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【小説】時の郵便局⑥

「そういえば、お名前を伺ってもいいですか?」悠太は女性に尋ねた。この不思議な郵便局と、そこで働く彼女のことがどうしても気になったからだ。彼女は少し驚いた表情を浮かべた後、微笑んで「橘です」と答えた。

「橘さん、ですか……」悠太は彼女の名前を口にし、その響きが彼女の雰囲気にどこか合っているように感じた。落ち着いた声色と古風な制服、そして不思議なこの場所に、彼女の名前が自然に馴染んでいる気がした。

「何か気になることでも?」橘は首を傾げながら、静かな目で悠太を見つめた。

「いや……なんとなく、名前がこの場所にぴったりだなと思っただけです。」悠太は少し照れ臭そうに笑った。

「そうですか。」橘は微笑を浮かべたまま答えた。その微笑みにはどこか謎めいたものがあり、悠太の心にかすかな興味と不安が入り混じる感覚が残った。

「ここで働くのは、どんな感じなんですか?」悠太は思わず聞いてしまった。

橘は少し間を置いてから答えた。「ここは普通の郵便局とは違いますから、少し特別な感じがします。でも、こうして訪ねてくる方がいると、それが少しだけ日常に戻る気がします。」

「日常に戻る、ですか……」悠太はその言葉を反芻しながら、彼女の静かな目の奥に何か深いものを感じた。

悠太は、もっと彼女のことを知りたいという気持ちが抑えきれなかった。思わず口を開きかけたが、彼女にこれ以上踏み込むのは失礼ではないかとためらい、言葉を飲み込んだ。橘の落ち着いた佇まいと微笑みが、ますます悠太の心を引きつけた。

「橘さんは……ここで働いていて、寂しくなることはないんですか?」

思い切って尋ねてみると、橘は少し驚いたように目を瞬かせた後、微笑んだ。

「寂しい、と感じることはありますね。でも、その寂しさも含めて、ここにいる理由の一つかもしれません。」

その答えはどこか哲学的で、悠太はますます彼女に惹かれていった。もっと聞きたい、もっと彼女の考えを知りたい――そう思う一方で、これ以上聞くのはやめておこうとも思った。自分の興味がどこまで許されるのか、その境界が曖昧で、胸の中で葛藤が生まれていた。

「そうですか……橘さんは本当に不思議な方ですね。」悠太は苦笑しながらそう言った。

橘は軽く笑いながら、「よく言われます。でも、不思議なのはここに来る方たちも同じですよ」と軽口を返した。

「そうかもしれませんね」と悠太も少し笑った。その会話の軽やかさに、彼は少しだけ距離が縮まったような気がした。

「山下さんはどうしてここに来たんですか?」橘は少し興味深げに尋ねた。

「うーん……」悠太は答えを探しながら目を逸らし、正直に「なんだか、ここに引き寄せられたような気がして」と言った。

「引き寄せられた、ですか。それは光栄ですね」と橘は微笑んだ。その笑顔には、ほんの少しの冗談と温かさが混じっていた。

「橘さん、もしかして人の心を読む力とかあるんじゃないですか?」悠太は半分冗談で尋ねてみた。

橘は少し考えるふりをしながら、「さあ、どうでしょうね」と笑った。「でも、皆さんの思いを少しでも感じ取れたらと思いながら、ここで仕事をしています。」

その言葉を聞いて、悠太は彼女の人柄にますます興味を持った。もっと話したいという気持ちが高まる一方で、これ以上踏み込むのはどうかと戸惑いもあった。その感情が混じり合い、彼は再び微妙な距離感を感じた。

「そうですか……橘さんは本当に不思議な方ですね。」悠太は苦笑しながらもう一度そう言った。

橘は今度は少し冗談めかして、「まあ、私も自分のことがわからないことが多いんです」と答えた。

その言葉に、悠太はどこか安堵し、同時に彼女がただの謎めいた存在ではなく、同じ人間であることを感じた。その感覚が何であるのか、彼自身もはっきりとは理解できなかったが、彼女の存在が心の奥で特別な何かを感じさせるのだった。

橘との会話を終えた後、悠太は郵便局を出た。夜の街は冷たく、澄んだ空気が彼の頬を刺した。だが、さっきまで心を覆っていた重苦しい霧は少しだけ薄れている気がする。父の言葉、橘の言葉、それらが新しい何かを彼の中に根付かせたのだ。

家に戻る道すがら、彼は昔のことを思い出していた。父との記憶は、ひとつひとつが感情の断片のようだった。小さな喧嘩、短い笑顔、そして最後の後悔。だが今、それらがすべて一本の糸のように繋がり、全体として父という人間を映し出しているように感じられる。

「俺は、父さんを一部分しか見ていなかったのかもしれない……」

歩きながら呟いたその声は、夜の静寂の中で確かな響きを持っていた。

家に着くと、悠太は机に向かい、父の手紙を再び封筒から取り出した。読み返すたびに、新たな感情が湧き上がる。

「お前の人生を、お前らしく歩いていけ。」

その言葉に込められた願いを、悠太は今になってようやく理解し始めていた。父は、自分がその場にいなくとも息子が未来を切り開けるよう願っていたのだ。

「織りなす糸……父さんはそうやって俺の中に生きているのかもしれないな。」

悠太は便箋をそっと封筒に戻し、その封筒を引き出しの中にしまい込んだ。それは記憶の中にしまい込むのではなく、むしろ今を生きるためにそこに置いたのだ。

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さいすけ
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