突厥の台頭
中央ユーラシアのうち、以下の地図中のステップにあたる地域が、遊牧民の活動エリアである。
6世紀のなかばになると、トルコ系の遊牧民の突厥(とっけつ)が、柔然をたおし、モンゴル高原の覇者となった。
突厥は、西方ではエフタルを滅ぼし、タリム盆地やアム川・シル川流域のオアシス都市と協力関係を結び、広大な遊牧帝国を築いた。
商業民のソグド人の交易活動が拡大したのも、突厥が中央ユーラシア大陸広域に秩序をもたらしたおかげである。
また、西方のビザンツ帝国とも外交関係を結んでいた。
隋の中国統一
中国は、北方の突厥の拡大におされていたが、6世紀末、北周の外戚であった楊堅(文帝)が、渭水流域の大興城を都に隋をたて(581年)、589年に南朝の陳を併せて、南北を統一すると、情勢は変わる。
州県制と科挙により中央集権化をはかった隋の影響は、西域にもおよび、突厥は東西に分裂した。
その支配はベトナムにもおよんだが、2代目の煬帝が高句麗遠征を三たび失敗させると、反乱がおこり、滅亡した。
隋の王朝は婚姻を通じて鮮卑の拓跋氏につらなり(拓跋国家ともよばれる)、北朝以来の胡漢融合政権のひとつとみることができる。
また、中国の南北を結ぶ大運河を開削し、南北朝時代以来開発のすすんでいた江南を華北と連結したという点でも、隋の果たした歴史的意義は大きい。
唐の中国統一
混乱のなかから新たな王朝を立てたのは、やはり鮮卑にルーツをもつ李淵(高祖)であった。
618年に第2代の大宗が中国を統一し、勢力を拡大していた東突厥を打倒した。
太宗と遊牧民との関係を、史料から読み取ってみよう。
こうして、東部ユーラシア東部から中央ユーラシアにおいて、
遊牧民が軍事を、
オアシス民が商業を、
農耕民が生産をになう、分業システムがあらわれた。
唐の軍事力の主力は、トルコ系の遊牧民をはじめとする騎馬軍団であり、これはユーラシア西方の中東でいえば、奴隷軍人マムルークに相当するわけである。
唐の支配領域を地図でみると、北方のモンゴル高原、西方にはソグディアナにまで広がっているが、これはようするに、遊牧民の本拠地(西突厥、鉄勒、東突厥)=モンゴル高原と、商業民(ソグド人)の本拠地=ソグディアナを包摂し、異なる生業の人々とのあいだに相互依存関係を築いていたということだ。
生業が異なるし、特に遊牧民に対して直接支配を及ぼし続けるのは難しい。
しかし、唐の皇帝には、支配の正統性を誇示しなければならない都合もある。
漢以来、中国の皇帝は、周辺諸国に対して冊封をし、朝貢をさせることで、国際秩序を保とうとし、その理屈を儒教によって組み立ててきた。
高句麗の滅んだ後の沿海州では698年に渤海(ぼっかい)が建国され、唐と衝突もあったが冊封を受け、律令制が導入された。
676年に朝鮮半島を統一した新羅(しらぎ)も、同様に冊封を受けている。
日本(倭)は遣唐使をおくり朝貢をしているものの、冊封は受けていない。
新羅は三国統一の時期には日本との関係を重視したが、その後唐に接近したために、高く扱われた。そのことは、次の史料からも読み取れる。
また、唐の西南部の南詔は冊封を受けている。
ほかにも東南アジア諸国(カンボジアの真臘、南ベトナムのチャンパー、スマトラ島周辺のマレー人の国シュリーヴィジャヤ)は朝貢使節を送っている。中国にとっても、熱帯産物を産出する東南アジアは、きわめて重要な地域であった。
けれども、たとえば、突厥や、同じくトルコ系のウイグル、さらにチベット高原の吐蕃(とばん)王国に対して冊封(さくほう)できたとしても、それはあくまで形式的な儀礼にすぎない。
冊封できない場合には、皇帝の親族を嫁がせることもあったし、冊封・朝貢の関係になくても交易を認める場合もあった。
あくまで状況に応じて現実主義的な対応がとられたのである。
というわけで、形式的にではあれ、外交を取り結ぶことのできた地域では、その土地の民族の首長に統治を委ねるのは至極当然のことだ。
都護府という官庁をおいて監督するほかは、乾燥地帯(遊牧民の草原地帯と、商業民の砂漠地帯)の統治は現地の人々にまかせた。
魏晋南北朝時代以降に模索された他民族共生の統治システムを実装した世界帝国の実現である。
これらの国々の間には、唐の律令、漢字、儒教、漢訳仏教、長安をモデルとする都城が導入されていった。ただし、一律に採用されていったわけではない。たとえば遊牧民たちば漢字を用いず、独自の文字(たとえば突厥文字)を用いたし、独自の宗教(ウイグルにおけるマニ教、吐蕃におけるチベット仏教)を信仰する民族もあった。
普遍的な理念を体現した都城プラン
政権は、遊牧民の世界と農耕民の世界、さらにはオアシス民の世界の交わる地点に建てられた。
それはいわゆる「碁盤の目」状の都城プランで知られる計画都市だ。この都市がどのような意図をもって造営されたのか考えてみよう。
①北魏平城
③隋唐長安
④渤海上京龍泉府
⑤平城京
⑥平安京
長安には、シルクロードを通じて西方の文物が流れ込んだ。
たとえばソグド人の女性は胡旋舞を披露し魅了し、ポロという遊牧民のスポーツも流行した。パン(胡餅)や餃子などの小麦粉食品に代表される西方由来の胡食や、胡服も流行した。
ゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教(景教)などの宗教も伝わったほか、在来の道教・仏教の寺院もあった。
また、広州などの海港都市には、アラブ系やイラン系の商人が海路やってきて、交易に従事していた。
唐の統治制度とその変質
唐は隋と同じく律令にもとづく制度を継承し、中央には皇帝の下に三省と六部が置かれ、地方を州県制によって支配した。
また、北朝の諸制度を継承した隋の制度をひきつぎ、均田制や府兵制を実施した。
詔勅の草案の審議は貴族にまかされていたため、皇帝権力は盤石とはいえなかった。
しかし7世紀末には税と労役(租調庸)の負担を避けて逃げる農民を、富裕層がとりこみ、大土地所有が広まった結果、統治が揺らいだ。
唐の政権は8世紀に入ると傭兵をもちいたり、実際の土地や財産に応じて課税する両税法をとるなどの改革をこころみたが、辺境の防備は節度使という臨時官職によって担われるなど、唐の支配はしだいにゆるんでいった。