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社会的比較理論
心理学を専攻している友達とよく電話で話す
そいつは中学からの友達で、今は院生として大学院で研究を頑張っている
よく自分の相談(ほぼカウセリング)をしている(もらっている)
そこで出た話で
自分は周りからの目(世間体など)を気にしておしゃれなカフェにめちゃくちゃ入りたいのに入れないとか、同じ立場の人からのアドバイスは全然入ってこないのに
立場が全然違う人からの話はすんなりと受け入れられるという相談をしていた
そしてその電話の最後に
「社会的比較理論というキーワードを機に授けよう」という言葉をもらい電話を終えた。
だから私はその言葉について考えなければならないのだ。
社会的比較理論とは何か?
社会的比較理論は、自己評価を正確に把握するために、各個人の内部にひとつの衝動があるという人の習慣に焦点をあてている。個々人がどのように彼ら自身の意見や能力を評価し、自己を定義づける方法を学習するのかを説明する理論のひとつである。具体的には、個々人が、自身を他者と比較することによって、これらの諸領域における不確実性を低減させる、という理論である。
wikiからの引用です。
要するに
自分はいまどのくらいの立ち位置なのかを周りと比較して理解しようとすること
そして比較には2種類あって
上方比較と、下方比較がある
上方比較は自分より能力が高い人を見て自分ももっと頑張ろうと思うこと
下方比較は自分よりも下のやつを見て、こいつよりはマシだなと思い安心して、自尊心を高めることのような気がした。
さてこれが今の自分とどう関係してくるのか
まずは上方比較だ
自分はあんまりこの傾向はないのだと思ったなんとなくだが
こいつはこんだけ優れている
じゃあ俺はこっちの方向でこう伸ばそうと思うから
真っ向から勝負していない、防衛しているのだ
自分はこっちがあるからと思っている節がある
いや、自分はこっちのスキルを伸ばそうと思っているのは一種の上方比較なのかもしれない
少し自分の中にもそういう面がある可能性が見えた
というより
自分よりも先輩の話を聞く時に
意外とこの人もこうやって頑張ってきたんだとか思ってじゃあ自分も頑張るかとか思ってたかもしれない
上方比較をしている最中に相手の努力を噛み砕いて、自分の行動できるレベルまで勝手に噛み砕いている
自分の道は正しいのだと肯定したいのかもしれない
下方比較については、どうだろうか?
正直に書くと、多分やっている
例えばTwitterとかでcgをやっている人とかで、自分よりも上手くない人などを見るとこの人よりセンスあるなとか、この人よりはマシだなと思って自分の価値を上げようとする節、癖、無意識があると思った
勝手な想像なのだけど
もう無意識のレベルまでやってしまっているから気づいていなかったのかもしれない
上方比較については全くないと思っていたが、意外と思いだけはあるのだと思った。
あとは行動量と実績を増やすために頑張る、性格上多方面にアンテナを貼っておくといいと思った。いづれそれは自分の武器となる気がする
下方修正についてはあるとは思っていたけど、クセになり過ぎていて無意識になってしまっていた
もう少し減らして、自分が努力する糧になればいいと思う時間ももったいないしね。
でもこれは必要なものだとも思った。
自尊心や、自分の立ち位置を、正確に反映するということも踏まえて
ただ多すぎるのは良くない
これらからわかるように意識できてないところが浮き彫りになっていった
比較は自分を理解するためにじゅうようだが
自分の行動量に関してはあまり関係なく、むしろ足を引っ張る可能性もある
だからと言って全てが必要ではないことはない
どちらも必要だが、比較時間、量と行動量の関係と無視することも重要だと気が付けた
ありがとう
また電話で話したい