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【AI支援改稿】マリオネットとスティレット 第二十七話 救援の光
テルは獣人兵の血に濡れた制服の下で、拳銃を握る手が震えるのを感じていた。毛皮の生臭さと血の鉄錆びた匂いが、アトリエの絵具の清々しい香りと対極をなしていた。その違いが、彼の世界がもう二度と戻れないものになることを告げていた。
(レカ……君は、こんな匂いの中で生きてきたんだね)
幼馴染の少女の微笑みが、血まみれの暗殺者の姿と重なる。彼女は既にその時から街の闇を知っていたのに、テルだけがその事実から目を背け続けていた。
「お前、大丈夫かよ」
巨漢の獣人の声に、背筋が凍る。演技なんてしたことがない。でも、よろめく足取りを作る必要もなかった。恐怖で震える体をそのまま見せればよかった。ハーマンの銃が、重い責任の具現のように感じられた。
(逃げ出したい。この責任から、この重さから……でも)
レカが砂の上に突っ伏して、血を流している。暗殺ギルドへの忠誠と街への責任を背負い、それでも懸命に正しさを探そうとする彼女の姿。今までその重荷を一人で背負わせ、アトリエという安全な場所に逃げ込んでいた自分がいた。
(もう、君だけには背負わせない)
テルは引き金に力を込めた。震える指に、覚悟が宿る。これが、彼の選んだ道だ。彼が描きたかった理想の世界とは、あまりにも遠い現実。それでも、レカと共に見つめていきたい世界があった。
ダン!
テルは生まれて初めて、銃の反動の大きさを知った。マズルフラッシュと共に死の一撃を放つ時の衝撃を。炸裂する銃声が、その場の全ての人間の思考を断ち切った。テルが放った弾丸は、空気を裂きながら、一直線にジャドワへと向かった。しかし、ジャドワはその射線を見切るように素早く動いた。首を十数度傾ける。それだけ。ただそれだけだった。銃弾は彼の側頭部を掠っていった。銃弾は背後の獣人兵の帽子を射抜き、鈍い悲鳴が上がった。
「た、隊長!?」
副官が上ずった声を上げた。驚いたのはレカを抑えていた彼女であった。円陣の中に帰ってきた仲間が……いや、仲間の毛皮を被った敵が、失えば即この反乱の失敗を意味する最重要人物を撃ったのだ。しかも火薬の臭いも一切ない状態で……。そして彼女の個人的な記憶、自分の種族の血に対するトラウマ……。
それら全ての要素が、副官に迷いをもたらし、絶対に押さえておかなければならない暗殺者を、足で拘束する力が一瞬だけ緩んだ。レカにはそれだけあれば十分だった。体を捻り、折れた手首を無理やり引き抜き、自由になったそれと足で思いっきり砂地を叩いた。
「しまっ……」
猫族の副官が焦りの声を上げた時、すでにレカと彼女の体は空中にあった。二人分の体を宙に放り投げるレカの力に驚嘆する心を抑え、副官はすぐに猫由来のエメラルドのような目を見開き、ナイフでレカの首をかっ切ろうとした。しかしナイフはまるで何かに突き刺さったかのように動かない。レカが、歯でくわえて固定していた。奥歯と前歯の間から、血が流れた。そうまでして狙うは、銃弾を避け、さらに二射目を警戒してテルを見据えていたジャドワ。レカは空中で体を捻って背中の猫族を遠心力で放り投げると、咥えていたナイフを持ち直し、ジャドワの首筋を狙った。だがそれは肩の筋肉を刺しただけで止まった。強化された筋肉が引き締まって、先ほどのレカがナイフを噛んで止めたように、それは動かなくなった。
「クっ!?」
しかしレカはそれにも対応する。そのナイフの柄をブーツの足裏で蹴って踏み台にし、ジャドワの顎へ蹴りを繰り出した。そしてその時、テルが二射目を放った。ジャドワの超人的動体視力は、レカの蹴りを顎に受けながらも銃弾の軌道を読み、それが明後日の方向に飛んで行くことを確認した。だがそれ故に、顎へのダメージは軽減しきれなかった。
「ぐふっ!」
ジャドワの視界が揺れ、牙が折れて飛んだ。
「隊長!」
円陣がいっぺんにパニックに陥った。全ての傭兵たちの注意がジャドワに向いた時、副官が命令を飛ばした。
「そのガキを殺せ!」
レカの赤い瞳がほんの一瞬だけゆらぐ。テルがもう一度撃った。斧槍を持って迫ろうとしていた大男は、脳天に弾丸を喰らって絶命する。その間に、ジャドワは円陣の外へと退避しようとした。
「ジャドワぁ!!」
