大西洋革命とは
18世紀後半から19世紀前半にかけて、大西洋をとりかこむようにして、新しい価値観をかかげる政治的な動きが勃発した。
従来は、アメリカ革命やフランス革命だけが大きく取り上げられることが多かったが、当時の世界の状況全体を見てみると、ハイチの独立運動(1801年開戦・1803年勝利、1804年独立宣言、1805・06年憲法制定)、ベネズエラ・ブラジル・キューバなどでの黒人奴隷解放運動、ラテンアメリカ諸国(ベネズエラ、パラグアイ、コロンビア、アルゼンチン、チリなど)の独立、ポーランド独立運動、ロシアのプガチョフの乱など、同時期にさまざまな運動が相互に影響し合いながら生じる現象がおこっていることがわかる。
そこで、これらを総称して環大西洋革命(大西洋革命)と呼ぶのである。
よりグローバルな視野で、同時代の政治的変動をとらえようとする見方もあるが、ここでは大西洋をぐるっと取り囲む地域(特にアメリカとヨーロッパ)に限定してみていくことにしよう。
プガチョフの乱
まずはロシアからはじめよう。
1762年ロシア皇帝に即位したエカチェリーナ2世は、1766年に「訓令」を発布。そこには、フランスの啓蒙思想家モンテスキューの『法の精神』の影響もみられる。
ヨーロッパ的な市民の自由や法の前の平等を掲げる一方で、強大な皇帝支配は維持する。その後もロシアが抱え続けることになるジレンマである。
矛盾は噴出した。1773年、エカチェリーナ2世統治下のロシア帝国で、コサックによる大反乱がひきおこされたのである。
では、プガチョフは何を主張したのだろうか。彼の陣営が作成したマニフェストをみてみよう。
プガチョフ陣営の思想は、農民たちが抱いていた神の代理人としてのツァーリ(皇帝)信仰を利用したものであり、フランス啓蒙思想とは直接の関係はない。
だが、「訓令」を発出した1766年、エカチェリーナ2世はイギリスと英露通商条約を結び、輸出関税を引き下げたことが、国内における農奴にしわよせを与え、多くの農民がウラル方面へ逃亡するきっかけとなったという見方(たとえばウォーラーステインによるもの)もある。
アメリカ革命
ロシアでプガチョフの乱が勃発しようとしていたころ、イギリスの北アメリカ植民地(13植民地)の情勢も、風雲急を告げていた。
18世紀に入りスペイン継承戦争(1701〜13)と七年戦争(1756〜1763、北米ではフレンチ・インディアン戦争(1754〜63))に勝利したイギリスは、カナダ、ミシシッピ川よりも東のルイジアナ、フロリダなど、北アメリカ大陸東部の大部分を獲得し、植民地化をすすめていた。
フランスを駆逐したイギリスは、植民地ごとに自治を認める従来の政策を転換し積極的に介入する方針をとるようになった。
たびかさなる戦争によって財政状況が悪化し、課税を強化したり植民地との貿易を統制する必要に迫られたためだ。
こに対する植民地議会の抗議の声が高まり、印紙法反対運動(1765年)やボストン茶会事件(ティーパーティー)(1773年)などが発生。本国との緊張が高まるなか、ジョージアを除く12の植民地がフィラデルフィアで第1回大陸会議を開催。翌年1775年にはイギリス軍とマサチューセッツ民兵の衝突により、アメリカ独立戦争の火蓋が切って落とされた。
1776年に発表されたアメリカ独立宣言には、イギリスの思想家ロックの社会契約説やフランス啓蒙思想の影響が見られる。
ヨーロッパのフランス、スペイン、オランダは、イギリスとの対抗上植民地を支持したから、戦局は植民地に有利に傾いた。
イギリスは1781年のヨークタウンの戦い後、1783年に和平条約であるパリ条約で独立を承認するも、13植民地では新しい政体をめぐって激論が続いた。
「イギリスからせっかく独立できたのに、また国をつくる必要があるのか。旧植民地を単位にした邦が、ゆるやかな協力関係を維持すればよいのではないか」という反対意見もあったのだ。
協議の結果、1787年のフィラデルフィア会議で憲法案が採択、1788年に批准発効され、アメリカ合衆国が建国されることとなった。
