【正論メンバー】村上和雄先生の想い出─サムシング・グレートのメッセンジャーかく語りき

【以下追悼文】

村上和雄先生の想い出─サムシング・グレートのメッセンジャーかく語りき

棚次 正和

2007年正月明けに突然、村上和雄先生よりお電話をいただいた。我が耳を疑った。正直な話、なぜお電話をいただいたのか皆目見当が付かなかった。村上先生と言えば、政府が肝入りで創立した筑波大学を代表する名物教授でいらっしゃるばかりか、遺伝子工学の世界的権威でいらっしゃり、小生との接点など何処にもなかったからである。実際には、1992年4月に筑波大学の哲学・思想学系助教授として小生が着任して、村上先生が大学を定年退官される1999年3月までの7年間、つくば学園都市の同じ空気を吸っていた。冬は筑波降ろしが吹き込み、夏でも爽やかな涼気漂う、電信柱のないだだっ広い外国の街と見紛うような学園都市のあの空気をである。時おりキャンパス内で先生のお姿を見かけ、遠くから窺うように遥拝していた。旧知の同学系の荒木美智雄先生によれば、村上先生はキャンパス内をしばしば赤いウインドブレーカーを着て颯爽と歩いておられたという。正に洋行帰りの雰囲気を漂わせておられたのである。

後日、判明したのだが、村上先生の甥に当たる村上辰雄氏(上智大学准教授)が、祈りの研究者として小生のことを推薦してくれたらしい。既に、1998年に博論「祈りの現象学」で学位を取得して、その縮約版の拙著『宗教の根源-祈りの人間論序説』(世界思想社)を出版していた。受話器の向こうで、先生は「<祈りと遺伝子>の研究をするので手伝ってくれませんか」と仰った。その話は、小生には渡りに舟であった。何しろ、2002年12月に筑波大学から京都府立医科大学へ勤務先を移して以降、単科の医科大学という新しい教育・研究の環境に馴染めず、どうしたものか途方に暮れていたからである。「しめしめ、これで理系の人たちと共同研究ができる」と内心ほくそ笑んだ。「いよいよ出番が来たぞ」。ところが、敵もさるもの、その共同研究は、数年間は研究計画を立てるものの、なかなか助成金が獲得できなかった。当時、国際科学振興財団・バイオ研究所の林隆志研究員(笑いと遺伝子の研究ではたぶん世界初の学位を取得)が書類を作成して、厚労省などに研究助成の申請書を提出してくださったのだが、採択されないのである。当時の研究計画は、短い祈りの言葉を数週間、毎日15~20分ほど唱えたグループと、そのような祈りをしないグループ(対照群)との間で、どのような遺伝子のスイッチ・オン/オフの違いが出て来るかを調べようとするものであった。

さきほど「敵」と言ったのは、採否を判定する審査員のことだが、研究課題に「祈り」や「宗教」などの言葉が入っていると、まず助成金獲得は無理である。文理双方に精通した審査員などおらず、自然科学系の審査員は、人間の「意識」を直接のテーマとして扱うことは考えていなかった。当時の共同研究に対する評価基準は(たぶん今でも)、文理連携の研究課題を必ずしも想定したものではなかった。量子力学の「観測問題」が70年以上も前に提起されていた当時でさえ、そのような状況であった。京都大学のカール・ベッカー先生をお誘いしたこともあったが、看護師の燃え尽き症候群に関する研究で手が一杯とのことであった。この「祈りと遺伝子」の共同研究が、纏まった研究資金を獲得できたのは、計画し始めてから5年後の2012年8月になってからである(後述)。

話は少し戻るが、2007年5月、眼前に霊峰富士が聳える富士急ハイランドリゾート・ホテルで白光真宏会主催のラウンド・テーブル・ディスカッションに、村上先生からの強力なご推薦で参加するという光栄に恵まれた。宗教家、科学者、霊的指導者、平和活動家など13ヶ国から30人ほど集まり、幾つかのテーマで意見交換をした。同時通訳が付き、文化的背景が互いに異なるにも関わらず、参加者同士は心を一つに共鳴し合っているように感じた。ユダヤ教のラビが「祈っているだけでは駄目で、行動しなければなりません。」と主張したのを聞いて、小生は思わず、「祈り自体が最も有効な現実の行動です」と発言したことを覚えている。その後は、どうしたわけか、富士山麓朝霧高原で毎年5月に開かれるSOPP(Symphony of Peace Prayers, 世界平和交響曲)では、いつもの野外道場の芝生ではなく、テント内の来賓席へと案内されるようになった。

