【短編小説】o1 pro modeによる短編小説
「岬の呼ぶ声」
坂道を下っていく朝の光が、ぬらぬらと青く光る石畳を照らしていた。ここは小さな港町、昨日まで出稼ぎの漁師たちが集まっては、潮の香りに混ざった笑い声を散らしていた場所だ。しかし、今朝、港には不穏な静けさが垂れこめている。漁に出たまま戻らぬ男たちの船影が、どこにも見当たらないのだ。
町外れの細い路地を抜けると、数日前までその家に暮らしていた老婆の姿があった。老婆は小柄で、背中を大きく曲げながら、微かな息遣いを残して廃屋の縁側に腰掛けている。日々を恨むかのような濁った目と、その目元に刻まれた無数の皺は、年月の嵐が遠慮なく吹き荒れた証だった。
「何を探しているんだい?」
少年は振り返った。その声を聞くと、胸の奥で固まっていた不安が少しだけほどけた気がした。町にただ一人残された少年は、昨日まで一緒に働いていた父と兄が帰らないことを知っていた。沖へ出たまま、行方が分からない。残された干物棚と漁網のにおいが、ただ虚しく漂うばかりだった。
「父さんと兄さんを、探しています。戻ってくるかもしれないって思って。」
少年は視線を港の方に戻した。遠く海面は灰色の雲に覆われ、波はいつもより重たげに寄せては返している。まるで水底から何かが手を伸ばし、船を飲み込んでしまったかのような不吉な空気だった。
「待つだけじゃだめだよ。」
老婆はちいさく笑うような、しかし乾いた音をのどの奥から出した。彼女の指は骨のように尖っている。その指先は港の反対側――岬の突端へとすうっと向けられていた。そこは滅多に人が立ち入らない場所だと聞いている。岩礁が突き出し、潮流が激しく、船底を割ってしまうような危険な海域だった。
「岬には昔から“呼ぶ声”があるといわれている。戻らぬ者を呼び返す、あるいは、さらなる深みへと誘う声がね。確かめるなら、今だ。」
少年は喉が渇くような感覚を覚えた。けれど進まねばならない、という気持ちが胸に芽生える。父と兄をただ待っていても、日の光はいつしか斜めに落ち、影を長く伸ばすだけ。少年は固い踵で石畳を踏み、家々の並ぶ細い道を抜け、岬へと続く崖道へ歩みだす。
海鳴りがひときわ強くなる。岩場に砕ける波の白い泡が空中に舞い、少年の頬を冷たく濡らした。やがて少年は、鋭い岩の突端に立つ。足元には黒い海が渦を巻いている。耳をすますと、ささやくような声が聞こえた。それは町の人々がさざ波の音と勘違いしていた声、あるいは風切り音と思い込んできた囁き。低く、不明瞭な音が、海面に伸びる影から立ち上り、少年の鼓膜を震わせた。
「帰れ、帰れ……」
少年はその声に向かって叫んだ。「父さん!兄さん!」声は波に砕かれ、散り散りになって空へ消える。しかし、少年は繰り返す。喉が裂けるほどに呼び続け、視界が涙で歪むまで叫び続ける。
どれほど時が経ったのか。気づけば、水平線の上に重たい雲が割れ、淡い光が差し込んでいた。その光の下、波間に小さな点が見える。それは朽ちた漁船の帆柱だった。折れ曲がりながらも、なんとか水面に浮いている。少年は息を呑む。あの船は父と兄の船に違いない。船はゆっくりと、まるで導かれるように岸へ流されてくる。
岬で叫ぶ少年の声は、確かに「何か」を揺さぶったのだろうか。男たちの安否はわからない。だが、帰るべきものが、少なくとも一片の手掛かりが、海から返ってきた。少年は波飛沫を浴びながら、崖を駆け下りる。空はまだ重いが、微かな光が港へと漏れ始めている。少年はそれを胸に、もう一度強く息を吸った。
戻ってくる者、戻らぬ者。すべてが岬の声と結ばれながら、この小さな町は今日も始まる。その石畳は、少年の足音を吸い込み、再び朝の光を受け止める。