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構造色の生命に
昨年、隣町のCDショップが閉店してしまって、より一層CD文化の衰退を身近に感じる。
元をたどれば、人々のCD離れはここ数年で始まった現象ではない。実際には'00年代の終わりにはその片鱗を見せていて、それがコロナ禍を経てさらに加速し、顕在化した。デジタル配信、サブスクの台頭。音楽市場は効率化され続ける。しかし、CDが市場から消えることはない。私にはそんな妙な確信めいたものがある。なぜならば、「音楽を現物として手元に置く意味」があるからだ。
直径12cmの構造色の円盤の中に、作品が宿る。本来、刹那的なものであるはずの"音"がその上では半永久的に生き続ける。ある一瞬の音色は、何年後も変わらずにスピーカーのコーンを震わせる。円盤を回せばメロディが鳴る。
もっと極端に。あなたは好きな歌手のCDを買ったとする。そのプラスチックのケースの中に、その人がいる。円盤の上で歌をうたい、ギターを弾く。そこには確かに、生身の人間の生命が宿るのだ。
私はつねづね、CDの存在意義は単なる記録媒体という用途以上に、製作者の「意思」を実体として反映した"器"である、という部分にあると思っている。むしろそれこそが、生産コストの割に利益の上がらないCDが流通し続ける理由ではないか。
仮にいつかCDが消えるなら。つまり、人の「意思」を収める"器"が無くなるなら、そのとき、音楽もまた死ぬのだろう。