また、同年7月から9月にかけて4回ほど、ライターの川北義則氏と祥伝社編集の石井康夫氏とホテル等で会って、村上先生と小生はインタビューを一緒に受けた。合計で5時間近くは話しただろうか。その内容が後日、村上先生との共著『人は何のために祈るのか-生命の遺伝子はその声を聞いている』(祥伝社、2008年4月)として出版されたのだが、ゲラ刷りを見て、大きなショックを受けた。内容が醸し出す波動が私たち二人と余りにも違っていたのである。そこで、バッサリと相当な部分を削除し、修正・加筆することになった。この共著は、幸いにも順調に増刷され、4万部が出た時点までは記憶していた。

その後、村上先生からは、毎年のように正月明けか年末にお電話をいただき、京都市内のホテルで会食させていただく機会があった。このようなことは、滅多にあるものではない。その時の先生は、比較的物静かな印象であった。そらそうであろう。落語家だって、演芸場(寄席)の外でも同じ調子で笑いを誘っているわけではない。研究者も同じである。むしろ、ご講演などで、村上先生が駄洒落を飛ばして、聴衆の爆笑を誘っている方が、よほど可笑しいのだ。「死後の世界は幾つあるかご存じですか。何と、二十です。しご、二十。」「笑いは笑い事ではない。薬よりもよく効くんです。吉本は笑いの薬、DVDを発売しました。これからは、笑える医療が始まります。」村上先生のご講演は、何度か拝聴していると、笑いのタイミングが自然と分かるようになる。「あっ来るぞ」と思っていると、予想に違わず、ちゃんと律儀に来るのであるが、その都度、自分も笑う羽目になる。これがプロのお笑い、いや失礼、プロの研究者の話術というものだ。

村上先生自身のご研究については、牛3万5千頭の脳下垂体から抽出したレニンの遺伝子解析(研究室がホルモン焼きの店に化けた!)、それに続いて、高血圧の黒幕と言われているホルモンを操る酵素ヒト・レニンの遺伝子解析(1983年)、筑波大学ご退官(1999年)後のイネのゲノム解析(米だけに米国の研究所と競って1万6千個の遺伝子解読に成功)などは、いずれも世界の超一流の研究所と渡り合い、最後の土壇場で遂に放った9回裏逆転満塁ホームランのような奇跡的な成果なのである。また、2002年に立ち上げられた「心と遺伝子研究会」のHP(村上和雄 心と遺伝子研究会 (mind-gene.com))を是非ともご覧いただきたい。心の働きが体の遺伝子に何らかの影響を与えているのではないかという仮説を検証すべく、バイオ研究所研究員(堀美代、坂本成子、大西淳之らの諸氏)と連携した多数の研究員の方々と様々な共同研究をしておられる。吉本興業のお笑い芸人B & Bなどを登用した「笑いと血糖値」、「笑うネズミ」の作成などである。村上先生は「日本笑い学会」という正真正銘の学会に所属され、いわば笑いながら笑いの科学的解明に取り組んでおられた。「笑いには副作用はありません。副作用がない薬というのは原則ないんですね。もしそういう薬があるのなら、それは効かない薬なんです(笑)。」村上先生は、至る所で、およそ次のように述べておられる。

遺伝子情報は、それらが書かれてあったから解読できるのだが、いったい誰が書いたのか。書いたのは目に見える自然ではなく、目には見えない自然に違いない。その不思議な自然の力を「サムシング・グレート(Something Great)」と呼んでいるのである。人間の遺伝子情報は32億と言われている。1頁1000字、1000頁の百科事典が3千2百冊も集まったような膨大な情報量がDNAの極微の空間(1gの2000億分の1の大きさ)に書かれている。生きた細胞が一個生まれる確率は、一億円のジャンボ宝くじが、連続して100万回当選するに等しい。その細胞が人には60兆もある。これはもう偶然ではありえない。遺伝学者・木村資生(もとお)氏の説だが、「有り難い」という感情の発露が、数字のある確率論で裏打ちされたわけである。生きているということは、普通考えていることよりも遥かにすごいことであり、本当に「有り難い」ことなのだ。リチャード・ドーキンスは「利己的遺伝子」(生物は利己的遺伝子の乗り物にすぎない)という仮説を掲げた。しかし、それだけではとても生きられるものではない。細胞や組織や臓器が縦横無尽に相互に協力し合い助け合う「利他的な」働き、否むしろ利己的とか利他的とかの区別する世界を超えた働きが、生命の中にはあるはずなのである。・・・・・・・

