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『長い一日』を読む長い一月 〜4日目〜

滝口悠生さんの連載小説『長い一日』(講談社刊)を一日一章ずつ読み、考えたことや想起されたこと、心が動いたことを書いていく試みです。

最後の3ページは鳥肌が立ちっぱなしでした。でも、その理由が自分でも判然としないので、そのことを考えながら書いていきたいと思います。第4回は「日の差す日」

あらすじ
二月の終わり、夫婦は妻の「理想の家」に内見に行く。しかし、実際に室内を見て回るうち、妻の表情は翳っていく。それは、イメージしていた間取りと異なっていたことにもよるが、何よりその家の日当たりだった。
妻はいま住んでいる家の話を不動産屋に話す。妻は話しながら、はじめてその家を見に行った日のことを思い出す。そこには気持ちにまで光が差すような明るさがあった。妻はその時のことをこれまでに何度も、いろんな人に話してきた。
不動産屋の2枚目のお兄さんは頭を反らし、妻の話すその家の様子を脳裏に映すようにして聞く。

その明るさ
鳥肌の理由はきっと、その「明るさ」のあざやかさにあると思われます。まぶしいほどの明るさが読み手であるわたしにもありありと思い浮かべられるのには、第一にその家についての詳細な描写によると思います。妻が不動産屋のお兄さんに自宅について説明する文章にはおよそ1ページが割かれていて、はじめて内見にいったときの様子も3ページにわたって描かれていることは、そのまま妻のその家に対する愛着を、読み手と共有するものとなっています。

私は(中略)引っ越し当日にはじめてその家の中に入ったのだが、その時のことを思い出すとその目や心は、その引っ越しの日のものというよりも、妻が繰り返しいろんな人に話してきたあの内見の日の目や心になっているような気がする。(p.48)

こう書かれているように、読み進めるわたしの目や心も、きっと妻のそれになっています。そう感じさせるのは、前段において「語り手」が夫である私から妻に変わっていたからで、そうやって視点が行き来することによって、読み手である「わたし」の輪郭も曖昧になっていくように思われます。

かなり抽象的で、自分でもまだ感じたことを捉えきれていない気もしますが、「わたし」というものが拡張されていくときに感情を揺さぶられる契機があるのではないかと考えています。

本来感じることができないはずのその明るさを、妻というフィルターを通して感じる、ということではなく、「妻になって」思い出すということが小説では可能で、それが滝口さんの小説を前に進める要素のひとつなのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

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