King Gnu『4つの音が主張し合う新しい音楽の形』(後編)人生を変えるJ-POP[第39回]
たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。
今回は、J-POP界の中で異彩を放つロックバンドKing Gnuを扱います。King Gnuは、知っている方も多いと思いますが、キングヌーと読みます。数年前に彼らが初めてテレビの音楽番組に出演した際のことは、今でも私の記憶に残っていて、レベルの高い音楽を放つ集団という印象を受けたものでした。その後も彼らの音楽には、独特の世界観があると感じます。バンドの成り立ちのインタビューなどから、彼らの作り出す音楽の世界や、その世界を描き出す井口と常田の歌声の魅力について書いてみたいと思います。
(前編はこちらから)
ボーカリストを二人持つバンドの、強い表現力
楽曲の魅力というものは、その曲そのものの音楽性も大きいとは思いますが、私はやはりその音楽を伝えるボーカリストの力というものが非常に大きい要素を占めていると考えます。
そういう視点でKing Gnuの音楽を捉えてみると、そこには、井口と常田という2人のボーカリストを持つバンドの表現力の強さというものを感じずにはいられません。
歌手の歌声の分析を評論の中心に据えている私としては、King Gnuの2人のボーカリストの歌声というものは、非常に興味深い対象と言えるでしょう。
私が彼らの歌声を初めて聴いたのは『白日』で、その後の『三文小説』での井口の歌声には、驚愕した記憶があります。
井口の歌声と常田の歌声の特徴は全く違います。この2人の歌声を音質鑑定してみると下記のような特色を持つことがわかるのです。
井口の音質鑑定
全体に声の幅は細い。
声域はテノール。
響きに混濁はなく、澄んだ響きをしている。
中・低音域ではやや幅のある甘い響きが主体になり、高音部では細い透明感のある響きが主体になる。
声の中心に芯のある響きだが、全体の印象はソフト。
甘い響きは鼻腔に響いており、透明感のある響きは、頭頂部に綺麗に抜けている。
ことばのタンギング(子音のアクセント)には癖がなく、非常に明瞭。
滑舌は悪くない。
常田の音質鑑定
全体に声の幅が広い。
声域はバリトン。
響きが混濁しており、さまざまな音色の響きをしている。
響きは散っている印象はなく、中央に集まって太めの音を奏でている。
尖った響きではなく、どちらかと言えばソフトなボワンとした響き。
声量がある。
全体に、鼻腔に響いた音色をしている。
このように、2人が持つ歌声は全く違うものであることがわかります。
井口と常田の歌声は、正反対にして…
井口の歌声の特徴を最もよく表しているのが『三文小説』です。この楽曲の歌い出しからのフレーズに聞こえてくる彼の歌声は、女性ボーカリストの声と聞き紛うほどの澄んだ細い歌声をしています。
この歌では、彼の歌声は、全体に音色は明るく、尖った芯のある響きがことばを丁寧に刻んでいく、という印象を持ちます。ことばの音色の粒が見事に統一されて、綺麗に一直線上に並んでいく、という歌い方です。
このような歌い方を聴くと、さすがにクラシックで基礎を鍛えられただけのことはあると感じるのです。
また、透明感溢れる歌声を断続的に維持するところや、ミックスボイスからファルセットのヘッドボイスへのチェンジがスムーズなところなど、彼のボーカリストとしてのテクニックの確かさを感じさせる1曲でもあります。
彼の歌い方は、全くクラシック的ではないように聞こえるのですが、音の揃え方や響きの統一性、さらには日本語のタンギングなど、随所にクラシックで教えられる発声や歌い方のテクニックが散見されます。
これが、どんなに難しいメロディーが来ても歌いこなせる彼の技量の高さだと感じるのです。楽曲によって、尖った響きの細い歌声だったり、ソフトな歌声だったりと歌い方を変えることが出来るのも歌手としての高い能力の証明ですね。
この井口の歌声に対して、常田の歌声は全く正反対の特徴を持ちます。
常田の歌声は、幅が広く、響きも混濁しています。混濁していると言っても、それは不快な響きではなく、さまざまな響きの音色がいくつも存在し、同時に鳴っているという印象です。
この幅のある響きが、井口の透明感ある歌声をしっかりと下支えしているのが、この2人のハーモニーの優れたところです。
