写真を仕事にした。ということ
どうも、ご存知安東です。
先日のはなし。
「じいちゃんが死んだ」
とある先輩の言葉が僕の受話器口に響いた
あれは一昨年の初秋だっただろうか
もうじいちゃんが長くないから親族での写真を撮ってほしい。
という連絡がきた
そんな重いテーマの写真を撮れるんかいな…
と不安を感じたのが正直な感想だ。
しかし先輩から直々の依頼、引き受ける以外に選択肢がなかった
当日のことは撮影内容とは
別の意味でもよく覚えている
快晴だった。
そして写真を通して僕が初めて、
仕事として、お金をいただいた日だ。
親族の方々曰く、外出できるほど体調が優れたのは奇跡に近かったそう。
----------------------------------------------
そのときのご縁もあり、お通夜に参列し線香をあげに行くことになった。
少し気の重いエレベーターを出て会場に入ったとき、思わず僕は息を飲んだ。
あの日、僕が撮影した写真が遺影として飾られていた
親族で話し合って全員一致でその写真になったのだと。
写真を撮ってくれてありがとう。本当にありがとう。と向こうのお母様が、何度も何度も涙を流しながら僕に伝えてくれた。
その日、僕は日中お宮参りの撮影だった。
「一生に残る写真を僕に任せていただいて光栄です。」
とお伝えしていたし、その責任に対して自覚もあると思っていた
でも、実感は湧いていなかったかもしれない
自覚もなかったかもしれない
一生に残る写真を撮るということは、生涯記憶に紐付き寄り添うということだ。いつでもあの日に還ることのできる引き出しを増やすということだ。
僕が今させていただいている仕事には、それだけの重みもあるのだと気づけた昨晩、不謹慎かもしれないが写真を撮っていて本当によかったと思えた。
カメラを首からかけてるとモテそう。
という不純な動機から始まった写真を撮るという行為は、今では誰かの人生の一部をカタチにしている。一生の一端を担う仕事なのだということを肝に命じて、誇りと自覚とともに生きていたい。
一昨年の晴れた初秋から、僕は立派にカメラマンだった