【ニッポンの世界史】#37 湯浅赳男の世界史的想像力:ブローデル・梅棹忠夫・ウィットフォーゲル
この連載は主に「戦後」の「ニッポンの世界史」を対象としているが、戦中の見逃せない議論として「京都学派」の世界史をとりあげた(その1、その2)。日本を世界史のなかにどう位置付けるか。これは一筋縄ではない問題だった。東アジアを、そしてアジアの位置付けを、矛盾することなく位置付ける試みは、結局のところ成功しなかった。
失敗は戦後日本に申し送りされることなく忘れ去られるが、「世界史を描きたい」という欲望は、自己イメージとも関係している。高度成長を遂げつつあった日本の自己イメージの変容に合わせ、梅棹忠夫が『文明の生態史観』を世に問うた。
遅れた敗戦国日本は、むしろ西欧型の歴史的発展経路に近いのであり、中国やロシアとは異なる、というものだった。似たような世界史観の変容と論争は、視野を世界に広げれば、敗戦国の東ドイツでも見られた。
その後、「日本はなぜ特殊なのか」をめぐる世界史の語りは、1980年代以降、いっそう盛り上がる。前回の高坂にしろ塩野にしろ(→#36 世界史が語る国際政治や文明の衰亡:高坂正堯と塩野七生)、日本をひとつの主体に据える「文明論」的な世界史をおおらかに語ることができたのは、日本にそれほど余裕や勢いがあった証でもある。
1980年代から90年代にかけては、この後紹介することになる川勝平太や安田憲喜のようにスケールの大きな、言ってみれば鷹揚な「文明論」的世界史の潮流がまだ生きていた。
だが、国力が目に見えて低下する2000年代終わりに差し掛かると、「文明論」の描く図式は、次第に一国の安全保障論や政策論的な囲いのなかへと閉じていくようになる。
この流れに沿うように1980年代から2010年代にかけて世界史論を展開した人物として今回とりあげるのは湯浅赳男(ゆあさたけお、1930〜2019)という歴史家・作家だ。
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湯浅赳男の来歴
湯浅は1930年に山口県に生まれた。1953年に東京大学を卒業、指導を担当したのはフランス経済史の高橋幸八郎(1912〜82)だった(湯浅『フランス土地近代化史論』iii頁)。
1960年代から1970年代にかけてヴァンデ反乱などを対象にフランス土地制度史に関する実証的な研究論文を発表していた(『トロツキズムの史的展開』(1969年)に見られるように、トロツキズムにも接近するが、のちに離れることになる)。
1980年代以降は、その視野を一段と「文明論」へとひろげていくようになる。主に新評論(藤原書店の藤原良雄の古巣)を版元として、晩年の2000年代後半にいたるまで環境史や文明論的な一般書を旺盛に書き続けた。
主な著作リストを以下に挙げておこう。
マルクス主義への懐疑とブローデルへの注目
湯浅の「文明論」に影響を与えた歴史家は、まずなんといってもフェルナン・ブローデル(1902〜1985)だ。
ブローデルはアナール学派(1929年にマルク・ブロック(1886〜1944)とリュシアン・フェーブル(1878〜1956)の二人が創刊した『社会経済史年報』にちなむ、旧来の歴史学を刷新しようとした研究者の一群)の第二世代にあたる。
彼の独創は、「どこどこの国で誰(為政者)が何をした」ことが叙述の基本となる政治史・事件史偏重の歴史にきりこみ、歴史を、世紀単位のゆっくりとした時間の流れである「長期持続」(環境や人間の心性の変化)、数十年単位のサイクルである「中期局面」(経済変動)、日々生起する「出来事」(政治情勢)の3つの層にまたがる「全体史」としてとらえることを提唱したところにある。
日本におけるブローデルの受容は早いとは言えない。
すでにヨーロッパでは「ブローデル帝国」を経済偏重と批判し、人びとの「心性」の叙述をめざすアナール学派第三世代も育っていた(たとえば川口茂雄『表象とアルシーヴの解釈学: リクールと『記憶、歴史、忘却』京都大学学術出版会、2012年の整理がわかりやすい)。
日本におけるブローデル受容には、彼があざやかに描いた「海洋」への関心と交わるようにして広がっていた面もある(→#36 世界史が語る国際政治や文明の衰亡:高坂正堯と塩野七生)。
だが、1980年代において大きかったのはやはり、マルクス主義の発展段階論に代わる、新たな「護符」が求められたという点だろう。
湯浅の研究の根幹にあって、彼自身をブローデルへの関心へとたぐりよせたのも、ほかならぬマルクス主義に対する懐疑のまなざしだった。関心をもつにいたった経緯については、「私のブローデル」という小論(井上幸治編集・監訳『フェルナン・ブローデル:1902-1985』新評社、1989年所収、275-301頁)からうかがい知ることができる。
