、プラッシーの戦いでフランスとベンガル諸侯の連合軍を撃破し、インド支配の基盤を固めた。また、北米ではフレンチ=インディアン戦争が起こったが、ここでも先住民勢力と結んだフランスにイギリスが勝利し、パリ条約でフランス勢力を植民地から締め出した。(400字)
第3問
次の2つの文章A、Bを読んで、それぞれの問いに答えなさい。
A 貿易と雇用が不振に陥り、企業は赤字を招いていますが、これは現代世界史上で最悪といってよいでしょう。どの国も例外ではありません。今日、全世界の何百万もの家庭にみられる窮乏と……不安とは、はなはだしいものがあります。世界の三大工業国であるイギリス、ドイツ、アメリカにおいて、おそらく1,200万人の工業労働者が失業中であると私は推察しています。しかし、世界の主要農業国……では、何百万人という小農が、生産物価格の下落のために破滅に瀕しており、収穫後の彼らの収入が、全農作物の生産に要した費用よりもはるかに少ないという状態です。小麦、羊毛、砂糖、綿花のような世界の重要商品や、その他実に多くの商品の価格下落がまったく破壊的だからです。
(J.M.ケインズ著『ケインズ全集 第9巻 説得論集』から一部改変)
これは、イギリスの著名な経済学者ケインズが失業に関して行った連続ラジオ講演の原稿として執筆され、1931年1月に公表された文章から抜粋したものである。この中で、彼は主要農業国としてカナダ、オーストラリア、南アメリカ諸国などを念頭においているが、それ以外の諸国においても同様の惨状が見られた。この事態がきっかけとなって、(1)世界的な規模で貿易構造に変化が生じ、また、イギリスの植民地インドでも、第一次世界大戦の影響も加わり、(2)重要な政治的展開や、(3)経済的な変化が生じた。
問い
下線部(1)、(2)、(3)を説明しなさい。(200字以内)
B 日本による植民地支配の下で朝鮮が担わされた役割は、多様であった。まず重視されたのは食糧供給基地としての役割、日本本国における食糧需給の調整弁としての役割であった。また、中国に隣接する地理的位置に規定されて、中国侵略のための基地としての役割を担わされた。そして、戦争が拡大されるにつれて、総力戦体制の一環に深く組み込まれ朝鮮の人びとはその底部を支える労働力・兵力として広範に動員されるに至ったのである。
問い
1920年代後半から1940年代前半までの時期において、日本の支配の下で朝鮮がどのように位置づけられたのか、その推移について説明しなさい。その際、下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(200字以内)
米の増産 日中戦争 世界恐慌 満州事変 徴兵制
A
テーマ:
(1)世界恐慌を機に起こった世界的な規模での貿易構造の変化
(2)インドにおける重要な政治的展開
(3)インドにおける経済的な変化
ポイント
(1)世界恐慌を機に起こった世界的な規模での貿易構造の変化
①(変化前)英仏などは金本位制の下で自由貿易
②(変化後)金本位制を停止、排他的なブロック経済
(2)インドにおける重要な政治的展開
③ガンディーが塩の行進を展開するなど非暴力・不服従運動が激化
④ネルーの提唱で国民会議派のラホール大会が開かれプールナ=スワラージが決議
(3)インドにおける経済的な変化
⑤(変化前)第一次大戦中から民族資本が成長するなど経済発展
⑥(変化後)農産物価格の下落により経済は大打撃を受け、停滞
解答例
A(1)英仏などは金本位制の下で自由貿易を行っていたが、世界恐慌を機に金本位制を停止し、排他的なブロック経済政策への転換を図った。(2)ガンディーが塩の行進を展開するなど非暴力・不服従運動が激化、ネルーの提唱で国民会議派のラホール大会が開かれ、プールナ=スワラージが決議された。(3)第一次大戦中から民族資本が成長するなど経済発展が続いていたが、農産物価格の下落により経済は大打撃を受け、停滞した。(200字)
B
テーマ:日本の支配下で朝鮮がどのように位置づけられたか、その推移を説明する
時期:1920年代後半から1940年代前半
ポイント
1.食糧供給地としての位置づけ
①食糧不足を解決するために、朝鮮では米の増産が推進され、朝鮮は内地への食糧供給地に
2.中国侵略のための基地としての位置づけ
②世界恐慌が起こると、農村の深刻な経済状況を打開するために、関東軍が満州事変を起こし、朝鮮は大陸進出への前線基地に
3.総動員体制の下での位置づけ
③日中戦争勃発後は、内地との一体化が進められ、皇民化政策、神社参拝の強制や、日本語教育の強化、創氏改名などが実施
④国家総動員体制が敷かれ、強制連行や徴兵制が実施された。
解答例
B日本の食糧不足を解決するために、朝鮮では米の増産が推進され、朝鮮は内地への食糧供給地に位置づけられた。世界恐慌が起こると、農村の深刻な経済状況を打開するために、関東軍が満州事変を起こし、朝鮮は大陸進出への前線基地となった。日中戦争勃発後は、内地との一体化が進められ、皇民化政策、神社参拝の強制、日本語教育の強化、創氏改名などが実施された。また、国家総動員体制が敷かれ、強制連行や徴兵制が実施された。(200字)