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『長い一日』を読む長い一月 〜24日目〜
滝口悠生さんの連載小説『長い一日』(講談社刊)を一日一章ずつ読み、考えたことや想起されたこと、心が動いたことを書いていく試みです。
第24回は「お別れの日(三)」です。
連日の長雨で各地で大きな被害が出ています。わたしが住む街でも、例年の8月ひと月分の降雨量が1日で降ったそうです。とにかくこれ以上大きな被害が出ないことを祈っています。みなさまもどうぞお気をつけて。
あらすじ
夫は大家のおばさんの子どもの頃の話や戦時中の話を聞いている。噛み合っているようないないような話をしながら、家事の忙しさについて頷きあっている。
妻はおじちゃんの視線の先に目を向ける。そこには寝室があって、天井には大きなしみがある。そのしみは二階の夫婦の台所から水が漏れてしまった際に作られたものだった。妻はそのことを思うと、ちょっと心が痛む。
おじちゃんは妻に終戦後の話をする。その頃、大家さん夫婦はこことはちがう家に住んでいて、近所にはヤクザの親分の家があった。親分に付き従う子分のことが思い出されたおじちゃんは「自分はあいつになっていたかもしれない」と考えている。ビールを夫に注ぎながら、「きっとすぐにいやになってやめていただろう」とも思っている。
視点のうつりかわりと改行
読んでいて4人の会話や思考が立体的に立ちあがってくるように思った回でした。そう思った理由について考えていきたいと思います。
これまでにも、「視点のうつりかわり」ということについて何度か書いてきましたが、この回でも、夫から妻への視点の移り変わりが自然になされています。視点が変わっているのはp.248 ページの冒頭、夫とおばちゃんの会話のところで、「おじさんおばさん(夫の呼び方)」「おじちゃんおばちゃん(妻の呼び方)」と大家さん夫婦の書かれ方が変わっているので、わかりやすいとは思ったのですが、では、その会話はどちらの視点で描かれているのか。実際に会話をしている夫なのか、それを聞いている妻なのか。
ところで、多くの小説の場合、会話文は改行したうえでカギカッコでくくられることが多いと思います。ですが、この作品において、会話文も地の文とおなじように書かれることがほとんどでした。
ただ、この前述した夫とおばさんの会話の部分では(以下引用)、
そうなんですよわかりますか滝口さんも。
わかりますわかります。
わかりますか、本当に?
わかりますよ。
そうですか。
といったように、カギカッコにはくくられていませんがそれぞれの発言が改行して書かれています。誰かの思考や思い出したことをなぞるかたちで進んできたこの作品のなかで、読み手の立場からすると、ここだけポンと、自分の前に「会話」を置かれたという印象を受けました。誰かが誰かの言葉を思い出しているというより、そのときのままの会話。
視点の話にもどると、夫か妻のどちらかの視点、というよりは、どちらの視点も離れて、ただこの会話を写している、というか捉えているカメラのような視点をイメージしました。他愛無い、情報量としてはほぼゼロの会話に丸々5行も割いていることも面白いと思った要因でした(改行が少ないので本を開いた際の余白が少ない他の部分と比較すると、この部分は視覚的にも印象に残ります)。
3回続いてきた「お別れの日」の最後の回でしたが、実際の引っ越しの日ではなく、4人で食事をした日がそう名付けられていることにもグッとくるものがありました。