「生命は、宇宙、地球、サムシング・グレートが膨大な時間をかけてつくり出した最高傑作なのです。」

「立派な目標がなくても、小さい目標を持った方がいい。目標を持つことで<目標達成の遺伝子>がオンになります。」

「人との出会いも遺伝子オンには欠かせない要因。よい出会いは、いい遺伝子をオンにします。」(映画「SWITCH」2011年、より)

「心と遺伝子研究会」に関しては、年に一回の発表集会に5回ほど参加させていただいた。集会後の、講師の先生を交えての宴席では、村上先生は非常に寛いだご様子で、笑いが絶えなかった。酒量はビールコップ一杯程度で、後は皆との会話を楽しんでおられた。確か、筑波大学の宗像恒次先生(構造化連想法SATの提唱者。宗像大社神主の家系に属す)が言い出されたように記憶しているのだが、人間の類人猿分類について、場が盛り上がった。職人肌のオランウータン型、リーダーシップを取るチンパンジー型、物静かなゴリラ型、協調性のボノボ型があるらしい。宗像先生は、事もなげに「村上先生はチンパンジー型です」とのたまった。いつもきょろきょろ辺りを見渡し、好奇心旺盛な有言実行型ということか。村上先生は、見抜いたかと言わんばかりに、お顔をくしゃくしゃにして爆笑された。また、別の宴席では、国立循環器病研究センターの波多江利久先生が漢字の「心」という字の筆順(この筆順で書ける人は稀)は、血液が心臓の中を流れる通りの順序になっていると興奮気味に言われた。なるほど、漢字の世界は奥深いと感心する。登山医学の三浦豪太氏や医師の長堀優氏、吉川栄省氏なども参加され、談論風発、話題が尽きることがなかった。昼間の科学ではない、客観的ロゴスや常識を超えた主観的直観が閃くナイト・サイエンスの実験現場と化した。たいてい、先生は一時間ほどで退座され、後は講師や研究員の方々と、ぽっかり空いた、主なき時空間を直観の乱れ飛ぶたわいない会話で埋めていた。

村上先生にご講演をお願いしたのは、三度ほどある。最初は、2008年3月に宗教倫理学会主催の公開講演「祈りと遺伝子」で龍谷大学・大宮学舎にお越しいただいた。その時のご講演内容は、以下の雑誌に記載されている。(宗教倫理学会編『宗教と倫理』別冊第8号、2009年11月、34頁-58頁、<4D6963726F736F667420576F7264202D208F408BB382C697CF979D814195CA8DFB91E682578D86> (jare.jp))せっかく高名な先生をお招きし、入場が無料にも関わらず、聴衆が必ずしも多くなかったので、後で他の先生から残念がられた。もっと広報活動をすべきであった。次は、2011年7月にホテル京都エミナースで開いた、人体科学会とプロジェクト「いのち」との共催のご講演をお願いした。今度は有料であったが、聴衆はだいぶ増えた。最後は、2016年12月の人体科学会第26回学術大会でのご講演である(後述)。

