見出し画像

郷ひろみ『生き様そのものが郷ひろみ』(後編)人生を変えるJ-POP[第18回]

たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。

新年最初の記事は、昨年デビュー50周年を迎えた郷ひろみさんです。年末に行われた1日限りの50周年プレミアムコンサート「Hiromi Go 50th Anniversary “Special Version”~50 times 50~in 2022」を拝見してきました。彼の50年に渡る活躍の軌跡と50年歌い続けられる歌声の秘密に迫っていきたいと思います。

(前編はこちらから)

大ヒットの後に、単身、ニューヨークへ

2002年1月、彼は単身でニューヨークへ渡りました。

彼が46歳の時です。46歳と言えば、どの分野の仕事をしている人でも、そろそろ中堅からベテランという領域に入ってくる頃。ましてや歌手として17歳でデビューした彼は、デビューから30年が経とうとしていました。

彼がニューヨークに単身で渡った理由はただ一つ。自分の歌唱力、発声というものを根本から見直すためです。

彼は、自分の歌について、早い時期から、技術が足りないと思っていたようで、先にも書いたように、35歳の時にやっと少し歌えるようになったと思ったと言っています。

デビューから20年経って、少し歌えるようになったと感じているのです。そしてバラード3部作を歌い、その後、自分の歌に満足を見つけられなくなったと言うのです。彼が40歳の頃です。

自分の中に広がっていく虚無感に対してくすぶっていた気持ちに火が灯るように3年後のアメリカ行きを決めたのが1998年秋でした。

自分に不足している歌の技術を補うことが、この先の人生を変えていく、と確信したのです。その決意通り、彼は『GOLDFINGER’99』の大ヒットの3年後、2002年にアメリカへ行きました。

数年後に日本に戻ってきた時、自分のいる場所は無くなっているかもしれない、と思いながらも、テクニックというものを手に入れて日本で郷ひろみとして受け入れられなくても、それを手にした自信で次の何かに進めるのでは、と考えたと言います。

このまま足りないものに目を瞑り、自分を騙して過ごしていく方がいいのかもしれないという気持ちとの葛藤の中で、彼はアメリカ行きを決めました。
それが彼の歌手人生を結果的に大きく変えることになったのです。

40代後半で発声を根本から見直す

歌手がデビュー当時の歌声から別の歌声に変えることほど、怖いことはありません。

デビュー前ならまだしも、デビュー後は、その歌声がファンの耳に馴染んでおり、その歌声に惹かれてファンになった人もいるはずです。それぐらい、歌手にとって、歌声は、自分のイメージに直結する、歌手生命そのものと言えるアイテムです。

これまでも連載では、デビュー後に歌声を根本的に変えた歌手のことを書いてきました。

確かに、三浦大知やジェジュン、これらの人達以外にも何人も発声をデビュー後に見直した歌手はいます。でもその誰もがデビュー後まもなくの20代前半の時期に見直しているのです。それでも彼らは新しい発声を自分のものにするのに1年以上かかっています。

また、声帯という器官は男性の場合、甲状軟骨の成長に伴って、25歳ぐらいまでは成長し続けます。そのため、25歳までなら発声を根本的に変えることは可能だと書いてきました。

ですが、郷ひろみは、46歳。40代も後半の年齢で発声を根本から見直したのです。この事実には驚愕するばかりです。

これがどれほどの困難と努力を必要とするかは、歌を少しでもかじったことがある人ならわかるでしょう。そして、30年という長い期間、その歌声で活動してきたということは、その歌声に惹かれてファンになった人も確実にいるのです。

それでも自分の歌の発声を根本から見直すという決意は、このまま今の技術で突き進んでも歌手として限界があるかもしれない、いや、これ以上、進化できないかもしれない、という思いが彼の中にあったのだと感じます。

多くの歌手が、人気もあり、ヒット曲も多数あるという状況の中で、自分の歌声を根本から見直すために長期間、活動を休む、という選択は怖くてできないでしょう。

それでも彼は、そういう近視的な考えではなく、長く、郷ひろみとして歌っていくには、歌手として何が足りないのか、年齢を重ねても歌い続ける上で何が必要なのか、ということを見据えて決断したのだと思います。

