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2-3-5-1. 隋唐帝国と東部ユーラシア 新科目「世界史探究」をよむ

突厥の台頭


中央ユーラシアのうち、以下の地図中のステップにあたる地域が、遊牧民の活動エリアである。

(出典:岸本美緒『中国社会の歴史的展開』放送大学教育振興会、2007年、44頁)

6世紀のなかばになると、トルコ系の遊牧民の突厥(とっけつ)が、柔然をたおし、モンゴル高原の覇者となった。

突厥は、西方ではエフタルを滅ぼし、タリム盆地やアム川・シル川流域のオアシス都市と協力関係を結び、広大な遊牧帝国を築いた。
商業民のソグド人の交易活動が拡大したのも、突厥が中央ユーラシア大陸広域に秩序をもたらしたおかげである。
また、西方のビザンツ帝国とも外交関係を結んでいた。


 

隋の中国統一

中国は、北方の突厥の拡大におされていたが、6世紀末、北周の外戚であった楊堅(文帝)が、渭水流域の大興城だいこうじょうを都に隋をたて(581年)、589年に南朝の陳を併せて、南北を統一すると、情勢は変わる。

州県制と科挙により中央集権化をはかった隋の影響は、西域にもおよび、突厥は東西に分裂した。
その支配はベトナムにもおよんだが、2代目の煬帝が高句麗遠征を三たび失敗させると、反乱がおこり、滅亡した。

隋の王朝は婚姻を通じて鮮卑の拓跋たくばつ氏につらなり(拓跋国家ともよばれる)、北朝以来の胡漢融合政権のひとつとみることができる。

また、中国の南北を結ぶ大運河を開削し、南北朝時代以来開発のすすんでいた江南を華北と連結したという点でも、隋の果たした歴史的意義は大きい。


唐の中国統一

 混乱のなかから新たな王朝を立てたのは、やはり鮮卑にルーツをもつ李淵(高祖)であった。

618年に第2代の大宗が中国を統一し、勢力を拡大していた東突厥を打倒した。

太宗と遊牧民との関係を、史料から読み取ってみよう。

資料 『唐会要』
諸蕃しょばんの君長たちは太宗に天可汗(てんかがん)という尊号を称するように請願した。太宗は「我は大唐の天子であり、さらに天可汗のつとめをはたそう」と言った。こののちに[太宗]が璽書[注:皇帝の詔書]をを西方や北方の君長たちに下す際には、みな[自らを]え「皇帝天可汗」と称していた。諸蕃の君長で死亡したものがいれば、必ず詔を下してその後継者を正式に承認した。[太宗が]四夷(しい)を統べるのは、このときからである。

こうして、東部ユーラシア東部から中央ユーラシアにおいて、


遊牧民が軍事を、



オアシス民が商業を、

ソグド人をモチーフとした唐三彩 By Gary Todd, CC0 File:Tang Dynasty musicians on camel, 723 ad.jpg, https://ja.wikipedia.org/wiki/ソグド人#/media/ファイル:Tang_Dynasty_musicians_on_camel,_723_ad.jpg
ソグド人はソグディアナから華北にかけて植民し、各地にコロニーを建設した。彼らの中にはモンゴル高原や中国内地に定着する者もいた。
(出典:森安孝夫『シルクロードと唐帝国』(興亡の世界史05)講談社、2007年)



農耕民が生産をになう、分業システムがあらわれた。


唐の軍事力の主力は、トルコ系の遊牧民をはじめとする騎馬軍団であり、これはユーラシア西方の中東でいえば、奴隷軍人マムルークに相当するわけである。

唐の支配領域を地図でみると、北方のモンゴル高原、西方にはソグディアナにまで広がっているが、これはようするに、遊牧民の本拠地(西突厥、鉄勒、東突厥)=モンゴル高原と、商業民(ソグド人)の本拠地=ソグディアナを包摂し、異なる生業の人々とのあいだに相互依存関係を築いていたということだ。