村上先生との想い出を語る際に、映画「祈り~サムシンググレートとの対話」のことは外せない。白鳥哲監督からお電話があったのは、2010年6月であった。村上先生との共著『人は何のために「祈る」のか~生命の遺伝子はその声を聴いている』(祥伝社)を読まれて、映画制作を思い立ったとのことであった。映画「ストーンエイジ」「魂の教育」「不食の時代」などで、白鳥監督(俳優、声優でもある)は既に斯界では映像の詩人として知られていた。撮影は、6月の村上先生主宰の「心と遺伝子研究会」の発表集会前日に、つくば市のエポカルつくば(つくば国際会議場)で行なわれた。やや緊張気味の小生をご覧になって、「こんなことは馴れているんです」と平然と仰った。年間に50回も100回も講演をされている先生は、やはり違う。小生の撮影だけでも、優に1時間半はかかった。さほど広くない部屋の椅子に座って、白鳥監督からのインタビューを受けたのだが、何しろ暑くて眩しい。というのも、斜め前方にある照明板にライトを当てて光を反射させるのだが、それが尋常なく眩いのである。1メートル半ほど前の白鳥監督の顔が眩しくて全く見えない。それでも監督の声は聞こえるので、受けた質問について答えるという具合であった。なにやかやで、30分以上はインタビューに答えたかと思う。日本語の祈りの語源は、諸説あるが、いのり(生宣り)と見るのが妥当であり、「生命の宣言」、つまりは生き生きと生きることということなども語った。生命の本然の響きである「いのり」は、我執が絡んだ「ねがい」ではない。その撮影があった翌年の2011年3月11日にマグニチュード9の大地震が東日本を襲った。津波で原発事故が起き、東北地方・関東北部は、甚大な災害を被った。たぶん、白鳥監督の映画「祈り」の構想は、その時点で大幅に変更されたのではないか。2012年5月に完成披露試写会が東京・汐留であった。映画は、前半に村上和雄先生の研究人生を物語として描き出し、後半で祈りや意識の働きについて、著名な研究者のディーパック・チョプラ氏、ブルース・リプトン氏、リン・マクタガート女史やブラザー・ケシャヴァナンダ氏、柳瀬宏秀氏、そして小生にもインタビューするという構成であり、全編にわたって村上先生のお話が誘導の役割を果たし、基調音として鳴り響いていた。全体で2時間を超えていたと思う。映画が終了して一瞬の沈黙が流れた後、急に堰切ったように、会場のそこかしこで嗚咽のような歓声と拍手が湧き起こった。このような場面に居合わせたのは、初めてであった。映画「祈り」は、その後、何度か編集し直されたようである。劇場での一般公開は、同年9月であり、3年半に及ぶ日本映画最長のロングランを記録し、海外の幾つかの映画祭でも受賞しているのは、周知のとおりである。



ところで、映画「祈り」の撮影の5ヶ月後の同年11月に、突然不幸が襲った。村上先生が脳梗塞で倒れられたのである。おそらく、知らず識らずの内に、相当無理をしておられたに違いない。ただ、不幸中の幸いと言うべきか、講演先の主催者の方が迅速に対処されて入院した後つくばに戻り、脳神経外科の鮎澤聡医師が然るべき措置を施し、事なきを得たようである。

その後、回復された村上先生とお話する機会が何度もあった。リハビリの効果もあって、やや発音し辛そうな印象は受けたものの、普通にお話をされているように感じた。

2012年は、村上先生にとって大事な記念すべき年であったに違いない。ダライ・ラマ法王14世は、Mind & Life Dialogue(心と生命の対話)として欧米の科学者との対話を25年以上も続けておられ、村上先生も法王が居住されているインド北部のダラムサラに招かれて何度も講演をされたことがあった。確か、お二人は同年齢のはずで、魂の兄弟の如くに肝胆相照らすという感じであった。その対話の日本版を村上先生に託されたのだ。「ダライ・ラマ法王と日本の自然科学者との対話」のための実行委員会を設け、東京・南青山にあるダライ・ラマ日本代表部事務所の一室を借りて、その準備・運営の検討をするために4回、会合が持たれた。メンバーは、村上先生を座長に、大橋力氏、下村満子氏、矢作直樹氏、バイオ研究所の大西英理子研究員(記録係)、そして小生であった。登壇する科学者の選定、日程・プログラム・チケットの確認など、様々な検討を行ない、運営の仕方に関しても口角泡を飛ばす侃々諤々の意見交換があった。2012年11月6日-7日、ホテル・オークラ東京の平安の間で、ダライ・ラマ法王と日本の科学者8名との対話が行なわれた。本研究会のHPにも掲載のとおり、日本の科学者として、村上先生、志村史夫氏、佐治晴夫氏、横山順一氏、米沢富美子氏、柳沢正史氏、矢作直樹氏、河合徳枝氏の8名が登壇された。司会は下村満子氏が担当された。それぞれの発表の後に、ダライ・ラマ法王との間で質疑応答や当意即妙のやりとりがあった。村上先生がご発表の後、ダライ・ラマ法王は、「細胞が心を持つか、持たないかは、どのような要素が決定するのでしょうか」と尋ねられた。村上先生は、「そんな難しいことを私に聞いてもらっても困ります。それに答えられる科学者はおそらくいないでしょう」と質問を上手にかわしながら、「生命は必ず死に、そのときにはこころもなくなるわけですが、それとは別に魂と言われるものがどうもあるんじゃないか。それはおそらく死なないんじゃないか、と思っています」と答えられた。このような、ある意味で至極完うな認識を公然と語る科学者が、日本には余りにも少ないのは、なぜなのだろう。

