日本の男尊女卑についての考察㊾(天皇家についての考察⑤第十二代③景行天皇〜ヤマトタケル 考察②)
こんばんは、
いつも読んでいただき
とても感謝しております。
今回は前回の引き続き
倭健の英雄譚に
ついての考察を
させていただきます。
前回、ヤマトタケルは
熊襲、出雲を智略によって
平定したというお話の考察
まででした。
九州・山陰の反対勢力を
平定し大和国に凱旋し
父親である景行天皇に
謁見を申し出るも
叶わず、新たな征討令が
ヤマトタケルに下されました。
腑に落ちないヤマトタケルは
叔母であるヤマトヒメの元に
訪れ、内憂を吐露していますね。
おそらく、古事記にこの
部分の描写を入れる理由として
古事記を読んでいる人に
共感を植え付けるためのもの
そして、草那藝剣と火打ち石
という今後役に立つ
キーアイテムを託されるという
重要な事象を表していると
推察されます。
このヤマトヒメは
景行天皇の妹として登場しますが
日本書紀に登場しました
一説によると箸墓古墳の主
倭迹迹日百襲姫と
の共通項を指摘される女性と
言われています。
名前にヤマトが含まれることや
巫女という役割を担うことも
含め類似点が非常に多いことが
その理由に挙げられます。
つまり、ヤマトタケルに対して
クマソタケルの宴にも使われた
女装するための着物や櫛
そして、霊験:草那藝剣と
火打ち石を
それぞれ託しています。
しかし、ヤマトタケルが
与えられたアイテムを
うまく使いこなしたと
見なすのか。
それとも、そうなることを
ヤマトヒメが察知して
託しているのか。
後者を取れば
ヤマトヒメはどのように
それらを察知する事が
出来たのか?
ということから
ヤマトヒメ=巫女
という構図になると
言われています。
実際にこのヤマトヒメが
誰かと添い遂げたという
記述は見られません。
ヤマトヒメとモモノヒメが
同一の女性を指しているとも
言われていますが
時系列で考えると
それも辻褄が合わない。
しかし辻褄が綻んでいる記述は
今回までにもいくつか登場しますし
同一ではないとするだけの
根拠には至らないのが
正直なところですね。
謎のままです。
剣と火打ち石を託された
ヤマトタケルは一路
尾張に向かいミヤズヒメと
婚約をしています。
が、次の地である
相模国での活躍時には
走水の海で自らの命を
海の神に捧げた
オトタチバナヒメとは
懇意になっている描写も
ありました。
それはオトタチバナヒメの
別離の時に読んだ和歌に
現れています。
『さねさし
相武の小野に
燃ゆる火の
火中に立ちて
問ひし君はも』
相模の野原の
燃える炎の中に
あなたは立って
私に気遣って
声をかけてくれた。
という意味ですから
相模の野原で
一緒に火に包まれそうに
なってます。
叔母:ヤマトヒメから
託された剣と火打ち石で
難をのがれ、相模の国造を
返り討ちにし亡骸を
燃やしていました。
この時にも
そばにはオトタチバナヒメが
居たと読み取れます。
ちなみに、ヤマトタケルと
オトタチバナヒメの間には
御子(9男)があると
言われています。
相模国にどれほど
滞在したんでしょうね?
子供を残せる
期間ですから
かなりの長期滞在ですよ。
しかも、ヤマトタケルには
尾張に残した婚約者まで
居ましたから
とんでもない話ではあります。
走水の海でも
ヤマトタケルの暴言きっかけで
海の神は激怒し嵐を起こし
その結果 ヤマトタケル一行は
足止めを喰らいます。
それを打破するために
オトタチバナヒメが自らの
命をかけて嵐を
沈めたわけですが
この描写も後には
海運や海そのものに
女性を嫌うという傾向が
生じたり、女性だからこそ
海の神に対しての
生贄になれるという
神秘性や巫女ならではの力が
描写されているのではないかと
推察できます。
その後のヤマトタケルは
大活躍を果たします。
荒ぶる蝦夷達を
(関東より北に住む反対勢力)
平定し、荒ぶる神も平げて
快進撃を重ねます。
足柄山(神奈川)では
白い大鹿をニラで
叩き殺したと
記されています。
ニラとは韮ですね。
餃子などに入れる
ニラです。
どう持ってニラで
鹿を倒せるんでしょう??