特筆すべきポイントは、国家が議論によって成立したという事実だ。まだ見ぬ国家のために、ゼロから憲法が制定された。これは画期的なことである(過程については以下を参照してほしい)。
フランス革命
アメリカ革命の報は、同時代のフランスにも伝わっていた。
フランス国王ルイ16世は開明的な君主で、財務総監としてテュルゴを任命し、免税特権をもつ第一身分(聖職者)・第二身分(貴族)にたいする課税、ギルドや国内関税の廃止を試みた。
しかし、その政策は身分制にもとづく社会原理に挑戦するものであり、するどい反発をまねいた。
他方、18世紀を通してフランスは、イギリスとの植民地をめぐる戦争に敗退を重ねていた。国家は破綻寸前であり、国王にとって第一身分(聖職者)・第二身分(貴族)にたいする課税はもはや不可欠であった。
こうしてフランスでは、貴族(アリストクラート)たちが、中央集権化をめざす国王・政府にたいして、特権をまもるために立ち上がった。
これが第一の革命勢力だ。
一方、そのような特権身分に反対する勢力もフランスでは成長していた。第三身分(平民)のなかでも、ビジネスで成功した裕福で富裕なブルジョワジーだ。
かれらブルジョワジーは、自由な経済活動を受け入れた一部の特権身分と合流し、身分にもとづく社会ではなく、実力(どれだけたくさん富をたくわえたか)にもとづく社会をめざして立ち上がった。
これが第二の革命勢力である。
だが、第三身分(平民)のみながブルジョワジーのように富をたくわえているとはかぎらない。第三の革命勢力として、民衆がいる。その日暮らしをしている貧しい都市民もいた。選挙権をもたぬ彼らにとって、政治的な訴えは、蜂起や反乱を通しておこすしかない。
1789年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃事件も、彼ら民衆による直接行動のひとつであった。
同じく直接行動をおこした第四の革命勢力に、農民がいる。
当時のフランスにおける最大勢力だ。
ひとくちに農民といっても、領主による有形無形の支配を受ける農奴や、土地を借りて生活する小作農などさまざまだが、彼らの多くは、さきほどの民衆と同じく新しい社会原理である「お金を通じた交換にもとづく経済」にしばしば抵抗した。
たとえば、商人が食料を買い占め、食料価格がつり上がったとする。そのとき、人々は団結して商人の館を襲うのである。
前近代において、お金という冷徹な指標が、人々の命や生活を脅かしたとき、民衆や農民にとっての正義が立ち上がる。この原理をモラル・エコノミーという。
農民にとっては、農村における入会地(共有地;コモンズ)のような、共同体に属していれば誰でも使える権利を守ろうとする運動や、大規模な土地で人々を働かせて収益をあげようとする農業資本主義への抵抗運動という形をとって現れた。
フランス革命は初期のころから、これら貴族(アリストクラート)、ブルジョワジー、民衆、農民の4勢力がくっついたり、離れたりしながら推移していったとみることができる。この分析視角を「複合革命」論という(下記リンク参照)。
「自由」「平等」「友愛」といった革命のメッセージは、いったん発せられると、それぞれの革命勢力に都合のよい形でよみかえられ、さまざまなシンボルとして散種され、読み取られていく。
しかし、革命は1792年4月の立法議会(1791年10月〜92年9月)によるオーストリアへの宣戦布告以降、伝統的な君主制・身分制の原理を守ろうとする周辺諸国との戦争を招いた。1792年にはイギリス首相ピットにより第1回対仏大同盟が結成され、全ヨーロッパをまきこむ大規模な戦争へと発展する。
それとともに、共和政廃止の機運が高まり、男子普通選挙により招集された国民公会(1792年9月〜1794年)が王政を廃止し、戦争指導のために国民総動員令を敷いて、「恐怖政治」(テロル)とよばれる独裁政治が進められた。
これに対し、1794年のクーデタがおこると、1795年には革命のいきすぎにブレーキをかける穏健な総裁政府が成立するも、民衆による社会を変えようとする動きに歯止めがかからず、周辺諸国との戦争も継続された。