生業が異なるし、特に遊牧民に対して直接支配を及ぼし続けるのは難しい。
しかし、唐の皇帝には、支配の正統性を誇示しなければならない都合もある。

漢以来、中国の皇帝は、周辺諸国に対して冊封をし、朝貢をさせることで、国際秩序を保とうとし、その理屈を儒教によって組み立ててきた。

高句麗の滅んだ後の沿海州では698年に渤海(ぼっかい)が建国され、唐と衝突もあったが冊封を受け、律令制が導入された。

676年に朝鮮半島を統一した新羅(しらぎ)も、同様に冊封を受けている。
日本(倭)は遣唐使をおくり朝貢をしているものの、冊封は受けていない。

新羅は三国統一の時期には日本との関係を重視したが、その後唐に接近したために、高く扱われた。そのことは、次の史料からも読み取れる。

史料 第9回遣唐使(唐の記録)(717年)
玄宗の開元年間の初め、日本国は再び使者を遣わして来朝させた。その使者はその機会に儒者から経書を教えてもらいたいと願い出た。そこで玄宗は…趙玄黙に…教えさせた。日本の使者はそこで玄黙に広幅の布を贈って入門料とした。その布には「白亀(はくき)元年の調布」と書きつけてあったが、中国人は、日本で調として布を納める制度があろうなどとは嘘だろうと疑った。その使者は、中国でもらった賜り物のすべてを投じて書籍を購入し、海を渡って帰っていった。
 その時の副使の阿倍仲麻呂は、中国の国ぶりを慕って…唐朝に仕えて…去ろうとしなかった。

藤堂明保・武田晃・影山輝國訳『倭国伝』「旧唐書」一部改変(『新詳世界史探究』帝国書院、46頁)

史料 第12回遣唐使(日本の記録)(717年)
…正月一日に…朝貢の諸外国の使節は朝賀を行ないました。…唐の朝廷は古麻呂(*遣唐使の副使)の席次を、西側にならぶ組の第二番の吐蕃(*チベット)の下におき、新羅の使いの席次の東側の組の第一番の大食国(*ペルシャ)の上におきました。そこで古麻呂は次のように意見を述べました。「昔から今に至るまで、久しく新羅は日本国に朝貢しております。ところが今新羅は東の組の第一の上座に列(つら)なり、我(*日本)は逆にそれより下位におかれています。これは義にかなわないことです」と。…

宇治谷孟訳『続日本紀』(『新詳世界史探究』帝国書院、46頁)



また、唐の西南部の南詔は冊封を受けている。
ほかにも東南アジア諸国(カンボジアの真臘、南ベトナムのチャンパー、スマトラ島周辺のマレー人の国シュリーヴィジャヤ)は朝貢使節を送っている。中国にとっても、熱帯産物を産出する東南アジアは、きわめて重要な地域であった。


けれども、たとえば、突厥や、同じくトルコ系のウイグル、さらにチベット高原の吐蕃(とばん)王国に対して冊封(さくほう)できたとしても、それはあくまで形式的な儀礼にすぎない。
冊封できない場合には、皇帝の親族を嫁がせることもあったし、冊封・朝貢の関係になくても交易を認める場合もあった。
あくまで状況に応じて現実主義的な対応がとられたのである。

というわけで、形式的にではあれ、外交を取り結ぶことのできた地域では、その土地の民族の首長に統治を委ねるのは至極当然のことだ。
都護府という官庁をおいて監督するほかは、乾燥地帯(遊牧民の草原地帯と、商業民の砂漠地帯)の統治は現地の人々にまかせた。

魏晋南北朝時代以降に模索された他民族共生の統治システムを実装した世界帝国の実現である。

これらの国々の間には、唐の律令、漢字、儒教、漢訳仏教、長安をモデルとする都城が導入されていった。ただし、一律に採用されていったわけではない。たとえば遊牧民たちば漢字を用いず、独自の文字(たとえば突厥文字)を用いたし、独自の宗教(ウイグルにおけるマニ教、吐蕃におけるチベット仏教)を信仰する民族もあった。


史料 玄宗「紀泰山銘」(726年)

東西南北の異民族が、通訳を重ねて我が朝に来貢するのは、歴代帝王の重なる徳化の賜物であって、朕は何にもまして敬慕する。
(竹村則行訳)

『新詳世界史探究』帝国書院、47頁。

58 蠻夷戎狄、重譯來貢、
蠻夷戎狄、訳を重ねて来り貢するは、
(東西南北の異民族が、通訳を重ねて我が朝に来貢するのは、)
○「蠻夷戎狄」…『禮記』王制に「東方曰夷〜、南方曰蠻〜、西方曰戎〜、北方曰狄〜」と。

59□□□□□累聖之化、朕何慕焉。
□□□□□累聖の化にして、朕何ぞ焉を慕はんや。
(歴代帝王の重なる徳化の賜物であって、朕は何にもまして敬慕する。)

竹村則行「唐・玄宗の「紀泰山銘」について(訓訳稿)」、『 文學研究』104、1-33頁、https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD100000&bibid=3630