葉先を持って根っこを
ぶつけるんでしょうか?
この描写も謎ではありますが
それくらいヤマトタケルは
強かったという表れなのだと
思うしかないですね。
東国を平定し
四阿嶺に立ち
オトタチバナヒメを
偲び「吾妻はや・・・」
と3回口にしたと
言われています。
ここから東国を
アズマと呼ぶようになった
という逸話の件ですね。
甲斐国では連歌をして
返歌した火焚きの老人に
甲斐国の国造という要職を
託したということから
連歌の発祥であるとも
記されています。
その後、科野(長野)の
荒ぶる神を平げ
尾張に向かい
かねてより婚約をしていた
ミヤズヒメと結婚します。
その結婚初夜のやりとりも
和歌として残されていました。
ちょうどのタイミングで
月経を迎えたミヤズヒメに対して
残念だなと感じたヤマトタケルの
心情が現れた描写が
少し面白く感じてしまいます。
ここら辺のやりとりも
読者に対して共感を誘う効果を
狙ったんでしょうかね?
あるいは編纂者の実体験で
はないでしょうか?
しかも、大事な草那藝剣を
ミヤズヒメに預けて
素手で荒ぶる神と戦おうと
していますから
それほど守りたい存在が
その尾張の地に出来た。
と言えるのではないかと
推察いたします。
そして、伊吹山に向かい
ここでもヤマトタケルは
やっちゃいます。
その山で見つけた、
白く大きい猪を神の使いと
思い込んで
「帰りがけに殺してやる!」
と高々に宣言してしまい
本来の伊吹山の神である
白く大きい猪を激怒させて
逆に祟りを得て失神し
命からがら山を降っています。
居醒の清水で
正気は取り戻せましたが
死に至る病を患ってしまう
ヤマトタケルでした。
驕り高ぶって足元を掬われる
という失敗談は古事記や
日本書紀には随所に
描かれています。
実際に驕り高ぶって
足元を掬われた有力者が
何人もいたと語り継がれていた
という現実に起こったことを
おそらくは編纂者が
あえて織り交ぜているのでは
ないかと思われます。
その後いくつかの地を
杖をつきながら訪れ
その地名の所以を残し
大和を目指しますが
途中の能褒野という場所で
力尽きようとしている
ヤマトタケルは
四首の和歌を残し
息絶えました。
「倭は国のまほろば
たたなづく 青垣
山隠れる 倭し麗し」
大和という国は
どの国よりも素晴らしい
青く連なった山々に囲まれた
大和はとても美しく麗しい
「命の またけむ人は
たたみこも 平群の山の
熊樫が葉を
髻華に挿せ その子」
命のあるものは平群の山にある
熊樫の木を簪にして
頭につけよう 皆
「はしけやし 我家の方よ
雲居立ちくも」
ああ、懐かしい 我が家の方から
雲が立ち昇っているよ
「乙女の床のべに
我が置きし 剣の大刀
その大刀はや」
妻の寝床に置いてきた
草那藝剣よ ああ剣よ
こんな感じの
内容の和歌ですね。
よほど剣を置いてきたことを
悔やんでいる様子が
現れています。
ミヤズヒメに託された
霊験:草那藝剣は
草薙剣、天叢雲剣、
とも呼ばれる。
三種の神器の一つとして
数えられています。
ミヤズヒメが熱田神宮に
収めたという伝承が
最も有力です。
そうして、能褒野に
陵墓を建造し
大和国から御子や后を
招き、その陵墓で
御子ら后らは
嘆き悲しむ様子を
和歌を一首詠みました。
その陵墓から八尋白智鳥が
御子らの前に現れ彼らを
導くがように飛んでいきます。
古事記では
ヤヒロシロチドリですが
日本書紀では
白鳥となっています。
追いかけて行く時に
