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バイブル・リーディング(キリスト者の自由)

ケズィック・コンベンションで行われたバイブル・リーディングをまとめた書物『ケズィックの流れ』に所収されているポール・リース博士の講義「キリスト者の自由」(ガラテヤ書5〜6章)を私なりにまとめてみました。

なお、聖書の引用は、新改訳2017を用いています。



ガラテヤ書(5〜6章)講解

キリスト者の自由

信仰による義


ここでパウロは、キリストによってもたらされた古い生活からの自由(罪や罪責感から解放される)と、聖霊に満たされて信仰と愛によって生きていく新しい生活への自由を語っています。


当時、割礼派あるいはユダヤ主義者と呼ばれる人たちがいました。

彼らは、ガラテヤ地方のキリスト教会に入り込んで、

「キリストを信じて受け入れても、割礼を受けて律法を守らなければ救われない」

そう言って、異邦人にまで割礼を強要しようとしたようです。


しかし、それに対して、パウロは

「私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。"キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。」"

ガラテヤ5:5〜6 新改訳2017

と言っています。


律法によってではなく、
信仰によって、
御霊によって、
義とされるのです。


現代の日本では、割礼は関係ないと思われるかもしれませんが、
大切なことは、
救われるのに、キリスト以外のもの――例えば、禁酒禁煙など――が必要か?ということなのです。


キリスト者の自由の2つの形態



パウロはキリスト者の自由を2つの観点から見ています。


一つは、キリスト者の自由は、首尾一貫した愛のうちに表される。(ガラテヤ5章6〜15節)

もう一つは、キリスト者の自由は、聖霊の勝利のうちに表されるということです。(同16〜26節)



首尾一貫した愛

  ――神から人へ、人から隣人へ


"キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。"

ガラテヤ 5:6

 
まず神様が人間を愛しておられ、そしてこの神様の愛に呼応して、神を愛する信仰が生み出されていきます。

神様の愛によって信仰が生まれ、信仰が働いていく、それだけが救いの条件なのです。

そしてさらに13節では

「"兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」"

ガラテヤ 5:13

とあります。

ここでは、愛が互いに仕え合うことにつながっています。

これは「互いに仕え合いなさい」という戒めがあるから、その戒めに従って、お互いに仕え合うのではないのです。


心の中が愛に満たされているから、「互いに仕え合いなさい」という戒めがあろうがなかろうが関係なく、
いつも相手のことを思って、仕え合っていくのです。

リース博士は結婚に譬えています。
離婚に関する律法や法律があろうがなかろうが関係なく、
お互いに愛し合っているから、離婚なんて考えることもないのです。

リース博士はまたもう一つの実例を挙げています。
大学と神学校を卒業したブレングルという人が救世軍の士官学校に入ったのですが、そこで一番最初に命じられたことは、学生たちの靴を磨くことでした。

彼が靴を磨いていると、2つの声がささやいてきました。1つは悪魔の声、もう一つはイエス様の声でした。

悪魔は彼に「学歴もあるお前がそんなバカなことをするな」と言ってきました。

しかし、イエス様は彼に「わたしは弟子たちの足を喜んで洗った。それなら、お前が靴を磨くのは大したことではないだろう。」

彼はイエス様の声を聞いて、勇気百倍、イエス様と同じことをさせていただいていることを光栄に感じながら、精出して磨いたそうです。


ここでは《愛》がキーワードになっていて、
人間を愛する神様(キリスト)の愛→それに応えて、神を愛し(信仰)、さらに隣人を愛することへと、首尾一貫して、愛によってつながっています。



キリスト者の自由は、聖霊の勝利によって表される


私たちが愛の生活をしていくためには、時々刻々、聖霊により頼まなければならないということです。


"私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。"

ガラテヤ5:16


聖霊の働きには、消極的な側面と積極的な側面の2面があります。

聖霊の働きの消極的側面


消極的な側面というのは、
肉の働き(=自己中心・自我)から解放してくださるということです。

肉の働き(=自己中心・自我)の具体例は、ガラテヤ5章19〜21節に出て参ります。


「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。」

ガラテヤ5:19〜21

 

