優しいオタクは優しいけど、別に優しくない

いみわからんタイトルですみません。前の投稿から2ヶ月ほど経ちました。最近女の子からめちゃくちゃ恋愛相談を受けます。たぶん人選ミスだと思います。

今回はいわゆる「優しいオタク」の話をします。

“優しいオタク”と“ヤンキー”

全世界で約1億人がアクセスしているといわれている最果て村、Twitterランド。ここでは“モテ”における暴力性(?)の議論が活発に行われている。男性のモテには暴力性が強く関与しているというのだ。確かに高校生のころを思い出せば、マジメに勉強をして誰とも喧嘩をしない優等生のオタクよりも、髪を染めてきて同級生を殴るヤンキーのほうが彼女がいたような気がする。

暴力性が足りないと、人柄がよくても男性はモテない、というと、これにはそれなりに異論があるだろうが、そういう意見もある。

まあ、端的に言えば頼りないのだ。まったく他人と争わない、他人に勝とうとしない、という男では、いざ危険が迫った時に私を守ってくれるのだろうか? というような不安を感じる。こういわれてしまえば、普段から殴る必要こそなくても、必要に応じて殴れることが必要というのはわかる。

だからこそ、壁ドンおもしれー女が流行るのだ。アットエットソノ…とキョドって、女一人支配できないような男ではいかんのだ。と、ここまで行くとややぼくのバイアスが強まってしまうが、まあ、そういうタイプの論である。

ヤンキーと対局概念の“草食系男子”

「優しいオタク」という言葉を使うことの方がおおいかもしれないが、いわゆる、暴力性をもって女を「手に入れる」男と対照的とされよく比べられる概念が、このタイプだ。イキらず、特に他人に害をなさず、強烈なコミュニケーション障害を抱え周りを困らせるわけでもない。「悪い人」ではないが、ナヨナヨした感じの草食系で、なかなかモテない。身の回りにそういう人はいないだろうか。

たまにこういう風に主張する人がいる。「草食系に振り向かず、暴力性で女を支配するヤンキーがモテるのは不当だ!」 つまり人柄を見ていない、というのだ。インセル系の「世界への恨み」は、こういう部分から来ているのだろう。

ぼくは完全に「優しいオタク」に属する人間なので、まあ、こう主張したい気持ちもわからなくはないのだが、女の子にも選ぶ権利があろうと思うし、結果として多数がかっこよくリードしてくれる男を選ぶというのであればそれに介入することは難しいだろうと思うし、介入する論理的な正当性もあんまりないと思う。せいぜい浮気をしにくいくらいか。俺たちが需要に適合していないのが悪い。

でもこういう反駁がある。「“優しいオタク”と自分で思っている奴らは、リア充を叩きたいだけで、いいやつなんかじゃない。女を殴らない(殴れない)だけで、優しいのに! 振り向いてもらえないのは不当! と言い張っている」

まあ、つまり、ヤンキーっぽい奴とか、押しの強いイケイケ商社マンとかに対して、押しの弱くて加害を行わない(勇気がないから酒に睡眠薬を盛ったりしないし、自信がないからやたらとLINEで言い寄ったりもしない)非モテオタクの人間性は、より倫理的に優れているはずなのか? もしくは、それは勇気や自信の欠乏であり優しさなどではなく、むしろ人間的に未成熟で劣っているのか?

という対立がある。

優しい、優しくない以前にただ“消極的”

結論を書いてしまったが、これについて順を追ってかいていこう。

そもそも、他人に優しくする理由とは何だろうか。慈善というか慈愛というか、とにかく、隣人にとって自分が助けになることに対して自分の労力を割くことを決めた結果である。

泣いてる女があれば声をかけて励まし、よろける老人があれば肩を貸してやる。金に困る友人がいれば金を貸してやり、絡まったイヤホンがあれば解いてやる。そういうことだろう。

モテないオタクの「優しさ」は、そうではない。こちらの優しさは、徹底的に「隣人にとって自分が害になるかもしれないことを避けようとする」という形で発現する。忙しいかもしれないから余計なLINEは送らないし、セクハラにならないようにむやみに話しかけないし。確かにその結果として、相手への加害は、LINEを頻繁に送りむやみに私的な話をしようとする人間よりも少なくなっているかもしれない。しかし、積極的に自分から手を差し伸べる形での「優しさ」は現れない。

ただ、別にこちらの優しさが「正しい優しさではない」と主張するわけではない。そういう風に他人を慮ることも重要である。これも立派な優しさだと、僕は思う。わざわざ老人に席を譲らなくたって、最初から席に座らず立っていればよいのだから。

他人の机の消しゴムを落とさないように気を付けて行動しているが、落とした消しゴムは拾ってやらないのだ。自分が消しゴムを触ったことでその人が嫌がるだろう、というような思考がその前提にあることが多いのではないだろうか。だから結局、「消極的」という言葉で説明した方が適切だと思うのだ。

ヤンキーがモテることに吹き上がるインセルは、「優しい非モテ」のことを非常に優しく、倫理的で(少なくとも多少は)選ばれていい、選ばれるべき人間だという風に考えているという点において、ズレてしまっている。この優しさは恐怖などからくるものであって、席を譲ってやるような、積極的な優しさは、このタイプには欠乏してしまっているのだから。そしてえてして、積極的な優しさの方が他人の心には深く好印象を残す。

インセル叩き、非モテ嫌いの言論は、この「消極的な優しさ」を無視してしまっている点で、ズレてしまっている。恐怖からくるものであっても、その結果は「優しさ」に近いものなのである。だからそんなに殴らなくてもいいじゃないか。俺たちだって恐怖に怯えながら、それでもいい奴であろうとしているんだ。