湯浅はブローデルから、「激動する歴史を追いかけるのではなく、その基底にある「動かない歴史」をみるべき」というエッセンスを引き出す。「文明の個体性に規定されたものとして人間をみる」(同、297頁)ことに、ブローデルの「ジェオイストワール(地政学)」の意義を見出すのである(『文明の「血液」―貨幣から見た世界史』(1988年)の仏語タイトル(副題)はまさにgéohistoireだ)。
ウィットフォーゲルへの注目
湯浅のブローデルの位置付けがよくわかるのは同時期に上梓された『文明の歴史人類学』(新評論、1985年)だ。
当時の歴史学界においては、ウォーラーステインの「近代世界システム論」が注目されていた(当時は日本では未訳。一般に受容されるのは1990〜2000年代)。
しかし湯浅は、唯一の「世界システム」の拡大によって世界史を論じようとするウォーラーステインを批判し、代わりに中国学者・社会学者カール・ウィットフォーゲル(1896〜1988)を呼び出してみせる。
ウィットフォーゲルの所論については、湯浅による説明を引けば、おおむね次の通りだ。
注目したのは、ウィットフォーゲルが「水力社会論」において持ち出した中核・亜周辺・周辺の三層構造の図式だ。
中核とは自立的に文明を生み出した地域。
周辺は、その文明のおよばない地域。
ウィットフォーゲルはその中間に「亜周辺」を設ける。文明から近からず遠からず、絶妙な距離にあって、中核の文明を無理強いされることなく、自由に選び取りながら独自の文明を築いていった地域を指す。
中核が中華文明なら、亜周辺は日本。
中核がロシアやイスラム文明なら、亜周辺は西欧。
——ということになる。
湯浅はさらに一歩踏み込んで、次のように考える。
前近代の文明にあったこの区分は、近代西欧文明以後、いったん不可視化される。
どの程度近代化されているかという基準にしたがって、文明国を筆頭に半開国、未開国というように序列化されていく。冷戦下の第一世界、第二世界、第三世界も、延長線上にあるものにすぎない。
しかし、近代以降の枠組みの底流には、かつての中核・亜周辺・周辺の三層構造がしぶとく生き残っている。
ゆえにこれを見据えないウォーラーステインの論には不足がある、というわけだ。
なお、当時栗本慎一郎(1941〜)の紹介により流行していた経済人類学な見方についても、ポランニーをひきながら、やはり批判している(198〜199頁)。文明を抜きにした人間の営みの捉え方には納得がいかなかったのだろう。
なお、湯浅はウィットフォーゲルが、アジア的世界の歴史が単に農耕民を主体とした社会ではないと見抜いていた点も評価し、先ほどの引用文中にも登場した梅棹忠夫の遊牧民研究にも言及している(同、190頁)。
『世界史の想像力』のあとがきで述べているように、湯浅は自らの結論が、アプローチが違うだけで、梅棹とほぼ同じにいたったことをを認めている。
このことについては後ほど詳しく触れる。
地球環境問題への関心
湯浅は1990年代に入ってからも世界史を包括的に叙述しようとする試みをとめなかった。そのなかで、地球環境問題の危機について、いっそう多くの頁を割くようになる。
たとえば『世界史の想像力』(1996年)では地球の置かれた課題の一つとして次のように「地球環境問題」を位置付けている。
近代文明は「アメリカ的段階」に行きつき、その帰結がエネルギーの爆発的な使用増とそれによる地球環境問題をもたらしていること。
そして、今後その動向が周辺部、すなわち人口爆発を迎える途上国に波及すれば、地球環境問題はさらなる悪化をみるだろうということ。
これらがここでの論点だ。
人口爆発により資源・エネルギー問題が深刻する。したがって、途上国における人口爆発に処置をほどこさねばならないという「新マルサス的」な論調は、当時としては珍しいものではない。
湯浅もかなり早い時期からエコロジカルな危機に対する関心をもっていた(注)。
たとえば1981年の土地制度史に関わる書籍の冒頭には「〈近代〉の文化システムがこれに内在する論理によって展開するなかで、人類をエコロジカルな危機に追い込んでしまっている」(『フランス土地近代化史論』3頁)とある。そこには「近代」を目標に掲げた戦後史学(すなわち師である高橋)を乗り越えようとする展望も含まれていよう。
「ほとんど動かない歴史」への注目:地政学的世界史へ
マルクス主義への懐疑とブローデルへの心酔、ウィットフォーゲルの再評価を通した「文明」への関心、エコロジー危機に対する注目。
そこから導き出される湯浅の世界史観をまとめれば、以下のようなものとなる。
こうしたことを構想する力を、湯浅は「歴史的想像力」と表現する。
ブローデルにはじまり、ウィットフォーゲルを経由した湯浅の所論は、こうしてユーラシアの中核と亜周辺(東アジアにおいては中国と日本)の両文明の埋めがたい懸隔へと着地する。