透明的で細い歌声と、混濁した太めの歌声。一見すれば、太めの歌声に飲み込まれてしまいそうなハーモニーになりがちですが、この2人の歌声の音質は非常に相性が良く、決して常田の歌声が井口の歌声を消してしまうようなハーモニーにはなりません。
常にしっかりと幅の広い響きが楽器でいうところのベースのように、井口のメロディーを支えるのです。それによって非常に安定感のあるハーモニーが作られていきます。
声と声、ドラムス、ベースすべてが主張し合う
また、常田の歌声が中心となっている『一途』の楽曲に於いては、今度は、常田の太い響きの歌声の上に、細い井口の声が綺麗に被さってくることで、二つの歌声が寄り添う形になっています。
多くのバンドの場合、メインボーカルの歌声に対して、サブの歌声は、単に綺麗な響きを被せてくるだけで、決してメインボーカルの歌声の邪魔をしないようにハーモニーを作ってきます。しかし、それでは、単に綺麗なハーモニーができた、という形の音楽になりがちです。
ハーモニー音楽を形成する上で大事なことは、それぞれのパートを担う歌声が、しっかりと自分の音楽を奏でて主張し合うことです。
お互いが主張し合うことで、二つのボーカルラインが交差したり離れたりを繰り返します。
このことによって、音楽のスケールが大きくなるのです。これは、クラシック音楽でのアンサンブルの基本の考え方の1つですが、2人のハーモニーの作り方を聞いていると、やはりそのように音楽を作っていることが窺えます。
一致させる部分と、お互いが主張し合う部分の歌い分けが見事にできていると感じるのです。
これと同じように、勢喜のドラムスの音や新井のベースの音も同じことが言えます。それぞれが、単に伴奏部分を担っているという音楽の作り方ではなく、ドラムスはドラムスの音楽を、ベースはベースの音楽を主張し合っているのです。
このように、それぞれの音楽が主張し合い、4つの音の合体によって音楽が作られているのがKing Gnuというバンドの特徴であり、他のバンドには見られない特徴であると言えるでしょう。
東京藝大で学んだクラシックが与えたもの
彼らが常に話す「社会と結びついた音楽」というのは、裏を返せば、音楽という文化が社会と乖離していることを指します。特にそれは、常田や井口が学んだクラシック音楽に於いて、現代社会と乖離していると感じることが多いということなのでしょう。
私自身も音大出身で、クラシック畑の音楽を学んできた人間ですから、彼らの感覚は理解できます。逆にクラシック音楽の存在意義は、そこにあるとも言えるでしょう。
何百年という時代の変化を超え、受け継がれてきた音楽だからこそ、現代の煩わしさから一瞬でも離れて、その懐の深い音に触れていくことで癒される瞬間を求めることができるのがクラシック音楽の魅力なのだということもあるかと思います。
しかし、このような視点で音楽を捉えることは、クラシック音楽の最高峰の機関で学んだ彼ら2人だからこそ、言える言葉なのかもしれません。
目指す音楽は違えども、優秀な仲間が集う大学で、音楽のクオリティを磨くことや、常に自分の音楽と向き合い、ストイックにブラッシュアップしていく姿勢などを常田は学んだと言います。
そういうストイックさは、自分達の音楽を確立していくのに重要な要素になります。
井口も「自分はミュージカルとか舞台とか、やりたいことがあったので、ちゃんとクラシックを勉強したわけではない」と言いますが、常に自分をどう見せるのか、という点に於いて、環境的には非常に良かったと話しています。
声楽では、オペラ実習や演習は必須科目でしょうから、そういう勉強の中で、常に自分をどのように見せていくのか、という自分の見せ方というものを自然と身につけていったのではないかと思うのです。
いずれにせよ、東京藝大というクラシック最高峰の場所と優秀な仲間達に囲まれた環境で培われたものは、彼らの作り出す音楽の基礎を作り上げていると言っても過言ではないでしょう。
彼ら独自の発想から生まれてくる音楽が土台の部分でしっかりとしているのは、そういう理由からではないかと感じるものです。
楽曲を作り出す根底の部分に、彼らが幼少期から学び続けたクラシック音楽の基礎というものが大きな力になっていることを感じさせます。
また、『三文小説』『白日』などのネーミングセンスは、ことばの一つ一つに純文学を感じさせるものであり、MVと共にノスタルジックな独特の世界観を描き出しています。
J-POPとクラシック音楽の融合を描くもの。それがKing Gnuというバンドの存在だと私は思います。