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『長い一日』を読む長い一月。〜1日目〜
二〇一七年八月一六日(一)
滝口悠生さんの小説『長い一日』を毎日1章ずつ読み進めることで、自分のなかに生じた感情や、自分なりの解釈を書いていこうと思います。
最初の章の、タイトルは「二〇一七年八月十六日(一)」。
当初、この連載ではエッセイを書くことになっていたそうです。しかし、途中からだんだんと小説になっていき、最終的に「著者4年ぶりの小説」と冠して書籍化されることになりました。
この章はまだエッセイとして描かれているので、ここに出てくる「私」は小説家である滝口悠生で、「妻」はブックデザイナーの佐藤亜沙美と考えてよいかと思います。
簡単なあらすじ
小説家とブックデザイナーの夫婦が7年間住んでいる家は、1階に大家さんのおじさんとおばさんが住んでいて、おじさんは昔、同じ敷地内で鉄工所を営んでた。鉄工所を畳んだあとも、庭で鉄鋼製品を解体する仕事を続けている。
夏のある一日、小説家は大家さんが仕事を引退することを聞く。おじさんがかんかん鉄板を叩く音は、夫婦の生活の一部となっていて、小説家はそのことに言いようのない寂しさと落胆を感じる。
仕事に行く妻を見送りがてら、近所を歩く私の目には古い床屋や医院が目に留まる。ほとんど行ったこともないその店を眺めながら、私は自分がそうした店や、大家のおじさんについて記憶していることが、本当は違っているかもしれず、でも、それを正してくれるかもしれない人の記憶にも、誤認や記憶違いがあるかもしれない、と考えている。
章の最後、「そろそろ引越ししたいなあ」と何の気無しに言う妻に、私は動揺する。
たくさんの時間と「ぐるぐる」のこと
この文章にはたくさんの時間が織り込まれています。夫婦がこの家に暮らした7年間という時間だけでなく、鉄工所を営んで、工場を畳んでからも庭で鉄をたたき続けたおじさんの時間、それに連れ添ったおばさんの時間。さらには、近所の床屋や医院に流れる時間まで「私」は思いを巡らせます。読んでいるわたしのなかにもそれぞれの時間が想起され、それらが折り重なっていくようで、なんだかクラクラしてきます。
小さな庭があり、よく手入れされて、元気な植木と、桜の木が一本生えている。(中略)向かいの中学校の敷地にも二本、桜の木があって、道を挟んで広がった枝に、夏なら緑の葉が、春なら花が満開になって、おじさんがその下で煙草を吸う。
とてもいいなあと思った文章です。ただ、「おじさんが桜の木の下で煙草を吸っている」というだけなんですが、同じ場所で煙草を吸い続ける床屋のおじさんと、季節とともに移っていく桜の木のコントラストに不思議と惹きつけれられます。「時間」というものに手が触れたような、そんな感じがします。
そして、いちばん印象的だったのが「床屋のぐるぐる」。床屋さんの店先で回ってる赤と青のサインポールが、解体をするおじさんのもとには毎日のように運ばれてきます。「私」はぐるぐるがこんなにもたくさんあるのかと驚愕します。
このぐるぐるを見つめる「私」の視点がとても面白いです。ごろごろと横たわるサインポールは他の人から見たらただのゴミ。でも、「私」は解体されるぐるぐるの本数を計算してみたり、「あのぐるぐるはなんなんだろうか」と拘泥したりします。数えてみたら2ページの間に「ぐるぐる」という単語が10回も出てきてました。
本書の装画は『茄子の輝き』に続いて、松井一平さんが書いています。
そこには、赤と青と白の三色からなる「ぐるぐる」らしきものが描かれています。カバーをめくった表紙にも書いてある「ぐるぐる」、しかも裏表両方に…
「ぐるぐる」、もしかしたら、この作品の重要な位置を占めるのか…なんて考えながら、1日目を終えたいと思います。
初日ということでちょっと張り切りすぎてしまったようなので、明日からはもっと気楽に進めていこうと思います。