史料 キョル=テギン碑文(8世紀前半)
(※キョル=テギンは突厥の可汗。中国名は闕特勤(けつとくきん))684年 - 732年)。キョル=テギンの死の翌年の732年に、オルホン川の河畔のホショ=ツァイダムに建てられた碑文。3つの面には突厥文字が刻まれ、もう1つの面には唐の玄宗の漢文が刻まれている。

「タブガチの民はことば甘く、その絹は柔らかい。かれらは甘いことばと柔らかい絹で欺いて、遠方の民をちかくに来させようとする。近づいて住みついた後には、悪い智慧を働かす。甘いことばと柔らかい絹に欺かれて、おおくのチュルクの民は死んだ。」

「ベグ(突厥の支配貴族)となるべき男子たちは、タブガチの民への奴隷になり、ベグ夫人となるべき女子たちはその女奴隷になってしまった。突厥のベグたちは突厥風の名前(称号)を放棄し、タブガチにいるベグたちは唐風の名前(称号)を帯びてタブガチ可汗に服属したという。50年間(タブガチ可汗に)労力を捧げたという。前方(東)へ日出づる所には、高句麗可汗(の国)まで出征したのだという。…」

タブガチとは唐のこと。「拓跋」が語源。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BB%E3%83%84%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%A0%E7%A2%91%E6%96%87 (wikipedia「ホショ・ツァイダム碑文」より)。「突厥三大碑文の中でも最重要なキョルテギン碑文は,当然,突厥文字トルコ 語の文章がメインですが,その一面には,当時,名実ともに世界一の権力者で 大富豪であった唐帝国の玄宗皇帝が贈った御製の漢文銘文が刻されています。 唐帝国にとって突厥はそれほどまでに外交的に重要な存在であったのであり, 当時の日本とは桁違いの扱いを受けたのです。」「全ての鮮卑族が統合したわけではなく,鮮卑の一部である拓跋氏を中核とす る連合体であるゆえに「拓跋国家」という.北周の王族・宇文氏にも北斉の王 族・高氏にも隋の王族・煬氏にも唐の王族・李氏にも,それ以前からの通婚関 係を通して,北魏時代からの拓跋王家の血が混じっている.つまりそれによっ て神聖なる一族に連なっている.しかも北魏王朝から唐王朝までの連続性があ る.それゆえ,これら全体を鮮卑国家とか鮮卑王朝とは呼ばずに,拓跋国家な いし拓跋王朝と呼ぶのである. 以上の事実に関する優れた先行研究として,次の3冊を是非とも熟読して欲 しい.(1)田余慶『拓跋史探』(三聯書店)(田余慶は北京大学名誉教授,現代 中国でもまれに見る碩学,ただし寡作,実は杉山自身に大きな影響を与えた); (2)劉学銚(台湾人)『鮮卑史論』;(3)姚薇元『北朝胡姓考』」(大阪大学・森安孝夫氏による、https://www.let.osaka-u.ac.jp/toyosi/members/moriyasu/moriyasu_tsushin_202103.pdf)


ビルゲ・カガン碑文のレプリカ(アンカラのガズィ大学)(CC 表示 3.0、Original uploader was Kızılsungur at en.wikipedia) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BB%E3%83%84%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%A0%E7%A2%91%E6%96%87#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gok_turk_Epigraph_Copy_in_Gazi_University_Ankara.jpg 



資料 ソグド人(『旧唐書』巻一九八・西戎伝・康国(サマルカンド)の条より)
「ソグド人はみな、目の彫りが深く鼻が高くひげが多い。 男性は髪を短く切り揃え ているか,辮髪である。 その王はフェルト製の帽子をかぶり、 黄金や宝石で装 飾している。 女性は大きい髷を結い, 黒絹の布でおおい, 黄金細工の花で装飾し ている。人々は多く酒を嗜み、 通りで歌や踊りを披露している。子供が生まれれ ば必ず氷砂糖を口の中にいれ, 手のひらには膠をにぎらせる。 子供が成長したら 甘い言葉でつねに人をだまし、つかんだお金は膠にものがつくように離さないよ うにと望むからである。習俗はソグド文字を用い, 商売をよくし、わずかな利益 を争う。男子は二十歳になると, 遠く隣国におもむき, 中国にもやってくるなど, 利益のある所に行かないことはない。」
(その人、皆、深目高鼻にして、鬚(ひげ)多し。丈夫(男性)は翦髪(短く切り揃えた髪)、或いは辮髪なり。その王は、氈帽(フェルト製の帽子)を冠り、飾るに金宝を以てす。婦人は盤髻(大きいまげ)し、うに皁巾(黒絹のキレ)を以てし、飾るに金花を以てす。人は多く酒を嗜み、好く道路にて歌舞をなす。子を生めば必ず石蜜(氷砂糖)を以て口の中に納め、掌の内に明膠を置く。その成長して口は常に甘言し、掌は銭を持つこと膠の物に黏くが如からんと欲すればなり。俗は胡書(ソグド文字ソグド語)を習い、商賈(あきない)を善くし、分銖の利を争う。男子は年二十となれば、即ち遠く旁国に之き、中華にも来適(来たりてゆく)し、利の在る所にて到ら不る所は無し。(中略)隋の煬帝の時、その王・屈朮支は西突厥の葉護可汗の女を娶り、遂に西突厥に臣たり。)