笹の葉で足に傷を負っても
鳥は進みますので
この時に一首詠み
鳥が海を渡る時
御子らも船で追いかけ
ここでも一首詠み
海が磯を渡る時
歩きづらくも
追いかける様子を
また一首詠みました。
この時に詠まれた和歌が
大御葬歌として
現在でも天皇が崩御した
際に詠まれています。
ちなみに、ヤマトタケルの
妻子としてかなりの数が
います。
后として6人
子として10人
父親:景行天皇の
80人の皇子皇女には
遠く及ばないまでも
さすがと言った風格が
ヤマトタケルの魅力として
あると言えます。
そして、ヤマトタケルの
御子の中の一人が
後の第十四代:仲哀天皇として
皇統譜に記されています。
ここまでが
景行天皇・ヤマトタケル親子に
関しての考察なんですが
名前に関しての疑問が
まだ残ったままです。
天皇という称号は前述のとおり
第四十代:天武天皇から定められた
という説が最も大きいとして
それまでは大王という
尊称で呼ばれていたとします。
しかし、存命中の天皇を表す名は
別に存在します。
例えば 景行天皇なら
大帯日子淤斯呂和氣天皇
と言ったような名前があります。
しかし、その景行天皇の
しかも重要な皇位継承権を持つ皇子の
名前が大碓や小碓
または倭男具那(古事記)、
日本童男(日本書紀)
倭健(古事記)、
日本武尊(日本書紀)
少し名付けが安易すぎるように
感じさせます。
合わせて、
九州や出雲の名のある部族の
長は熊襲健や
出雲健という
名前でした。
クマソタケルに至っては
兄弟揃ってその名ですね。
つまり、固有名詞として
扱うのは無理がある
と思っています。
しかし、健の部分が
尊称だと捉えた場合
地名+尊称 という
公式が見えてくるはず
ヤマトオグナは
クマソタケルより
タケルを与えられて
ヤマトタケルと
なったわけですから
大和国のタケルという意味と
倭は日本そのものを表す言葉なので
日本のタケルとした意味も同時に
包括していると考えます。
実際に日本書紀では
日本武尊と表記していますから
ヤマトタケルは
特定の誰かを指すというよりも
英雄として扱われてますから
古事記や日本書紀における
ヤマトタケルは
言うなれば
キャプテン・アメリカ
のようなヒーロー
なんじゃないかな?と
いう結論に至りました。
設定自体が
とても複雑なんですけども
天皇の子でモテ男で
頭が良く策略家ですが
尊大で豪放磊落
口が災いしてしまう
欠点もありますし
スサノオとオオモノヌシを
足して二で割ったような
若者と言ったような
愛される要素は
とても多いと思いませんか??
それに比べて
父親・景行天皇の扱いや
描写があまりにも少ない
景行天皇の時代の話では
ありますが
その時代を表す描写として
景行天皇紀の内容の
約七割はヤマトタケルの
冒険譚になっています。
しかも日本書紀も
その割合に符合するので
父親の影がとても薄く感じて
しまいます。
あくまでも私見ですが
ヤマトタケル=
古代日本のキャプテン・アメリカ
という位置が
最も納得できる構図に
見えてしまうんです。
この件に関しての
皆様の意見があれば
ぜひ 教えていただきたい!
お願いします。
今回は相当長く
なってしまいましたが
ヤマトタケル=
キャプテン・アメリカ
のような存在で
落ち着いてしまいましたw
次回は、少し落ち着いて
第十三代のお話をさせて
いただこうと思います。
ここまで読んでいただけて
とても嬉しく思います。
次回もぜひ!お楽しみに!