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プロフィールの代わりに。
この文章は、2012年にある団体のWEBサイトに寄稿させていただいたものです。
以前いわきFCというクラブを設立した時の想いをそのままに記載しています。
クラブを譲渡した後も、大きな変化はありません。
譲渡と言っても、クラブの県リーグ2部に所属している「権利」を譲渡したという認識でおります。
名前が同じだったりといった共通点は確かに少なからずあるものの、
母体の大きさ然り、選手然り、別物だということは両方のクラブに関わっている僕自身が一番理解しております。
なので今のいわきFCがあるということは、前チームがあったことが関係しているなんて考えは僕自身は持っていないのです。
ですが1つだけ言えるとするならば、
新チーム設立にあたって話をする場を設けていただいた時に、
Jリーグとかどうでもいい。
応援された結果、Jリーグまで行った方がいいでしょ。
っていう言葉をいただいたので、譲渡を決心した背景があります。
Jリーグにいくというのは手段。目的にはしていけない。
僕自身、初心を忘れないように。
プロフィールの代わりに。
~~~~以下、転載文~~~~
「市民参加型なクラブチームへ」
向山 聖也(当時:いわきFC 代表) 1988年、福島県いわき市中央台出身。いわき市立中央台南中学校卒業後、福島県立湯本高校を経て神奈川大学人間科学部へ進学。大学卒業後、いわきへUターン。スポーツの「する、みる、支える」をもっと身近にするためにいわきFC設立。
― 2012年、福島県いわき市に社会人サッカークラブ「いわきFC」が設立された。「サッカーへの関わり方をこのチームから発信したい」。そう話す代表向山聖也による寄稿。地域に溶け込み、サッカーへの関わり方を増やす「いわきFC」のこれからとは。
いわきで過ごしたサッカー生活
地元、いわきのチーム「エスペランサ」。市内各地からメンバーが集まる強豪チームだ。
僕は幼いころ開幕したJリーグや、兄の影響で物心ついた時からサッカーをしている。
周りのサッカー仲間にも恵まれ、小学生の時は東北大会優勝や全国大会出場。初めての大きな大会に興奮したのは今でも覚えている。
中学生時代は週末になると県外に遠征することも多く、全国の強豪と試合をすることが楽しくて仕方なかった。全国大会でJリーグの下部組織相手に、勝ったり、負けたり。自分たちでもやれると感じた半面、まだまだ上には上がいると感じさせられた。
高校時代は今まで県内の相手には負けなしだった中学時代までとは違い、公式戦の多くが簡単にはいかない苦しいものだった。天皇杯や、インターハイ、選手権とそれぞれ出場できたが、全国大会では一度も勝つことができず、全国のレベルを感じた時代だった。当時の僕にとって、サッカーの楽しみとはプレーするものでしかなく、恥ずかしい話ではあるが、プレーできることが「当然」だと思っていた。
湯本高校サッカー部時代は、3年連続全国大会に出場。向山はキャプテンを務めた。
大学進学
僕は高校卒業後、サッカーの強豪大学である神奈川大学に進学した。
大学進学の理由は「大学のサッカー部に入部するため」、ただそれだけだった。
何かを勉強するつもりでもなく、ただレベルの高い環境でサッカーがしたかった。
そうすれば自分も成長できるだろうし道が開けると思っていた。
サッカー部の入部にあたり実技試験があることは知っていたが、まさか自分が落ちるわけもないだろうという慢心もあってか、結果不合格となった。その後、何度か入部を直訴するも結局僕の入部が叶うことはなかった。
サッカー部に入るためだけに入学した僕の大学生活は、入学早々あっさりと目的を失った。
それでもサッカーがしたく、大学の友人が所属している社会人のサッカークラブに所属をしていたが、
僕が加入したクラブは当時神奈川県3部リーグ所属で、大学サッカーと比較すると、僕はどうしてもレベルの差を感じざるを得なかった。
ただ、そんな神奈川県3部リーグにも関わらず、そのクラブの応援にたくさんの人が来ていたことに衝撃を受けた。「Jリーグとかならともかく、こんな試合観ておもしろいの?」「なんで家族でもないのに社会人サッカーなんて観にくるの?」
そう思った。
非常に失礼な疑問かもしれないが、当時の僕は素直にそう感じていた。今思えば、僕は「サッカー」をプレーヤーとしての狭い価値観でしか捉えてなかったのだ。
サッカー文化支援団体『 infinity 』 との出会い