人間の活動は大地に規定されている。言い換えれば、世界各地の民族は、その活動する大地に方向づけられた「文明」を宿している。
だからこそ、文明と文明の間には抜き差しならなぬ断絶がある。
人類が一律「近代化」に向かうなどという展望(→#19 「戦前」やアジアと向き合う世界史は可能か? : ロストウ・ライシャワー・竹内好)は、あまりに単線的で非現実的だ、というわけである。
湯浅の発想は、1970年代にリバイバル・ブームを果たした「地政学」にも近しく、著書においてもマッキンダーに言及している。
1990年代以降、世界各地でかつての冷戦秩序では説明のつかない事態が噴出するようになると、湯浅は大地に紐づけられた文明の "生命力" に、ますます確信を強めていくことになる。
2001年の同時多発テロ後には、次のように予言めいた文章をのこしている。
ちなみにここでいう「五大帝国」とは、ローマ帝国、中華帝国、ビザンツ帝国(ロシア文明の源流)、イスラーム帝国、ヨーロッパ帝国のことを指し、文明の衝突でアメリカ帝国は崩壊し、ロシア帝国、イスラーム帝国、中華帝国が復活するという見立てだ。
イデオロギーが霧消し、アメリカのグローバリズムが全面化するかに見えたそのとき、大地=文明の古層がむくむくと露出する、というわけである。
アメリカ同時多発テロがゼロ年代の想像力(宇野常寛)に影響を与えたといわれるが、その後2020年代までの「ニッポンの世界史」の道行きをふり返ってみると、決断主義的な想像力は、湯浅のブローデル解釈「動かない、あるいはほとんど動かない歴史」としての大地(「ブローデルを語る」『フェルナン・ブローデル』新評論、1989、277頁)にある種リアルな信憑を与え、世界史の地政学化・安全保障化の一つの類型を提供することとなったようにも思える。
実際、世界史を帝国や文明に規定されたものとして描く方向性は、2010年代以降の世界史ブームにも引き継がれている。
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環境史の文明論的解釈
もちろん湯浅が「第二地域」の文明について学ぶことにまったく意味がないと言っているわけではない。
1996年の『日本を開く歴史学的想像力』では、インド文明も中国文明も、これまで幾度も環境と衝突してきた歴史をもつとして、山折哲雄に影響をうけたことを明かしつつ、次のように締めくくっている。
なお、環境問題を文明の問題にひきつけて「世界史」の中で論じていこうとする方向性は、2000年代にかけて安田が担うようになっていく。
こちらはゆくゆく取り上げることにしたい。
1980年代のニッポンの世界史:脱亜と脱欧米
さて今回、湯浅赳男という、現在ではあまり読まれなくなった著者をとりあげたのは、歴史学だけでなく一般書やカルチャーとのせめぎ合いの中で形成されていった「ニッポンの世界史」をたどるこの連載にとって、ある意味でそのあり方を最も体現しているといえるのではないかと見るからだ。
1970〜2000年代にわたる長期にわたり文筆活動を続けたことから、その変遷だけでなく、一貫する問題意識が何であったのかもとりだしやすい。
今回挙げたいくつかの著作のとおり、湯浅の探究の根底にあったのは、「日本がいかにユーラシアの世界史の潮流と違うのか」という問いであることはまちがいない。もちろん実際問題として、さまざまな面で、ユーラシア大陸と異なる要素が日本でみられることもまちがいない。
だが、ここで注目しているのは、かくも違いを見出そうとする「目的」や「意識」のあり方のほうである。
結論からいえば、湯浅にも、これまで見てきた「ニッポンの世界史」の一つの底流に流れる「脱亜」の思考が流れている。
異なる回路を通じて先述の梅棹と同じ結論に至ったのも、その思考が通底しているからにほかならない。
地政学的な世界史叙述は、「世界史の中の日本の位置付け」を盤石なものにしたいという意識と歩調をあわせるようにして、2010年代の「ニッポンの世界史」へと向かっていくことになると思われる。
だが、道は直線的には伸びていない。
道中に重要な契機として浮上するのは、「脱亜」のみならず「脱欧」「脱欧米」の思考だ。
成熟社会を迎え、「Japan as No.1」と評せられるに至った1980年代の日本において、「脱欧」「脱欧米」の思考は、「ニッポンの世界史」の形成に、大きな影響を与えていくことになる。
次回はこのことを1980〜90年代に流行した「比較文明論」(注)的な世界史叙述の動向を確認することで、あとづけていくことにしたい。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