鄭和(ていわ)は、なぜ何度もよみがえるのか? "今"と"過去"をつなぐ世界史(13)
"今"と"過去"をつなぐ世界史(13) 1200年〜1500年の世界
死せる孔明、生ける仲達を走らすというように、英雄は何度もよみがえる。明代の宦官にして武将として知られる鄭和(ていわ)もその一人だが、よみがえりの形は、かならずしも生前のすがたそのものとは限らない。
史上の鄭和は、時の皇帝・永楽帝に見出され、大船団を率いて東南アジア、インド、セイロン島からアラビア半島、アフリカにまで7度にもわたり航海を成し遂げた人物である。
ムスリム(イスラム教徒)であった彼ならば、インド洋各地のムスリム政権と交渉し、朝貢に誘い込むことができると期待されたのだ。
建国当初の明は「海禁」政策をとった
そんな明も、建国当初から海上進出に積極的だったわけではない。
長く続いたモンゴルの支配が終わり、中国は商業ではなく農業生産に重きを置く体制に逆戻りすることになった。
たとえば初代皇帝となった洪武帝は、沿岸地域の治安維持のため、民間商人が勝手に貿易をするのを禁じている。
これを海禁という。
これにより、対外貿易は国家の統制下に入り、朝貢貿易が中国とのあいだで唯一ゆるされた貿易となった。
第3代皇帝の永楽帝は、宦官の鄭和(1371〜1434頃)に南海遠征を命じ、東南アジアなどインド洋周辺の諸国に朝貢をよびかけた。
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なぜマラッカには「鄭和文化館」なる博物館があるのか?
鄭和と現代の結びつきの一つが東南アジアに残されている。
マラッカの中華街入口近くにある鄭和文化館という博物館だ。
観光学者の井出明さんの紹介によれば、この博物館のメッセージは「たくさんの中国人が500年前からここに移り住み、生活してきた」というもの。実際には、マレー系と中華系の間にはで長きにわたる対立の歴史があるし、マレーシア独立後にはマレー人優遇のブミプトラ政策がとられてきた。
マレーの中華街の華僑は、鄭和をもちだすことで、自分たちがここの住民であることを主張しようとする意味があるのだろう(注1)。
だが、マラッカの歴史はもう少し複雑だ。
14世紀にモンゴル帝国が解体し、陸路のネットワークが廃れると、代わって海のネットワークに重心がシフトする。
この変化に乗っかり台頭したのが、タイのアユタヤ王国(1351〜1767)、それにジャワ島のマジャパヒト王国だ。
14世紀末にマラッカ海峡周辺の港市がマラッカ王国として勃興し、この両者と対立。
対抗するために手をつないだのが、明の鄭和だったというわけだ。
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現代の中国で、なぜ明代の武将・鄭和が高い評価を得ているのだろうか?
ところで近年、中国では、冒頭で紹介した武将・鄭和(ていわ)の南海遠征を高く評価し、国家政策に利用する動きがみられる。たとえば2020年の中国国際放送局(国家新聞出版広播総局の管轄)は次のように伝えている。
2005年に航海の日を設定するようになった政府は、2010年代にはいると、今度は「一帯一路」を推進するシンボルとして鄭和を評価するようになっていく。
当時、鄭和が命じられたのは朝貢貿易であり、しかも巨大な艦隊を編成してインド洋諸国にこれを要請した。平和的な交渉によることが基本であったものの、現地勢力の争いに介入することもあり、攻撃による死傷者も出している。純粋に「友情」と呼びうるものではないだろう。
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鄭和は中国ではなく、ムスリムにとってのシンボルだった?
先ほどのマラッカ王国に戻ろう。
鄭和の南海遠征を契機として、マラッカが中国人のみの一大拠点となったわけではない。
というのも、鄭和の遠征が終わり、15世紀のなかばの明は、対外政策を消極化させたからだ。
それにともない、マラッカ王国は香辛料の輸出先を西方のムスリム商人へとシフト。こうなるとマラッカ王国の国王も、イスラームに改宗したほうが得策だ。
こうしてマラッカは、多種多様な民族の集う拠点となっていくのだが、鄭和がなぜ南海遠征を統率するに至ったのか、興味深い説を出しているのが、中国史家の上田信氏だ。
南海遠征のはじまる2年前にあたる1403年、メッカ巡礼に向かった中国にいるムスリムが、マラッカ海峡を通過できず、陸路でタイに向かい、そこで足止めを食らっているというのだ。
当時のマラッカ海峡は、東西に二分して争っていたマジャパヒト王国の勢力の一つ、陳祖義の支配下にあり、安全な航行ができないでいた。
鄭和はこれを憂慮し、マラッカ海峡を華人ムスリムに管理させようと、皇帝に南海遠征を建議したというのが、上田の見立てだ。
たとえば、その名残が、ジャワ島のスラバヤにある、鄭和の名を冠したモスク、鄭和清真寺だ。清真寺とは中国語でモスクを指す。
英語では「MASUJID MUHAMMAD CHENG HOO」。
MUHAMMADとは、鄭和の父の姓が「馬」であると雲南の碑文にのこされていることを根拠とするものだという。
鄭和の祖父・父は、メッカ巡礼という名誉ある経験をもつ。鄭和はこの肩書きをひっさげ、ふたたび海に繰り出そうと、南方の港市を管理できる郷里の人々をスカウトしたのではないかと、上田は見ている(注3)。
このように考えると、現代の中国が主張するような、「鄭和は中国による「一帯一路」のシンボル」といった見方は、ますます怪しくなってくる。
最後に上田氏の考えを引いておこう。
注1 井出明『ダークツーリズム拡張』美術出版社、2018年、32-34頁。
注2 上田信「鄭和と一帯一路構想」2015年、https://web.iss.u-tokyo.ac.jp/kyoten/about/images/2015w_1105_Ueda.pdf
注3 上田信「鄭和とムハンマド・チョンホ―雲南碑文のナゾ」、『ヒマラヤ学誌』17、2016年、154-161頁。
なお、この記事は、https://note.com/sekaishi/n/ndf32fe09bd81を改稿したものである。