日本の男尊女卑についての考察㊴(天皇家についての考察①欠史八代?)
今回もよろしくお願いします。
前回で古事記 上つ巻の内容を
全て話し終えまして、
イワレビが神武天皇即位した
と言うところまで
お話しさせて頂きました。
今回は、天皇家について
お話をさせて頂きます。
初代:神武天皇
在位年数:76年
年齢:127
第二代:綏靖天皇
在位年数:33年
年齢:84
第三代:安寧天皇
在位年数:39年
年齢:67
第四代:懿徳天皇
在位年数:34年
年齢:77
第五代:孝昭天皇
在位年数:83年
年齢:114
第六代:孝安天皇
在位年数:102年
年齢:137
第七代:孝霊天皇
在位年数:76年
年齢:128
第八代:孝元天皇
在位年数:57年
年齢:116
第九代:開化天皇
在位年数:61年
年齢:111
神武天皇から開化天皇までの
歴代天皇を書き出してみました。
この内容は
古事記・日本書紀
いずれにおいても共通で
二代天皇から九代天皇までの
情報は生没年や在位年数
年齢・父母・陵墓などの
記載しか認められず
個々の天皇が
どのような功績を残し、
どのような出来事が起こり
どのように生きたか
と言ったことが
一切わからないようです。
ゆえに第二代〜第九代の
天皇を『欠史八代』と
呼ばれています。
神武紀は西暦で申せば
紀元前660年と符合しますので
その当時の日本の状態は
縄文時代となります。
しかし皇統譜や古事記
日本書紀では、
初代天皇が即位した
と記されている訳ですが
架空の天皇である
可能性は疑いようもないと
言えます。
しかし、帝紀や旧辞と言った
古事記や日本書紀を編纂する上で
欠かせなかった資料にも
やはり、同じように初代神武天皇の
功績は記されていたと
伝わりますから
第二代から第九代を
どうしても創作しなければ
ならなかった理由として
おそらくは、史実に基づくに足る
天皇までの中継ぎが必要だった。
とするのがより自然であると
言えます。
例えば、
神武天皇は127歳を筆頭に
孝昭天皇は114歳
孝安天皇は137歳
孝霊天皇は128歳
孝元天皇は116歳
開化天皇は111歳
と言ったように、現代でも
あり得ないほどの高齢で
あることや
在位年数もそれに伴い、
かなりの長期政権であると
記されています。
やはり、すごく不自然にです。
なぜか、こうなってしまった。
とするよりも
こうせざるを得なかった。
と言う理由があったのでは
ないでしょうか?
つまり、紀元前660年を
即位の起源とする必要が
あった。と言うことが
出来ます。
古事記や日本書紀には
紀元前とも660年とも
明記はありませんが
辛酉とだけ
明記されています。
辛酉とは?
十干干支と
言う年数を表す時に
用いられたもので
日本では古くから
使われています。
十干とは?
甲•乙•丙•丁•戊•己•庚•辛•壬•癸で
表す表記で
一年に一つ変更していくものと
して捉えてください。
これらは
陰陽五行に基づく共通項があり
木、火、土、金、水を
表してます。
木の起こり(甲)、木の廃り(乙)
火の起こり(丙)、火の廃り(丁)
土の起こり(戊)、土の廃り(己)
金の起こり(庚)、金の廃り(辛)
水の起こり(壬)、水の廃り(癸)
と言う感じで思っていただいて
差し支えはないです。
干支とは?
子・丑・寅・卯・辰・巳
午・未・申・酉・戌・亥
と一文字ずつが動物で
表されています。
こちらも一年に一度変更されていく
ものとしても捉えられますが
また、時間を表す単位としても
(午の刻を正午を表したり
丑三つ時は夜中1時頃など)
さらに、
方角を表す単位としても
(子を真北として、卯が真東、
午が真南、酉が真西など)
用いられました。
この十干と干支を組み合わせて
その年を表します。
60年周期となるので
60歳を還暦という
言葉の元になってますね。
つまり、神武天皇が
辛酉の年に即位を
しなければならなかった
理由はおそらく、中華思想に
基づく考え方で
辛酉は革命を
意味する年であると
中国では言われている。
ということから
辛酉の即位も中国の史書を
参考に起算されたのだと
言われています。
それが古事記や日本書紀
以前の参考資料には
(帝紀や旧辞)
記されていた決まり事だった。
からこそ、そこはありきで
古事記や日本書紀は
編纂されていったという
側面があります。
じゃあ代の数を増やせば!
となるはずなんですが
古事記や日本書紀の
役割として
神と人の実際の世を
繋ぐ役割も強く持つため
しかも初代は絶対に
動かせないという縛りで
当代は第何十代と決まって
しまってましたから
むしろ、頭と尾は
(頭:初代神武天皇ですね。
尾:古事記では
第三十三代:推古天皇
日本書紀では
第四十二代:文武天皇に
譲位される場面)
動かせなかった。
という事情も無視できない
でしょう。
苦肉の策として
欠史八代という形になった
と推察できます。
編纂した方達は
とんでもない苦労を
されていたんだなぁ。。。
という思いが
沸々と湧いてきますね。
今回はこの辺りで
一旦終わります。
次回は
天皇家についての考察②
第十代〜
というお話をさせていただこうと
思います。
ここまで読んでいただいて
とても感謝いたします。
次回もお楽しみに!!