大学時代「infinity」での活動によって、新たなサッカーの価値観と出逢うことになった。
『サッカーは友達を作るスポーツ』をモットーに活動する彼らは『infinity』という団体の人たちだった。
無限大の可能性を秘めるサッカーにあらゆる視点で関わり、
どの視点からも自らがサッカーを思いっきり楽しむことにより、
サッカー好きをさらに増やしていく。
そんな彼らの活動は、僕の頭の中をめぐった疑問を彼らに対しての興味へと変え、僕は彼らの活動に参加してみることにした。
活動の1つでもあるブラインドサッカー(※視覚に障がいをもった選手がプレーできるように考案されたサッカー。視覚障がい者と健常者が同じフィールドでプレーすることのできるユニバーサルスポーツでもある)の試合の応援に1回行ってみたら、もう言葉にならなかった。
それはもちろんブラインドサッカーが持つ魅力やinfinityの作りだす会場の雰囲気というのがあってこそだとは思うけど、
「こういうサッカーの楽しみ方もあるのか。」
と初めて感じた瞬間だった。
それ以降、少しずつinfinityの活動に参加するようになり、日本代表戦をゴール裏で応援したり、
大規模なフットサルの大会を企画運営したり、
W杯でクラブイベントをしたり、
電動車椅子サッカーやブラインドサッカーのお手伝いに行ったり、
その他様々な貴重な経験をさせてもらった。
その活動の多くが心躍る興奮に包まれていて、プレーヤーとしてのサッカーしか知らなかった僕には、一つ一つが新鮮で、同時に数多くの人が関わってサッカーというスポーツが成り立っているのだと実感した。
僕が当たり前のようにサッカーをプレーしていたのは、
全く当たり前のことではなくて、
たくさんの人のサポートがあって、
はじめてプレーさせてもらっているのだと気づかされた。
プレーヤー時代に多くの成績を残せたのは決して僕らだけの力ではなく、
僕らが真剣にサッカーに取り組める環境を用意してくれた方々のことを忘れてはいけない。
全てにおいて支えてくれた親、熱心に教えてくれた指導者、あらゆる面で支援していただいた方々なしには達成することができなかったものだと、身にしみて理解できた機会となった。
そして、試合に出場していないと味わうことができないと思っていた勝利や、目的達成することで得られる喜びや楽しみは、支えてくれた方々とも共有できるものだともわかった。
日本代表戦を本気で追いかけて、南アフリカW杯現地で輝いてる彼が羨ましかったし、
ブラインドサッカーのことばかり考えてる彼女が羨ましかったし、
地元Jリーグクラブの試合を毎回応援に行って、他チームにブーイングしている彼が羨ましかったし、
神奈川県リーグ2部昇格が決まった時に嬉しくて号泣していた全ての人たちが羨ましかった。
地元クラブを持つファンが羨ましい
僕にとってJリーグでどこのクラブが優勝するかなんていうのはさほど興味がわくものでもない。それは今も変わらない。
しかし彼らにとっては、応援している地元クラブがJリーグで優勝すれば、
溢れんばかりの想いを爆発させて喜び、
J2に降格しようものならこの世の終わりのような表情をみせる。
試合の時は相手に罵声を浴びせ、好ゲームで終われば相手にも拍手を送る。
そんなにも熱狂できる環境が身近に存在することそのものが、僕にとってはありえない日常だからこそ羨ましいし、憧れた。
果たして僕の中に、そんなにも熱狂させてくれるクラブがあるだろうか。
所属していた社会人クラブは、地域の方々とのつながりを大切にしていたし、サッカーに対しての姿勢は見習うべきことが多かった。そして何よりクラブに関わる人たちの人間性が魅力的だった。彼らと同じ夢をみたいとも思ったし、きっとそれは楽しいだろうと素直に思った。
ただ1つだけどうしても譲れないのが「いわき」という地元に対する想いだった。僕は支えていただいた方々のおかげでサッカーができた。多くの大会に出場することができ、結果も残せた。だからこそ僕はサッカーで地元に還元にしていきたい。
そんな考えもあり2012年の2月に地元「いわき」へ帰郷した。
「いわき」の事情。
地方の話題でよく耳にする「若者の地方離れ」という問題。僕の友人たちも例外ではなく多くが県外に出ていて、帰りたいという想いはありつつも現実は厳しいという声をよく聞く。
その影響はサッカーにも及び、相変わらず指導者不足が叫ばれている。僕が小学生の頃教わっていた指導者がいまだに同じクラブで指導をしているというのが珍しくないほどの状況だ。
