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大切について。

なぜ写真を撮っているのか。

うーん、正直よく分かってない。
始めた理由がカメラを首から下げて天神を歩いてるとモテそうっていう不純な動機だっただけに、改めて問われるとムズイ。

でも、最近何が撮りたいかは結構分かってきた。

多分大切な何かを撮りたいだけなんだよね。
結構抽象的で、かつシンプルな話なんだけど。

仕事で撮る写真にはもともとお題があって、じゃあそれをどう表現するかってのが商業的に僕らに求められる部分だ。じゃああらかじめ用意されたお題が無い中で、それでも撮りたいと思えるものが本質的な写真に期待する欲求なんだろうなって。そう思ってここ一年くらい考えてきた。例えば、自分の気持ちをうまく言い表せない人が写真っていう表現を通してある種アウフヘーベン的にアウトプットする在り方。これも1つだし、社会への皮肉、アンチテーゼなどテーマに沿った表現ベースってのもあると思う。

オレ、なんかそういうの無いな〜。って思ってて、だから仕事の場以外での活動、よく聞く作品撮りって言葉が性に合わなかった。たまにクリエイターって表記されることがあるけどそれも全然腑に落ちなくて、オレ何も創り出して無いんだけどな、、、って。ただそこにいる人やモノを個人的にしっくりきた瞬間だけ切り取ってるような、0→1というよりは1→10のような、そんなかんじ。

でも、最近「大切」って自分が感じる瞬間にすごく目を向けるようになった。これって多分、事故ってマジ死ぬってと思ったときに真っ先に思い浮かんだのが大切な人にしっかり感謝を伝えればよかった、とか、好きだった人に好きだとちゃんと伝えればよかったとか、すごく言動で伝える類の後悔が押し寄せた体験に紐づいてる気がする。似合ってなさすぎて自分でも意外やったけど

大切って言葉は何層ものグラデーションになってる気がしていて、それは愛とか恩とか憧れとか、その他もっといろんな感情がそれぞれ複合的に混ざり合った結果のひとつの帰着点だと思う。

まぁ今後伝えられるかはわからんけど、伝える努力はしてみようかなって思ったし、前は考えたこともなかったけど本当に自分が大切だって思える瞬間ともっと向き合ってみたいって、そう思った。全く同じ後悔は二度としたくないし

ちょっと話逸れたけど、「大切」の概念って日々変わってはいると思うのね。刹那的ではあるんやけど、その瞬間は超本気なわけ。なんかそのキラキラしたようなドシッと重いような、そんな今思う大切を写真に残していきたいなぁと、そう思うわけです。

僕は、僕の大切と向き合うために、
写真を撮り続けたい。

…どこのコラムニストだよ。まぁ年の瀬だし許せ





安東

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