ダライ・ラマ法王は、たいへん精力的で疲れを知らず、発言者の主張に熱心に耳を傾けておられた。開けっ広げで天真爛漫、ひょうきんな一面もあり、底抜けに開放的な明るさが漂っている。1949年、中共によるチベット侵略によって国外逃亡を余儀なくされた壮絶な歴史を背負っておられるにも関わらず、確かに稀有で強靱な精神性の持ち主であると感じた。山川草木にも仏性を認める日本仏教の特異性などにも関心を示されたが、おそらく最も重要で、また最も微妙な一点、すなわちダライ・ラマ法王の輪廻転生に関しては、明言を避けておられた。7日のクロージング・セッションでは、実行委員の安田喜憲氏、大橋力氏、そして小生にも発言する機会が与えられた。そこで、小生は、人間の存在構造を三階建て(霊・心・身)に譬えて、科学者は一階から二階へ昇り、宗教者は三階・二階から一階へ降りて、双方が階段の踊り場で出会わなければならないという旨の話をした。対話を行なった二日間の入場者は、4000人近くに達した。チケットの確認・発送などの対応に、村上先生始めバイオ研究所の研究員の方々は多忙を極め、最終の数日間はほぼ徹夜状態が続いたとお聞きした。お気の毒なことであった。ダライ・ラマ法王との対話の模様は、2013年1月に正月特番として東京MXテレビで放映され、また活字としては『こころを学ぶ ダライ・ラマ法王 仏教者と科学者の対話』(講談社、2013年11月)が出版された。

さらに、2012年8月に、村上和雄先生は、中村本然先生にお会いになった。当時、中村先生は高野山大学教授(密教学)で密教文化研究所所長も兼任しておられた。実は、その密教文化研究所の委託研究員として、小生は2006年より三年間ほど年に数回高野山大学に京都から赴いていて、生井智紹教授、室寺義仁教授などの諸先生方とは懇意にさせていただいていた。たまたま絶妙のタイミングで、フジキンという大阪に本社がある精密機器会社の小川修平会長のご遺志によって、2012年4月、高野山大学に寄附講座が開設されたのである。そこで、中村先生に共同研究の資金のことでご相談すると、可能性のありそうなご返事であったので、村上先生直々に中村先生に共同研究のことを提案されたのである。その件で何度か打ち合わせをし、また中村先生の献身的なご尽力のお蔭もあって、寄附講座の資金の一部を活用できることになった。誠に有り難いことである。私たちの計画は二本立てであり、一つは実験部門の共同研究「祈りと遺伝子」、もう一つは理論部門のプロジェクト「宗教と科学の対話」であった。実は、後者こそ正に本研究会の前身に他ならないのである。それぞれの活動の詳細に関しては、高野山大学・密教文化研究所発行の『プロジェクト「宗教と科学の対話」』(高野山大学 密教文化研究所紀要 別冊、2017年3月)をご覧いただきたいのだが、もはや入手は困難とも聞いている。

その冊子の中で、プロジェクト「宗教と科学の対話」の紹介の最後に、小生は以下のように記した。「このような比類なき対話の試みが寄附講座の基金で行なわれたこと自体が、誠に有り難く、奇跡に近いことであるが、本格的な対話は、実はこれから始まるのである。かつて高野山大学には念写実験で名を馳せた福来友吉博士が、東京帝国大学を去った後、晩年の十数年間ほど教授職に就いておられた。福来博士による念写や透視の実験は、霊性と科学が収斂する地平の一端を垣間見るもののように想われ、私たちが目指す試みの先駆的業績といっても過言ではなかろう。この対話の試みが、さらに継続されて、霊性(超宗教)と科学(超科学)が真の意味で出会う日が近いことを心より願うものである。」その想いは今も変わらない。

