#6 ホテル暮らしの日記:「らしさ」
京都に行ったときに私は一つの仮説を立てた。
【「おはようございます」は関西弁(京都弁?)】
というものだ。
「早う」という言い回しを関西の方はすると思うが、それがおはようございますの語源になっているのでは?と考えたのだ。
つまり、かつて国の中枢が置かれていた京都の周辺で発生した言葉で、その方言が今になっても朝の挨拶の定型文として違和感なく定着しているのだろうと。
しかし、調べてみたところ「おはようございます」は歌舞伎の文化から生まれた言葉だそうだ。当時の流行であった歌舞伎役者が、挨拶で「おはようございます」を使ってて、それに庶民が憧れて、やがて全国的に使われる挨拶になっていったそうな。
千鳥のノブさんのツッコミをマネするサブいやつ的な輩は昔からいたということが分かってよかったが、なんだか腑に落ちなかった。
私は先に述べた仮説をひらめいた時、「おはようございます」に日本の歴史というか文化というか、「らしさ」のようなものを感じた。それなのに、蓋を開けてみればたったの400年くらい前に生まれた比較的新しい言葉で、なんだかガッカリしたのだ。
それと同時に、「らしさ」とは何かという疑問が生じた。“それ”を“それ”だとアイデンティファイできるほどの特徴というのはなんだろう。“それ”を“それ”だと定義するためには、“それ”が生まれた時から一貫して存在する何かがなければならないように感じる。(日本の場合はそれが天皇家であるって解釈もできそう)
特に個人の場合、そんなものはあるのだろうか。「自分らしい」と思っているその行動や思考は、実は数年前に生じたもので、それより前にあった出来事を都合よく解釈することで強引に「らしさ」に取り込んでしまっている節はないだろうか?
最近私は、自分にとって「らしさ」なんてものはこの世のどこにも存在しないと考えるようになった。
「自分らしく生きる」
SNSやテレビCM、インフルエンサーの発言などで散見されるこの表現だが、いまいちしっくりこない。
これにはしっくりこない理由というものがある。
「自分」には、主観的自分と客観的自分がある。
主観的自分とは、感覚器から入力される情報や、頭の中でのなんやかんや(悩みとか感動とか)によって形成される自分像。自分の五感をまるっきり誰かと共有したり、自分の思考を誰かと共有することはできない(今のところ)。これは自分しか知り得ない自分。
客観的自分は、言葉の通り誰かから見た自分のこと。自分の後ろ姿、声、癖、匂い。こういった情報は自分では得られない。誰かに聞いたり動画に収めたとしても、それは完全じゃない。(人の印象は個人の解釈や感性に歪められるし、動画も現実世界とは若干違う。)これは他人しか知り得ない自分。
この両者は絶対に交わらない。故にそのギャップに悩むことになる。「自分はこういう人間のはずなのに、この評価はおかしい」と。
この場合、違和感が生じる理由は明らかで、自分や他人を超越したどこかに、「明らかな自分」というものがあって、それは何にも侵されることのない本当の自分の姿であると考えるからだ。
そんなものはあるだろうか?
自分自身が「こういう人間だ」と思うのと同じように、他者も私をそのように観察する「あいつはこういう人間だ」と、それは観察者の数だけパターンがあって、その全てが「自分」である。そしてそれらも決して交わらない。
世界のどこを探しても、本当の自分なんて無い。
ただ、「自分らしく生きる」が何を表現したいかは分かるような気がする。それはつまり「主観的自分だけを盲目的に信じる」ということだろう。
たしかに、それは楽しい。
良いか悪いかは、わからない。
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