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『長い一日』を読む長い一月 〜6日目〜
滝口悠生さんの連載小説『長い一日』(講談社刊)を一日一章ずつ読み、考えたことや想起されたこと、心が動いたことを書いていく試みです。
暑い日が続いていますね。滝口さんの小説を1日1章づつ読み進めて文章を書くという行為は、なんだか学生時代の夏休みの宿題みたいで、その頃の心持ちに戻った自分はけっこう楽しくやっているのですが、家族からは「なんでわざわざそんなことを」と怪訝な目で見られております。
第6回は「窓目くん、酔う」。
あらすじ
妻は内見に行った家のことを八朔さんに話す。信頼している八朔さんがその家を「出物」だと言ったことに妻は安心するが、心のどこかでその家に暮らすことに不穏さを感じている。
昼から始まった宴会で、日が暮れたというのに窓目くんはまだビールを飲んでいて、食べ方や飲み方が荒々しくなっている。それは窓目くんが乱れる時の兆候であることを知っていて、ほかの6人は動向を気にかけ、お互いに視線を交わしたり(夫とけり子)、窓目くんを諌めたり(八朔さん)、ビールを飲み続けたりする(植木さん)。妻の視線を汲み取って、夫はもう帰るように窓目くんに告げる。
窓目くんが家を出たあと、八朔さんは涙を流す。それは窓目くんの粗暴な振る舞いによるのではなく、「思い出し笑い」のようなものだと言う八朔さんの説明は、妻にとってはよくわからないものだったが、それゆえに胸を打たれる。
遠ざかってしまった喜怒哀楽
おいおい、窓目くん、楽しかった時間が台無しじゃないか…と思ったことはさておき、八朔さんの涙を契機とした妻の思考には、重要なことが書かれているのではないかと思いました。
表面的な理由や昂りの下にもっと個人的な、絡み合ったいくつもの時間があって、そこに潜むなかなか言葉にはできない悔いや、遠ざかってしまった喜怒哀楽に涙するのではないか。(p.69)
「遠ざかってしまった喜怒哀楽に涙する」という表現がとても響いたのですが、「哀」しみだけでなく、「喜」びも「怒」りも「楽」しさも、それらは遠ざかることで人に涙を招くということで、それが「寂しい」ということなのではないか。そんなことを考えさせる一節でした。見ている者も、もしかしたら本人もなんだかよくわからないのだから、その「わからなさ」を抱えて生きていることを受け止めるしかない、とわたしは読み取りましたが、もしかしたらそれは単純化しすぎているのかもしれません。
妻が思い巡らせたあとに隣の部屋に顔を向けると、真剣な天麩羅ちゃんと目が合うという描写は、天麩羅ちゃんの中にも様々な考えや思いが想起していたことを伺わせます。この章の後半では、妻が八朔さんについて考えることが中心になっていますが、こういった描写が挟まれることで、その場にいた誰もがそれぞれの考えや思惑を持ってその場にいるという、当たり前の事実に気付かされます。
振る舞いの怪しくなった窓目くんに、夫が「もう帰んなよ」と言うくだりは、これまで「窓目くんの一挙手一投足を真剣に追っていた」ことに比して、あまりに率直だったので、驚き、そして笑ってしまいました。
章の最後、「その頃、(中略)外を歩いていた窓目くんも泣いていた」という一文があって、続きがとても気になっています。