徳永英明『世界中を癒し続けるヒーリングボイス』(前編)人生を変えるJ-POP[第14回]
たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。
今回は日本のヒーリングボイスの代表格である徳永英明を扱います。彼の歌声は唯一無二と言われ、アジアのみならず、欧米諸外国に多くのファンがいます。彼の魅力的な歌声の秘密と人物像について掘り下げていきたいと思います。
大木誠氏との出会い
徳永英明は1961年生まれの61歳。福岡県で生まれ育ち、中学の時に父親の転勤で兵庫県伊丹市に移り住みました。中学生の時、井上陽水の音楽に出会ったことから、自分も音楽の道を志したいと思うようになりました。
その後、専門学校を中退し、19歳で上京しアルバイトなどをしながら作曲活動に励むも、チャンスを掴めない日々が続きます。そんな時、「レコードデビューの話がある。そのために軽井沢で合宿しないか?」という音楽仲間の誘いに乗って東京でのバイト先を辞め、軽井沢へ行くと、そんな話はなく、喫茶店のアルバイト要員だったのです。
仕方なくその喫茶店でアルバイトを続けますが、そこでのちに『Rainy Blue』の作詞をした大木誠と知り合いました。2人は東京に戻ってからも一緒に曲作りを続けますが、大木誠は音楽活動の継続を中断し、徳永英明は1人でオーディション番組「スター誕生」の決戦大会に出場するも、デビューのきっかけを掴むことができませんでした。
その後も彼は諦めずに音楽関係者が多く出入りするという喫茶店でアルバイトをしながら、デモテープを配り続け、1985年第二回「マリンブルー音楽祭」に出場し、見事、グランプリを受賞。1986年『Rainy Blue』でメジャーデビューを果たしました。
デビューしたのは彼が24歳10ヶ月のとき。父親との約束だった「25歳までにデビューできなければ保険の営業マンになる」をギリギリで果たしたのでした。
デビュー曲『Rainy Blue』から次々とヒットを飛ばす
『Rainy Blue』でデビュー後、『輝きながら…』がヒット。ルックスの良さと抜群の歌声で多くのリスナーの心を掴みます。その後は歌手活動の傍ら、デビュー前に所属していたTBS緑山塾の経験などを生かしてドラマの主演など俳優活動も行うようになりました。
1990年には自身最大の売上数を持つ『夢を信じて』や『壊れかけのRadio』など次々とヒットを飛ばし、シンガーソングライターとしての実績を積んでいきます。
ですが、1993年に声帯ポリープを手術。また、2001年5月には、「もやもや病」を発病し、1年半ほどの活動休止を余儀なくされました。
活動休止になる前の生活は、過酷なスケジュールの毎日だったにもかかわらず、喫煙や飲酒を繰り返し、さらに麻雀やゲームで夜更かしをするというように、「悪い生活習慣のオンパレード」だったと言います。
約1年半の休養を経て、2002年11月に復帰を果たしました。
自分のためから、みんなのために
彼はこの大病を経験して、音楽に対する考えが変わり、病気をする前は自分のために歌っていた歌を多くの人に聴いてもらいたいと思うようになったとのこと。
『VOCALIST』は、病気からの復活プロジェクトとして「カバーアルバムでも作ろうか」という気持ちから始まったもので、最初からヒットを狙ったものではありませんでした。
但し、アルバム制作に於いて、彼自身が40〜50曲を選び、最初から3作目までの構想は練っていたとか。自分のキーに合う女性アーティストに限定して、誰もが知る名曲をカバーする形にし、2005年に発売しました。
シンガーソングライターだった彼がカバー曲を歌うというので、最初はそれほどヒットしなかったものが、2作目、3作目と発売するにつれ、話題になり、最終的には6作のシリーズ全体で635万枚を超えるという大ヒット作になりました。
また、『VOCALIST2』を発売した2006年には、年末の紅白歌合戦に『壊れかけのRadio』で初出場を果たしました。以降、紅白には、2015年まで連続10年の出場を重ねたのです。
2016年、身体に違和感を覚えたのを機にもやもや病による脳梗塞が起こるのを予防するためにバイパス手術を受けます。その手術を経て、彼は、病気と闘うのではなく、病気と上手く付き合っていく、という考えになったと言います。
また、病後、禁煙や生活習慣を見直すことで、歌に対する考えも変わったとか。構えて歌うのではなく、ごく自然体でナチュラルな気持ちで歌を歌っていくような考えに変わったとのこと。それが病気と闘うのではなく、病気を受け入れて生きていくという彼の病後のスタンスの一つになったのではないでしょうか。
このように、徳永英明といえば、数々のヒット曲と共に、カバー歌手としても有名です。最近では他人の楽曲をカバーして歌う歌手も珍しくなくなりましたが、その先駆者としての彼の足跡は大きいものがあります。
ここで少し日本のカバー曲の歴史に触れてみたいと思います。
日本でカバー曲が初めて歌われたのは、1936年、ポリドール(現ユニバーサルミュージックの前身)が自社の歌手に他の歌手のヒット曲を歌わせたのが始まりと考えられています。
元々、カバー曲というのは、ポピュラー音楽の分野で過去に発表された他の歌手の楽曲を歌うことを言い、日本のカバー曲ブームのきっかけは、2001年の井上陽水のカバーアルバム『UNITED COVER』と言われています。また同年、ウルフルズが坂本九の『明日があるさ』をカバーしてヒットし、翌2002年には、ウィレッジ・シンガーズの『亜麻色の髪の乙女』を島谷ひとみがカバーしてヒットさせるというように、その後、多くの歌手がカバーアルバムを発売し、カバー曲というものに聴衆が抵抗感を持たなくなる土壌が出来上がってきました。そういう中、2005年に徳永英明が発売した『VOCALIST』は女性歌手の楽曲ばかりを集めたアルバムとして注目を浴びたのです。
徳永英明が女性アーティストの楽曲をカバーできるのは、その稀有な歌声にあります。唯一無二の歌声と言われる彼の歌声は、いわゆるヒーリングボイスと呼ばれるもので、「1/fゆらぎ」の歌声とも言われるものです。
この「1/fゆらぎ」というものは、一体どういうものを言うのでしょうか。
※次回は彼の歌声に迫っていきます。