『長い一日』を読む長い一月 〜2日目〜
滝口悠生さんの連載小説『長い一日』(講談社刊)を一日一章ずつ読み、考えたことや想起されたこと、心が動いたことを書いていく試みです。
第2回の「二〇一七年八月一六日(二)」は、タイトル通り第1章と同じ日の様子が描かれています。
あらすじ
おじさんが引退することを聞いた日の午後、「私」は日本画家の不染鉄の展覧会に出かけた。展覧会場で絵を観ている時もしかし、「私」はおじさんのことを考え続けてしまう。思考は、世田谷という街のこと、西武線と東急線の相容れなさ、大家さん夫婦の東京の人ゆえのスマートさなどに移っていく。
不染鉄の作品の多くには、絵の中に素朴な散文がたくさん書き込まれていて、「私」は絵葉書を連想させるそれらを「よくわからない」と思いつつも、その変な事実に引き込まれている。「古い自転車」という作品には、主題となっている自転車と関係がないような、これまで暮らしたと思われる土地の遠景と、自身の来し方を振り返る文章が記されている。「私」は思い出すという行為と、寂しさについて考える。
寂しさも幸せも思い出す愛着の影
この章で最も印象深かった一節を、ちょっと長いけど引用します。
どんな楽しいことでも、思い出すという行為のなかには、必ず少しの寂しさがあって、当たり前だが寂しさは過去形のなかにしかないし、誰かに向ける言葉も過去形のなかにしかないが、過去がなければ幸せだと感じることもたぶんなく、寂しさも幸せも思い出す愛着の影、と絵手紙に書きたい二〇一七年でいちばん寂しい日だった。
おじさんの人生と生活が変わってしまうことに対して、「私」が感じた寂しさはとても大きなものだったのだと感じさせる文章です。しかし、素直に腑に落ちないのは「寂しさも幸せも思い出す愛着の影、と絵手紙に書きたい」という文言が挟まっているからで、シリアスなドラマだと思っていたのに、登場人物がいきなり2頭身になった!みたいな違和感があります(滝口さんが不染鉄の作風にあれやこれや言ってたので尚更)。「二〇一七年でいちばん寂しい日だった」と書かれても、「それほんとに言ってる?」と思わされる飄々とした感じがあります。
そもそも「寂しさも幸せも思い出す愛着の影」って、「寂しさも幸せも/思い出す愛着の影」なのか、「寂しさも幸せも思い出す/愛着の影」なのか、なんてぐるぐる考えてしまいます。いや、よく考えるとおんなじことなのか。
不染鉄の「古い自転車」を調べてみたのですが、たしかに他の端整な作品と比べると素朴すぎて、ちょっと異質な感じがします。滝口さんと不染鉄の「掴み所のなさ」に、青山七恵さんは通ずるものを感じたのではないだろうか…なんて考えましたが、どうでしょうか、違うか。
「微細で曖昧な」相容れなさが、「言語化すると不要に過激になりがち」というのも身に覚えがあって、「微細で曖昧な」ままで伝える方法を模索していかないといけないと思います。西武沿線と東急沿線の人たちの間に無用な争いを生まないためにも。
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