『長い一日』を読む長い一月 〜27日目〜
滝口悠生さんの連載小説『長い一日』(講談社刊)を一日一章ずつ読み、考えたことや想起されたこと、心が動いたことを書いていく試みです。
おはようございます。昨日も書いた通り残すところ、あと7回。ふつうの小説であれば、物語はいよいよ佳境、みたいなことが言われるんでしょうが、そんなこととは無縁なのがこの小説です。第27回、「ジョナサンで(一)」。
あらすじ
妻と窓目くんはジョナサンで食事をする。妻はサーロインステーキとエビフライの御膳、窓目くんは鯛の頭が乗っかったラーメンに焼きおにぎりもついている。
なぜ講談社に来たのか窓目くんに問われた妻は、講談社に文句を言いにきたと答える。訊いておきながら、その返答を対して気に留めない窓目くん。天麩羅ちゃんの本名(ジョナサン)の話などを思いついたようにしている。
妻は、自分らしき人物を小説に書かれることがいやじゃないのか、窓目くんに尋ねる。窓目くんは、それは俺そのままじゃなくて小説のなかの人物だと答え、以前にも同じようなことを訊かれたことを思い出す。
妻は、その年の春に講談社で始まった夫の連載で明らかに自分たち夫婦のことが語られているのだが、夫ひとりだけがすべてを知っているかのように描かれていることが不服であると話す。窓目くんは、なるほど、と思い、一緒に講談社に文句を言いに行こうと言う。
語り手と書き手の関係について
この小説では、語り手と書き手の関係について考えさせられる部分があちこちにあって、この回でいえば終盤の、妻が自分を小説に描かれることに対して不服に思う場面。書き手である小説家の滝口さんに対して、語り手である妻が書くことにたいして文句を言っている、ということを書き手である滝口さんが書いている。なんだかこんがらがってきました。先日のトークイベントで、滝口さんが「語り手との関係をいかに築くか、というところに小説の想像力がある」というようなことを話されていたのですが、小説に描かれることで不服に思ったということは、関係性がうまく結べなかったということなのか、などと考えたりしました。なんかわかりやすく考えすぎているような気もします。
不覚にも窓目くんの言葉にグッときた箇所があったので引用します。
今年の春の自分に何日か訪れてくれるいい一日のうちの一日が今日だと思う、(中略)いままで生きてきて、そんなふうに思うことは何度もあったし、そういう一日、そういう瞬間があるおかげで生き延びられてきたと思う。(p.282)
かみあわない会話を続けていた妻も、窓目くんのこの言葉には同意しているところも、なんかいいなと思いました。
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