(出典:森安孝夫『シルクロードと唐帝国』(興亡の世界史05)講談社、2007年)





普遍的な理念を体現した都城プラン

 政権は、遊牧民の世界と農耕民の世界、さらにはオアシス民の世界の交わる地点に建てられた。

 それはいわゆる「碁盤の目」状の都城プランで知られる計画都市だ。この都市がどのような意図をもって造営されたのか考えてみよう。

(出典:岸本美緒『中国社会の歴史的展開』放送大学教育振興会、2007年、44頁)

①北魏平城

③隋唐長安

④渤海上京龍泉府

⑤平城京

⑥平安京


資料 計画都市について
① 計画都市はなぜ造営されたのか
「たとえば、北魏の都城である平城や洛陽のプランは、その後、隋唐の長安城へと連なって整然たる都市計画の先駆けをなすものだが、中国古来の古典的理想都市をモデルとしたこの ような大規模な都市計画が、 非漢族の政権によってはじめて実施されたのはなぜだろうか。この都市に入ってゆく人々は、そこに特定の民族の生活文化の匂いを嗅ぎ取るというよりはむしろ、個々の民族文化を超越した普遍的・宇宙的な理念を感じ取るだろう。それは、漢族の都市というよりは、天下のさまざまな宗教・文化に向かって開かれた都市である。そして実際、北魏から隋唐に至るこうした都城は、多言語・多文化都市であり、その住人は、遊牧民や農耕民 を含む多様な種族で構成されていたのである。」(出典:岸本美緒『中国社会の歴史的展開』放送大学教育振興会、2007年、57頁)
② 長安の構造
「[…]長安は、バグダードのように円形ではなく、方形の形態をとっている[…]。それは長安が、「都市は、大地を表象する方形の形態をとることによって、大地にかぶさる円い天の中心と、宇宙軸を通して結ばれる」という中国の都市計画の伝統にもとづいていたからである(図40 宇宙の都)。」
(出典:妹尾達彦『長安の都市計画』講談社、2001年、59頁)

長安には、シルクロードを通じて西方の文物が流れ込んだ。

たとえばソグド人の女性は胡旋舞を披露し魅了し、ポロという遊牧民のスポーツも流行した。パン(胡餅)や餃子などの小麦粉食品に代表される西方由来の胡食や、胡服も流行した。


永泰公主墓壁画 ショールをかけたゆったりとした服装は、故服がみえる。日本の高松塚古墳壁画や、鳥毛立女屏風も、唐代の故服流行を彷彿とさせる。
虢国(かくこく)夫人遊春図(パブリック・ドメイン、https://ja.wikipedia.org/wiki/張萱#/media/ファイル:虢国夫人游春图.jpg)。虢国(かくこく)夫人とは楊貴妃の姉。遊牧民のあいだでは女性の地位が比較的高く、この図にみえるように乗馬のうえ、ポロ競技をたしなむなど、ひじょうに活動的であった


ゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教(景教)などの宗教も伝わったほか、在来の道教・仏教の寺院もあった。

また、広州などの海港都市には、アラブ系やイラン系の商人が海路やってきて、交易に従事していた。




唐の統治制度とその変質

 唐は隋と同じく律令にもとづく制度を継承し、中央には皇帝の下に三省と六部が置かれ、地方を州県制によって支配した。
 また、北朝の諸制度を継承した隋の制度をひきつぎ、均田制や府兵制を実施した。
 詔勅の草案の審議は貴族にまかされていたため、皇帝権力は盤石とはいえなかった。

 しかし7世紀末には税と労役(租調庸)の負担を避けて逃げる農民を、富裕層がとりこみ、大土地所有が広まった結果、統治が揺らいだ。

 唐の政権は8世紀に入ると傭兵をもちいたり、実際の土地や財産に応じて課税する両税法をとるなどの改革をこころみたが、辺境の防備は節度使という臨時官職によって担われるなど、唐の支配はしだいにゆるんでいった。




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