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名前(記号)のはなし



小説書きを引退した今でも、ペンネーム「瀬島」の由来を聞かれることがある。ちょうどいい季節だったので、そういう話をしようと思う。

この季節になると思い出すことがある。

22、3のクソガキだった頃、好きを拗らせて苦しくなるほど好きな人がいた。優しくて、穏やかで、でもどこか脆くはかない、熟れた桃のようにあやうい人だった。 つきあっていた半年のあいだ、ほとんどずっと苦しかった。

今ならわかることだけれど、この苦しさはどこまでも自分勝手な性質のものだ。でもそれは当時の余裕も金も時間もないクソガキの私にはわからなくて、夜な夜な泣きながら詩や小説を書いては個人サイトにアップしていた。クソ若かった。

クソガキなりにその人のことは大切にしたいと考えていたはずなのに、辛そうな背中になんの言葉もかけてやれず、黙って抱きしめることも、適切な距離をはかることも出来ず、ただ毎日毎時勝手にあふれ出る苦しい好きを持て余していた。

苦しさをその人にぶつけることだけはするまいと思っていても、あれはたぶん、その人のもろいところにじわじわと滲みていってたのだろう。

前触れなく別れを切り出されたときはただただ取り乱して、ひどいことをされたと酔って打ちひしがれていたけれど、あの時のクソガキが今ほどでなくとも抱擁に長けたおとなだったなら、すこしくらいはその人にとって穏やかな時間をあげられたのかもしれない。悪いことをしたと、今なら思う。

それくらいのクソデカ感情がそう簡単に思い出アーカイブに入るはずもなく、ちょっとしたことで半年の日々を思い返してはボドボドに落ち込み、バカをやって消耗するという不毛なことを何度も繰り返した。酒も飲んだし、好きじゃない男とも付き合った、夜中に高速を飛ばして何処にも行けずただ帰るだけのドライブもした。

数年後、オーダーメイド小説書きの仕事に応募する機会があって、私はなぜかペンネームをその人の名前(HN)にした。決して同じ名前を名乗りたかったからじゃない。名前を思い出すたびに苦しいのなら、いっそ名前を自分のものにしてしまおうと思ってのことだった。自分がその名前で呼ばれ続ければ、その名前が自分のなかで普通になれば、名前に紐づいた苦しい記憶を引き出さずにすむのではないかと思ったのだ。

結果からいうとこれは覿面に効いて、私の心は少しずつ穏やかさを取り戻していった。ハッピーエンドが得意なオーダーメイド小説書きの瀬島さんとして、心安らかに創作活動を楽しめた。これ以上、その人のことで苦しまなくていいことにほっとした。

もう何年も前のことだ。

あの苦しさは今でも時折爪を立てて胸を掴んでくるし、背中を向け合って眠れなかった時間の無力さを忘れることはきっと無い。

それでも、ひょんなことから元気で生きているのを知って、苦しさよりも先に安堵の気持ちがあったことが嬉しかったので、本人には届くかはわからないけれど、備忘録としてここに記しておく。

もしも届いたとしたら、きっと笑われるだろう。

君は相変わらず、優しいけれど馬鹿だねって。

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