フィンランドと豊かさ
何度擦っても火がつかず改めて手元を見ると、マッチの先端が手のひらに向いていて、どうやら僕はただ闇雲に木の棒を擦っていたようだ。
赤い先端を外側に持つと、すぐに火がついた。薪を組み終えたストーブの中に、そっと火を近づける。素早く動かすと消えてしまいそうなその火を薪の下部に当てると、木の皮がパチチと、弾ける音がした。
この家に電気ストーブはない。こたつもない。10月下旬すでにマイナス-5°を記録しているこの国で、家を温めるのが薪ストーブだ。100年以上前からこの家にある大きな薪ストーブ。地下室と2階にも煙突は繋がっていて、それぞれの階にも小さな薪ストーブがあり好きな場所から火を足すことができる。
木の皮がパチチと音を鳴らした後、少しの煙と一緒に火が消えた。まだ赤く灯っている部分があるから息を吹きかけ酸素を送ったが、それも程なく消えた。仕方なく再びマッチに火をつける。今度は二箇所。マッチが燃えている間に薪の手前と奥、二箇所に火をつけた。それから息を吹きかける。ふー。ふー。息を吹くたびに、パチチ、パチチと薪が音を立てる。それから、しばらくして「ボッ」と大きな火が生まれた。その火は次第に他の薪にも伝わっていき、やがてストーブの中は大きな火の塊になった。それから薪を均し、追加の薪を焚べてからストーブの扉を閉じた。もう火を灯し始めてから30分が経っていた。まだ部屋はこれっぽっちも暖かくならない。
それでも、この暮らしが豊かだと思う。時間の尊さ、時短することの意味意義価値を繰り返し唱えられてきた人生で、火を灯すだけの時間を毎日毎日必要とするこの生活を、心から豊かだと思う。
なんだかこれまでの幻想から解放されたようで、短い時間にたくさんのことを詰め込むこと、時短をすること、タイパ良く生きることは、豊かさとは違うものだったのだろうかと疑問に思う。そうやって時代に対して逆張りをして、これら全てを否定して行くこともできるが、それにも違和感が残った。多くの雑誌で人気を博しているような時短レシピと呼ばれる類の調理法をフィンランドで一緒に住んでいる人たちに教えると、「日本にはこんなにたくさん短時間で作れるレシピがあって本当にいいね」といつも喜ぶ。
そうなると時間を短縮すること、短い時間の中に多くを詰め込むことにも喜びや豊かさがあるように見えてくる。でも、日本で生活をしていこれらの豊かさが見えなくなるのはなぜだろう。曇り翳り、霧散してゆくように、あるはずの豊かさが見えなくなってゆく。
逆に日本に存在する豊かさを一番認知できるのはいつか。僕にとってそれは海外から帰国するときだ。他を知り、生活が異文化に見えた時、その豊かさは驚くほど鮮やかに見える。そして、まただんだんと見えなくなってゆく。これをいつも繰り返すのだが、それを慣れによる効力と記述するだけでは粗末に感じる。見えていたはずものもが見えなくなる時、その裏にあるのは慣れとは別の事象、強制だろう。
ある豊かさの享受を強制される時、そのことがらは豊かさではなく苦しみへ、享受から受難へと変貌する。そこに時間を短縮し短い中に多くを詰め込むことを楽しむ余地はない。全ての時間を短縮し短い時間に多くを詰め込まなければ命が追いつかない生活だ。一生を早送りで全うするその人生で、結果的に全ての時間を掴み損ねてゆく。
だから、急いで作った時間の先で急ぐこと、それも自ら意思ではなく急がさせられている状態は豊かさからは程遠い。時短した先でやりたいこと、急ぐ時間と急がない時間のどちらもを選べる状態で急ぐことを選べることが豊かさに豊かさにつながる。急いだ先にある自分の好きな時間。そして緩と急のどちらもを選択肢として持っている人生。それを探すことが必要だとぼんやり考えていた。
パチチ、パチチと音を立てていた薪は気づくと真っ赤に体を染め、燃え尽きた一部を白い灰と化して静かに燃えている。大きな火の塊だった時よりもずっと静かなのに熱は増していて、この静寂の中で部屋をゆっくり暖めている。コンロからは薬缶が大袈裟に水蒸気を吐いていて、僕はお湯をそっとマグカップに移しジャスミン茶のティーバッグを浮かべた。それから、部屋にあった本をとってストーブの前にある椅子に腰を下ろした。栞を掴み本を開こうとした時、キッチンに置いたままの紅茶のことを思い出した。そのときふと、この瞬間は何かを時短してでも求めたいと思った。