そこには、彼の「人生は60代から」という考えが反映されているのかもしれません。

彼はアメリカでセリーヌ・ディオンやホイットニー・ヒューストンを指導したドクター・ライリーという世界で3本の指に入るボーカルティーチャーに指導を受け、3年という年月をかけて根本から発声を見直しました。そこには彼の血の滲むような努力があったことは間違いありません。

一度ついてしまった発声の癖を取り、全く新しい方法を身につける、という作業を彼は根気よく辛抱強くやり遂げたのです。そうやって3年後の2005年に日本に戻りました。

彼が手に入れた歌声が、彼の歌手人生の寿命を飛躍的に伸ばしたのは言うまでもありません。

彼の歌声は、デビュー当時と渡米後では大きく変わりました。デビュー当初からの彼の歌声の特徴は、濃厚で甘い響きですが、発声を変えた後の近年の歌声は、透明感と圧倒的な伸びが感じられます。

この伸びのある響きの歌声は、渡米前の彼の歌声には見られなかった特徴です。この歌声を手に入れたことで、彼の表現力は非常に豊かになりました。

そして、歌手にとって正しい発声をするということは、スポーツでいうところの正しいフォームで競技を行うことと同じなのです。

50周年を迎えて、存在の輝きは増す一方

先日、行われた1日限りの50周年プレミアムコンサート50times50では、50曲という驚異的な数の楽曲をメドレーを交えたとはいえ、最後の最後まで伸びのある歌声で歌い切りました。

また、年齢を感じさせないキレのあるパフォーマンスは、彼がどれほどの鍛錬を積み重ねてきたかの証明でもあるのです。人間は鍛錬を怠らなければ、正しいフォームで歌や運動を続ける限り、幾つになっても人前で歌い踊ることが出来る、ということを彼は私達に伝えていました。

「永遠のアイドル」などという軽い言葉で表すことができないほど、彼は「郷ひろみ」であり続けるために努力を日々怠ることがありません。

そして「50周年に50曲を歌う」というコンサートのタイトル「50times50」に隠されたもう一つの意味、「自分が50で、ファンの皆さんが50、足して100になる」というメッセージは、ファンがあって「郷ひろみ」という存在が初めて完成すると言っているのです。

「郷ひろみ」にとってファンはなくてはならない存在であるということの表れとも言えるメッセージです。

50周年式典で話した「これからも僕は皆さんのためだけに歌を歌っていこうと思います」という言葉は、彼のファンへの深い感謝と愛情を伝えています。

「郷ひろみ」とは、彼とファンが作り上げてきた唯一無二の永遠に輝き続けていくスターである、ということを証明する名称なのかもしれません。

久道りょう
J-POP音楽評論家。堺市出身。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン元理事、日本ポピュラー音楽学会会員。大阪音楽大学声楽学部卒、大阪文学学校専科修了。大学在学中より、ボーカルグループに所属し、クラシックからポップス、歌謡曲、シャンソン、映画音楽などあらゆる分野の楽曲を歌う。
結婚を機に演奏活動から指導活動へシフトし、歌の指導実績は延べ約1万人以上。ある歌手のファンになり、人生で初めて書いたレビューが、コンテストで一位を獲得したことがきっかけで文筆活動に入る。作家を目指して大阪文学学校に入学し、文章表現の基礎を徹底的に学ぶ。その後、本格的に書き始めたJ-POP音楽レビューは、自らのステージ経験から、歌手の歌声の分析と評論を得意としている。また声を聴くだけで、その人の性格や性質、思考・行動パターンなどまで視えてしまうという特技の「声鑑定」は500人以上を鑑定して、好評を博している。
[受賞歴]
2010年10月 韓国におけるレビューコンテスト第一位
同年11月 中国Baidu主催レビューコンテスト優秀作品受賞