だから、優しいとか優しくないとかで語ろうとすること自体が話をややこしくしているのだと、僕は思う。このタイプは優しいとか優しくないとかじゃなくて、消極的なのだ。

席を譲るような積極的な優しさは、概ね、ない。

しかし最初から席に座らないような消極的な優しさは、ある。

どこをどういう風に切り取って眺めるかによって、「優しいオタク」の優しさは大きく変わってくる。

なんでそうなるのか?
ここからは、「優しいオタク」がなぜそういう行動規範で動くようになるのか、という話をする。ほとんど僕自身にとっての感覚の話なので、全然違う場合もあるかもしれないけれど、ある程度普遍性があると思う。

徹底的に自信が無い。ぶっちゃけこれに尽きる。

あとは欲が薄いみたいな話もあるのかもしれない。

とかく、自分が他人に手を差し伸べる資格はない、と、本当に思っているのである。落ち込んでいる奴を見かけても声なんてかけない。僕なんかが声をかけても、向こうは迷惑なだけだから。

そんなのは優しさじゃない! と、反非モテ的な立場では言いたくなるだろう。

けれど、相手が僕のことを本当にそんなによく思ってないかもしれない。自分が大変な時に、そんな仲良くもない奴から絡まれたら余計につらくなってしまう。この場合、迷惑をかけなかったという点において、僕は優しさを発揮できたのである。

それこそが正常な状態だと思っている。

積極的な優しさは積極的にその相手と深く交わることを意味する。それが喜ばれるためには、実は好感度が前提として必要だ。自分がその閾値を超えていると思えるか、思えないかという部分で、行動の理念は大きく変わる。超えない場合は、基本的に「深くかかわらない」ほうが相手にとっても喜ばしいのだ。消極的な方が理にかなっているのだ。そういう風に自分を認識している。

だから積極的な優しさを発揮することに足が進まない。これには、例えばこれまでに周りから承認されて生きてこなかったという経験からくる部分が大きいだろう。スクールカーストにおいて劣位に配置され、否定ばかりを浴びてきた人間がそうなるのは想像に難くない。そこで「悪く」なって恨みが前に出てくるのがインセルなのだとしたら、他罰性が低く、復讐しようとも思わないのが「優しいオタク」だ。生まれつきそういった闘争本能がない。こうして「優しいオタク」はできあがる。他人に対して積極的に交わりに行こうという自信はないが、他人に悪いことをしようとも思わず、特に理由が無ければ丁寧に、距離を取っておく。

このパターンの人間は、絶対にファミレス店員に横柄な態度を取らない。

というか、気を遣って、忙しそうだなぁとか思って呼べない。

そういう人間だ。そういった精神性から出てきた特徴を、「優しい」か「優しくない」かで語ろうとすることは、そもそも論点がズレてしまっているのだ。

自戒

ぼくたちにとって、積極的に優しくすることは、それも暴力性に見える。なぜなら、それは多大なる害を相手に加えることになるかもしれないからだ。それはある時には加害になるし、ある時には親切になる。これは自分と相手との距離やキャラや場合やうんぬんかんぬんの場合によって変化する。加害を行わないことというのは、これを正確に見計らい行動することだ。ぼくたちにはそれが求められている。

私的な領域に踏み込もうとするセクハラなどは自分と相手の距離を見誤ることから引き起こされていると考えると、逆にそれなりに距離が近いと相手から思われているにもかかわらずまったく相手の領域に踏み込まないこともまた、相手に迷惑こそかけていないものの、悪手になりうる。どちらも詳しい判断を諦めているのだから。

死ぬのが悪手だからといって、四人全員で「いのちだいじに」ベホイミだけを打っていては何も話が進まない。

だから、相手から苦手だと思われていると自認しているのに、実際は相手から苦手だと思われていないこともある、ことを忘れてはならない。その時のために、積極的に働きかけることそれ自体は悪ではなく、自分にもそれをする権利があることを思い出しておこう。積極的に話しかけ、積極的に手を貸そう。幸いなことに、ぼくたちは他人を尊重すること自体にはストレスを感じない。他人が楽しそうにしている方が自分も居心地がいい、そう思えるタイプの人間だ。だから、自らの手で、相手を楽しそうにしてやろう。その行動を暴力性によるものだと思っているけれど、別にそういうわけでもない。ただ、相手との距離を測るのがうまいだけだ。近づきすぎるのを恐れるあまり、離れすぎてはいけない。誰に対してもバリアを張り、神経を使い、深く絡まないように……という一律の基準で接するのは、実は親切というより、むしろ怠慢なのだ。恐怖からとはいえ、ちゃんとそれぞれの場において測ることをしなくてはならない。無条件に「ダメ」な方に自分をカテゴライズせず、ちゃんと相手を観よう。

だからつまりぼくたちは、結局、コミュ障ではあるのだ。だが、迷惑をかけないように……わからないから離れておく……という風に進化してきた。迷惑をできる限りかけないようにすることはできているのだから、あとは自分からLINEをするだけだ。

頑張ろう。この前高校の同級生の女子から電話がきて喋ってたんですけど、「〇〇君はさっさと自分から動いた方がいい」って怒られました。女の子はちゃんと見ているものです。ぼくたちが「怯えている」ばかりなのも見抜かれています。だからちゃんと、積極的な行動を、自らに許してあげよう

そんな縛りプレイ、誰も望んでないんだからさ。

ところで
縛りプレイって字面えっちですよね。

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