一方、共同研究「祈りと遺伝子」は、祈りの寺として知られた横浜最古の弘明寺(高野山真言宗、美松寛照住職)のご協力を得て、護摩行に関する実験を行なうことになった。護摩行の前と(最中と)後に、僧侶数名及び参加者数名に採血して、遺伝子発現と生理的変化を調べたのである。この研究成果の一端は、2017年11月にHuman Genomics(ヒトゲノム)という学術雑誌に公表された。Distinct transcriptional and metabolic profiles associated with empathy in Buddhist priests: a pilot study – PubMed (nih.gov)

残念ながら、「祈りと遺伝子」研究は、高野山大学寄付講座の資金が期限切れとなって、現在は中断の止むなきに至っている。とはいえ、「心と遺伝子」研究は、「祈りと遺伝子」研究に現実的に着手したことで、「たましいと遺伝子」研究の方向へ大きく舵を切ったことは間違いない。これが今後再開されて、「たましいと遺伝子」の関係解明という一大目標(河合隼雄氏も「こっちの方が面白い」と関心を示された)に向けて大きく前進することを心から願うばかりである。



最後に、2016年の人体科学会第26回大会での村上先生のことに触れておきたい。小生は2015年3月末で既に定年退職していたが、大会長に祭り上げられて、2016年12月初めに人体科学会学術大会を京都・北山にある稲盛記念館(京都府立医科大学教養教育の研究・教育施設が面積の半分を占める)で開くことになったのである。村上先生には30分ほどのご講演をお願いした。お足元がやや不安定でいらっしゃったが、奥様ご同伴の来京であった。凛とした雰囲気の奥様が、村上先生を陰で全面的に支えておられた。恥ずかしながら、家内は奥様と同窓の同志社女子大学の出身である。ご講演が始まると、例によって会場(250名ほど)は爆笑の渦となった。繰り返すが、このあたりがプロなのである。合気道の植芝盛平翁と同じく、多少の体の不具合など、演台に上がれば吹っ飛んで、いつもの村上節が容赦なく炸裂するのである。失礼なことだが、先生の話の内容はほぼ覚えていない。というか、巧みな話術によって、また勇気を鼓舞する話によって、普段の脳が完全に思考停止する。そして、ゆったりとした穏やかな気分に包まれ、話の展開や詳細などどうでもよくなるのである。あるのは、ここでいまの心地よさだけである。それは、ただ単に面白おかしい話なのではなく、血糖値や遺伝子の研究成果を踏まえた上での話であるから、いわば科学的知識と融合した魔法のような喜びや笑いなのである。ひょっとすれば、科学的研究を掘り下げてゆけば、宇宙の真理が突如パカッと開かれて、人々は呵々大笑するのかもしれない。


2021年4月13日、村上和雄先生は逝去された(享年85才)。訃報に接したのは、バイオ研究所の堀美代研究員からのお電話だった。その数日後に、絶筆とも言うべきエッセイ、The World of Something Great in the Eyes of a Life Scientistが収録された、樫尾直樹・カール・ベッカー編著Spirituality as a Way(Kyoto University Press or Trans Pacific Press)が手元に届いた。「たましい」や「スピリチュアリティ」に関するご執筆の箇所のチェックを小生に依頼されていた。「謹呈 村上和雄」の栞が挟んであった。最後の最後までご高配を小生の如き身に賜ったことに、「本当に有り難いことです」としか申し上げる言葉を知らない。人(霊止)は死んでも死なない。これは目下、検証できない真実である。「魂と遺伝子」のご研究が顕幽を貫いて成就されることを心よりお祈り申し上げたい。

師の逝きし卯月の空の筑波山

突き止めしレニン遺伝子大人(うし)の脳  (無季)

「たましひと遺伝子」結ぶ藤の花

                   (2021/05/05 棚次正和)


筑波大学名誉教授の村上和雄氏が死去 正論メンバー

村上和雄 心と遺伝子研究会HP


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