簡単に説明していくと、

淫らな行い、汚れ、好色、この3つは性的な乱れです。

偶像礼拝、魔術、これは宗教的な罪です。間違った方法で神を経験しようとすることです。

争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、これらは教会の中でも、しばしば見られるものです。

泥酔、遊興、これは日常生活の中で獲得する罪の性質です。

そして、これらは、すべて神のご栄光を汚すことであり、愛に反することです。

しかし、大切なことは、神はこれらのものから私たちを解放することがおできになるということです。


私たちは、キリストが、私たちのそのような古い性質(罪)を十字架に架けて滅ぼしてくださったということをまず信じましょう。

そして自分自身を聖霊に明け渡し、聖霊に働いていただきましょう。


聖霊の働きの積極的側面


前項では、聖霊の働きの消極的な側面として、肉(自分中心)の働きから解放について解説してきましたが、

次に積極的な側面について、お話しいたします。

ガラテヤ5章22〜23節で、パウロは

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」


と書いています。

これは、聖霊は肉の働きから私たちを解放してくださるだけでなく、
私たちの人生(生活)に豊かな実を結ばせてくださる生産的な御方であるということを表しています。

 
私たちが、心の王座を聖霊に明け渡して、聖霊に満たしていただくならば、
聖霊は私たちのうちに御霊の実を生み出してくださいます。

そしてその実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という9つの変化をその人にもたらします。

ある聖書学者は最初の3つ(愛、喜び、平安)は、心の変化。心が愛に満たされ、喜びに満たされ、平安に満たされます。

次の3つ(寛容、親切、善意)は他の人に対する愛の行いを表しています。

最後の3つ(誠実、柔和、自制)は自分自身の人格が聖化されていく、整えられていくということです。

これらの美徳は聖霊の働きによらなければ、身につけることはできないのです。



キリスト者の自由の実践


ここから、ガラテヤ書の6章に入ります。具体的な適用例です。

他者のために時間と労力を費やす


まず1節では、

"兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。"

ガラテヤ 6:1

と、パウロは言っています。

教会員の中に、
罪の誘惑に負けてしまって、過ちを犯してしまった人がいたなら、
失敗をして、倒れてしまって、立ち上がれないでいる人がいたなら、
相手を上からの目線で裁いてしまうのではなく、聖霊によって与えられた愛と忍耐をもって、そして柔和な心で諭して、正していくのです。



さらに2節では

「"互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」

ガラテヤ人への手紙 6章 2節 新改訳2017

と書いてあります。

ここに出てくる「重荷」という言葉は、ギリシア語では「船の積み荷」に使われる言葉で、人間の力では負いきれないほどの大きな重荷を表しています。


例えば、孤独、愛する者との別れ、失業、貧困、人から誤解されることなどです。


そして、リース博士は、6章1節では、他者の失敗のために、自分の時間を使って、正しい道に導くのですが、

この2節では、他者の重荷や悩み苦しみのために(悩みに耳を傾け、慰め励ますために)自分の時間を使う(費やす)のです、と言っています。


十字架だけを誇る


次に14節です。

"しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。"

ガラテヤ6章14節

 
パウロの時代、ユダヤ教徒たちは「自分は割礼を受けている」ということを誇っていました。

また、異邦人たちの中には、
ローマの市民権を持っていることを誇ったり、
あるいは、自然科学や哲学などギリシア文化に囲まれた環境の中にいることを誇っている人もいたかもしれません。

しかし、パウロはキリストの十字架だけを誇りに思っていたのです。

それは、言うまでもなく、キリストがこの私のために十字架に架かって死んでくださったからです。

ここでパウロは「この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。」と言っています。

キリストと出会い、キリストの十字架による贖い(救い)を体験したときに、パウロの価値観は一変してしまったのです。

これまで魅力に感じていたこの世のものに何の魅力も感じなくなってしまったのです。

それだけでなく、この世も自分に対して以前のように反応してくれなくなったと言っているのです。


リース博士は、ここでアウグスティヌスの例を挙げています。

アウグスティヌスは、キリスト者になる前は遊女と遊んでばかりいました。

しかし、キリスト者になった彼は遊女には興味を示さなくなりました。

ある日、道を歩いていたとき、彼はかつて付き合っていた遊女に会いました。

しかし遊女に声をかけられても、彼は知らんぷりをしていました。

遊女は「私が分からないの?」と言うと、彼は「私はもう以前の私ではないのだよ。あなたが知っていたアウグスティヌスは、もうこの世にはいないのだよ」と言い返したのです。

これがキリストの十字架によって造り変えられた人間の姿なのです。


イエスの焼き印


最後に17節です。

「私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。」

ガラテヤ6章17節

 
ここで、パウロはユダヤ人の肉体に付けられた印である《割礼》に対して、

自分は「この身にイエスの《焼き印》を帯びている」と言っています。

これは、決して比喩などではなく、
パウロは実際にキリストを宣べ伝えたために、迫害を受けて、暴力を受けたことが数限りなくありました。
まさに満身創痍、傷だらけでした。
そのことを「イエスの焼き印」と言っているのです。

イエス様は私たちのために十字架に架かって、全身に傷を受け、命を捨ててくださいました。
それに比べたら大したことはないとパウロは思っていたのでしょう。


それでは、私たちは、イエス様のためにどんな犠牲を払っているでしょうか。

もちろん、礼拝に出席する、献金をするということも犠牲を払うことです。

 それ以外にも、教会で何らかの奉仕をする。伝道や伝道の手伝いをすることもあるでしょう。

 伝道をしたけれど、相手に拒絶されたりして、心が傷つくこともあるかもしれません。
 しかし、それがパウロのいう《焼き印》を帯びることではないでしょうか。

そして、イエス様の十字架のお苦しみに比べたら大したことはありません。それは名誉の勲章です。


祈り🙏


私のうちにきよき霊を造ってください。
私にあなたの聖霊を満たしてください。
どうか、ただあなたの誉れのためにのみ
生きる者としてください。アーメン




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