軍事力を背景にしてこれを打開し、強大な権限を握る統領政府を建てたのがナポレオンだった。
彼は革命によりうちたてられた「能力により階層化された社会」の原理を定着させつつ、社会の安定化を図ろうとする。
そのために必要なのは、海上覇権をにぎるイギリスと、ヨーロッパの大国オーストリア、プロイセン、ロシアの軍事的な制圧だ。
ナポレオンはヨーロッパ各地に侵攻し、一時イギリスとロシアを除くヨーロッパ大半を支配したものの、1812年のロシア侵攻に挫折し、1813年の諸国民戦争での大敗を機に1814年にパリは陥落。フランスではブルボン朝による王政復古が実現した(1815年にナポレオンは一時権力を再掌握したが、ワーテルローの戦いでイギリス・プロイセンに敗れ、セントヘレナ島に流された。これを百日天下という)。
ラテンアメリカの革命
フランスにおける革命や、ナポレオンが一時イギリスとロシアを除くヨーロッパ大半を支配した影響は、ラテンアメリカにも及んでいた。
ハイチでは、フランスの啓蒙思想を吸収した黒人奴隷の指導者トゥサン・ルーヴェルテュールによって、フランスからの独立をめざす運動がひきおこされた。
また、その多くがスペインの植民地であったラテンアメリカでは、本国がナポレオンに占領されたため、独立の機運が盛り上がった。
ハイチのように黒人奴隷による独立運動もおきたものの、結局のところ独立運動の主体となったのは、ラテンアメリカ生まれの白人支配者(クレオール;クリオーリョ)だった。
当時海上覇権を握っていたイギリスは、植民地からスペイン勢力を一掃する好機ととらえ、ラテンアメリカの白人支配者による独立運動に手を貸した。
そのため1825年にはラテンアメリカ諸国の大半が独立を達成する。
植民地の白人支配者が中心となり、ヨーロッパの啓蒙思想の影響を受けて独立をめざしたという点では、アメリカ革命とまったく同じ構造である。
ついついアメリカ革命ばかりを特別扱いしてしまいがちだが、両者を、同じ構造をもつ「クレオール革命」ととらえて扱うことが必要だ。
両者を比較するは、その後のアメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国の歩みの違いがなぜ生まれたのかを考える上でも重要だ。
まとめ
このように、大西洋革命の背景には、身分制を基盤とする社会から、富の多寡にもとづく社会への転換があった。
当時の世界商業の覇権はイギリスがにぎっており、その利益にあずかるには、イギリスに商工業の面で追いつくことが不可欠だった。
さもなくば、イギリスへの経済的な従属がますます進むことになる。
アメリカ革命、フランス革命・ナポレオンは、国家を中央集権化させる必要があり、国家の単位を法の下の平等の「国民」を単位としたほうがよいことが示された。
しかし、その過程で、ロベスピエールやナポレオン、ハイチの支配者といった独裁者も現れた。
民主主義を程度まで認めるべきかをめぐっては、変わりゆく社会のなかで模索が続くこととなるが、とりいそぎいずれの国においても、民衆や農民、それに女性や奴隷の政治参加はおさえられる方針がとられていった。市民社会における政治の主体は、あくまで教養と財産をもつ成人男性に限られるべきだとされ、女性の権利はむしろますます制限されていくことになった(オランプ・ド・グージュの『女権宣言』は以下を参照)。
また、「平等」の理念が掲げられたからといって、ただちに奴隷制が廃止されたわけではない。
たとえば、アメリカ合衆国やラテンアメリカ諸国では、独立の主体となったクレオールのほとんどが奴隷所有者だった。
このように、大西洋革命は、新しい社会の原理を世界に示した一方で、新たな課題も数多く提出した。
とくに「国民が政治の基本となる考え方や運動」を指すナショナリズム(国民主義)をどのように実現するべきかは、世界商業への統合の度合いや、国内の産業構造、それぞれの地域の歴史的実情にあわせて、次の世紀に課題として残されることとなる。