【短編小説】「雨音と、眠らない街」by o1 pro mode
窓の外はいつからか、しとしとと雨を降らせ続けていた。ビル群が立ち並ぶこの都市は決して眠らない。夜になれば、ネオンが嘲笑するように点滅し、タクシーは蟻塚から溢れ出た働き蟻のように行き交う。人々は傘を差し、あるいは頭から水滴を零しながらも、足早に交差点を横切っていく。眠らない街。その言葉を、高瀬はずっと「過剰な虚飾」くらいにしか思っていなかったが、今夜ばかりはその意味を噛みしめていた。
高瀬は大通りから少し入った裏路地、白いLEDの看板がちらつくバーの前で足を止める。看板にはただ「Rain」とだけ書かれている。その名を持つバーは、この街で小さな奇跡を起こす場所だと噂されていた。店はガラス戸越しに青い照明が揺れ、ジャズトリオの生演奏が微かに響く。傘から滴る水音さえも、音楽の一部になっているようだった。
扉を開くと、カウンター越しにバーテンダーが静かに微笑んだ。髪をなめらかに後ろで束ね、黒いベストに蝶ネクタイ。彼は何も言わずにグラスを磨いている。「ここには、眠らない街で失くしたものが戻ってくる、と聞いたんですが」高瀬は少し躊躇しながらもそう告げた。バーテンダーは一瞬、青い光の中で瞳を細め、静かに頷く。
「何をお探しですか?」
その声は、雨夜を溶かすウイスキーの香りのように深く柔らかかった。
「…声、です。昔、隣で笑っていた人の声を、もう思い出せないんです」
高瀬はカウンターに腰を下ろし、濡れた傘を足元に立てかける。思い出そうとしても、当時の情景はすべて雨音に洗われて、空白になってしまっている。大通りのネオン、交差点で傘をぶつけながらすれ違う顔のない人々、喧騒のなかで掻き消されてしまった記憶。自分は何を忘れたのか。それは嘗ての恋人なのか、親友なのか、それともただの通りすがりだったのか。顔さえおぼろげで、ただ温かい声だけが記憶に焼き付いていたはずなのに、いまはそれすら掻き消されている。
バーテンダーは琥珀色のリキュールをグラスに注ぐ。高瀬はそれを口に含むと、不思議な柔らかさとほろ苦さが広がった。外では雨粒が路面を叩き、どこかビルの軒下では猫が丸まっているだろう。遠くにはパトカーのサイレン、近くには酔客の笑い声。カウンター上の小さな水溜まりに、青白い光が揺れ、楽器の弦が震えるように心がざわつく。
「この街は、決して眠りません」バーテンダーは静かに言った。「人々が求めるものが絶えない限り、光と音が途切れることはありません。そして、失くした何かを求める人は、いつか必ずここへ来るのです。ここは、雨音が記憶を呼び戻す場所でもある」
雨音。その規則的な響きは、心の底に沈んだ宝石箱をノックするようだった。高瀬は瞳を閉じる。耳を澄ますと、雨粒がアスファルトを叩く音の合間に、かすかな声が聞こえてくるようだ。それは子供の頃、狭いアパートの薄い壁越しに聞いた笑い声、あるいは昔夢見た約束をささやく声。思い出せない何かが、確かにそこにある。バーテンダーはそれを知っているかのように黙り、じっとこちらを見守っている。
高瀬はふと、グラスを握る手に力を込めた。スツールから降り、外に出る。まだ雨は降り続いている。相変わらず街は眠らず、ネオンと人波が絶えない。だがその喧騒の中、高瀬は初めて耳を澄ましている。雨音が街の息遣いと混ざり合う中、さっきまで思い出せなかった声が、微かに聞こえた気がした。
「おかえり」
誰の声だったのか、まだはっきりしない。けれど、音は確かにそこにある。雨音とともに、街は眠らないまま、その声を抱いている。髪の毛がじんわり濡れていくのも構わず、高瀬は通りを歩き出す。傘は畳んだまま、手に握っている。雨粒の一つひとつが、記憶の欠片を叩き起こすようだ。
きっと、この街は眠らない。誰かが失くしたものを、いつか取り戻すために。雨音は続く。見上げれば、水滴を透かしてネオンが揺れ、人々の声が混ざり合って新しい旋律を紡ぐ。この音の中に、自分が忘れた声も、必ず響いているのだろう。
高瀬は少し微笑み、足を進める。この眠らない街と、絶え間ない雨音が、かすれた記憶を少しずつ研ぎ澄ましてくれている。雨音に耳を傾けながら、彼は再び日常の喧騒へと、まるで小さな奇跡を抱くように溶け込んでいくのだった。