もしくは指導者や選手が不在の為に合併や廃部に追い込まれたクラブも少なくはなく、
僕が中学生の頃に在籍したクラブも現在は既に無くなっている。
社会人サッカーに関しても抱えている課題は似ていて、人手不足で地域に根付いているようなクラブを見つけることはできなかった。良くも悪くも変わっていない「いわきのサッカー事情」が見えた。
以前所属していたクラブが無くなるというのは、つながりがそこで途絶えるということを意味し、僕らはもうそのクラブに関わることが難しくなるのだ。伝統校が強さを発揮するように、歴史の積み重ねはその地域に関わる人たちにおいては、先輩から受け継ぎ、次世代につないでいくタスキのようなもの。
地方に生きる僕らは絶やすことなくそのタスキをつなげていかなければならない。僕はそう思う。
僕が地域にどうか関わっていくかは様々な手段がある中で、最終的に決断したのは「0」から持続可能なクラブを立ち上げることだった。100年と続く、もっともっと地域に根付いた、子供から大人まで熱狂できるようなクラブを創ろうと思った。
僕らは僕らがしてもらったように、僕たちの次の世代が夢を見れるような、歳を重ねてもスポーツに熱狂できるような環境をいわきで創っていくべきなのではないかと考えるようになった。そして、僕は「いわきFC」を設立した。
いわきFCについて
サッカー選手を夢見るいわきの子どもたちへ、サッカーの楽しさを伝えている。この日は市内のフットサル場で約15名の子どもたちへレクチャーをした。
地元にJリーグクラブを誕生させることが必ずしもゴールであるとは限らない。Jリーグクラブが市にあるということは、市の認知度も上がり、ホーム戦では多くの観光客が呼べる機会でもある。このメリットは大きいだろう。
ただ、身の丈にあったクラブ運営をしていくことが重要だと考えている。
ファンが数千人しかいないようなクラブがJリーグに昇格してもたちまち経営に息詰まるだけである。
僕らが目指すのは、もっと地域の方々の生活に入り込んでいくこと。Jリーグを目指さないと地域と関係性を築けないようなクラブなんて僕は価値がないと思っている。
背伸びせずに、関わってくれる人とのつながりを大事にし、その輪を少しずつ少しずつ広げていくことが地域クラブのあり方だと、僕は思う。 これまでそういう考えのもとチャレンジしてきたし、それはこれからも変わらない。
プレーヤーとしての環境を創っていくことはもちろんだが、試合会場で配布するマッチデイプログラムでスポーツを観戦するという面白さも伝えていき、サッカー教室で子供たちにプレーできる喜びを、そして選手たちには指導することの楽しさを感じてほしい。
スポーツを支えるという関わり方でも喜びや楽しみを提供していきたい。これらは試合に勝つことと同等に、時にはそれ以上に大切なこと。僕がクラブの方向性を決めるのではなく、あくまで市民参加型で創りあげていくことが、地域にとっての最良な選択であると思っている。
地域にとってどういうクラブのあり方が求められているのかに応じて変化していければいい。だからこそ僕らはどんどんサッカー以外の活動にも力を入れていく。僕らは今、まちのゴミ拾い活動にクラブとして参加している。
僕ら自身が住むまちを、僕ら地域の人々が同じ方向を向いて、一緒に創りあげていきたい。
僕は現在、いわきFCの代表という立場に就いているがそこになんらこだわりはない。
僕らの想いをつないでくれる次世代を育て、引き継いでいくことが僕の役目だと思っている。僕は、近い将来、毎週末のようにスタジアムでいわきFCの試合を観戦し、声を張り上げて応援したい。それは代表という立場ではなくあくまで市民の一人として。関わる誰もがいわきFCを自分たちのクラブと思えるようなものにしていきたい。
スタンドの老若男女が同じユニフォームを着て、世代の垣根を越えて騒ぐ。なんて幸せな光景なのだろうか。今はまだ小さな輪かもしれないが、この輪がいずれ大きなエネルギーを生むと信じている。
「サッカーができることは当たり前じゃない。」この想いを抱きながらも、「応援してください。」ではなくて「応援って楽しいよ。」僕はそう伝えたい。熱狂を起こせるのはファンとクラブが一体になれたときだけ。「受ける側」と「与える側」に別れるのではなく、同じ方向を観て一緒に進んでいきたい。同じ想いを共有する仲間として。
~~~~以上、転載おわり~~~~
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