レカの赤い瞳が燃え上がる。左足一本で着地、全身の筋肉を弾丸のように解き放った。アリーナの砂の上スレスレを矢のように飛び、ジャドワに追い縋る。だがレカの前に、大柄な獣人が突き出したツヴァイヘンダーの切先が迫った。レカは一瞬で判断した。レカは瞬時の判断で腕を犠牲にした。剣先が掌を貫くが、頭部を割られるよりはましだった。残った腕も使えなくなったが、ジャドワに追いつくことができた。
「クソッ!」
ジャドワの口から初めて焦りの声が漏れた。レカの目が紅く燃える。円陣が崩れる。レカは一気に距離を詰める。そしてハイジャンプ、ふたたび頭部を狙う。ジャドワは咄嗟に身を捻るも、それを見越していたかのように、レカは空中で体勢を入れ替え、攻撃を仕掛ける。これが最後、その覚悟で放たれた三連撃は、振り返って受け止めようとしたジャドワの顔面を捉えた。つま先を使った足尖蹴り、足の側面を使った足刀、そして腰を戻すように伸ばした踵蹴り、閃光のようにまたたく三連蹴り。
「ガァッ……」
ジャドワの顔面の骨が砕ける音がした。彼の身体が彼方へ吹き飛ぶ。そして、そのままアリーナの外、観客席へと転がり込んだ。頭の上にヒーローが落ちてきて、獣人たちが慌てた。
「た、隊長!」
しかしレカもまた満身創痍。衝撃に耐えられなかったのはレカの足も同様だ。砂地の上に倒れ込むようにどさりと落ちる。視線の先には幼馴染みがいた。
「ぐう、テル……っ!?」
レカは円陣の中へと戻ろうとしたが、体を起こした瞬間、ガクンと膝が抜ける感覚を覚えた。そのまま砂の上に倒れ込む。もう戦える体ではなかった。手首が折れた右腕は痛々しく垂れ下がり、左手は手のひらが裂けている。ジャドワを蹴った足は感覚がない。全身血まみれ。その赤い瞳には今なお決意の光が宿っていても、彼女はもう飛び上がる力もなかったのだ。
「あ……」
レカの目に、中心あたりに殺到する獣人たちの背中が見えた。テルが死ぬ。数秒後に起こるはずの現実に、レカの世界は真っ白に……。
だが、黒い風が吹いた。いや、黒い影が駆け抜けたのか……。
(しにがみ……?)
レカには何が起こったかわからなかった。ただ、大鎌に刈り取られる麦のように、円陣を構成していた獣人傭兵たちの首や腕がちぎれ飛ぶのだけがわかった。
「ぎゃああああああ!」
テルを囲んで滅多刺しにしようとしていた兵士たちが悲鳴を上げた。あるものは肩から巨大なスプーンで抉られたように腕を失い、あるものは首がどこかにとんでいって胴体だけが倒れ込んだ。
「大丈夫か? レカ」
その声で、レカには全てがわかった。
「お、おとーさ……ボス……」
レカは砂の上から、父と呼ぶことはできない父の姿を見上げた。緊迫したアリーナに、タティオンの黒いスーツ姿が浮かび上がった。その老人の体からは、まるで闇そのものが立ち上るようなオーラが放たれている。そして真っ黒な風の中に、赤い光が瞳からほとばしっている。
「うっ!? タティオン・ヴォルヴィトゥール……!?」
「あ、亜人種にとっての、悪魔だ……」
獣人の傭兵たちは近づくことはおろか、あまりの威圧感に動くことさえできなかった。一歩後ずさる。暗殺ギルドのボスの存在そのものが、この場の空気を支配していく。彼らの御大将、ジャドワの戦闘力は誰もが知るところである。背の高い黒スーツの老人に対し、それに匹敵するものを、この場にいるすべての獣人たちが本能で感じていた。タティオンは辺りを取り囲む者たちをゆっくりと見渡し、大柄な獣人の後ろで必死に先込め獣に弾をこめて火縄に息を吹きかけている小柄な犬の獣人を見つけた。即座にタティオンの体が消えた。瞬きする間に、彼は射手の背後に立っていた。まるで空間を歪めたかのような動き。レカですら、その軌跡を目で追うことはできない。
「さすが……」
怪我の痛みを自覚してきたレカが呟く。安心したのか、だんだんとその意識は苦痛に支配されつつあった。
彼女の戦闘モードを解除させているのは、街で最も危険な男。暗殺ギルドの総帥であるタティオンの姿は、闘技場の魔光灯の中で、黒い影のように翻り、獣人の軍団を薙ぎ倒していく。彼の手には武器らしい武器は見えない。だが、その指先が触れた獣人は、内部から血を吹き出したり、手足や頭部がちぎれ飛んだり、何かしらの致命傷を負って倒れていった。
「ぎゃああああー!」
「うわ、うわああ、ジャドワ隊長の他にこんな……っ!?」
「副官どのを守れ! 守らんか!」
膨大な数の獣人が死んでいく。しかしタティオンはいずれかのタイミングで動きを止める。
「全員、武器を捨てて投降せよ。もう無駄だ」
その声は穏やかだったが、アリーナ全体に届いていた。獣人傭兵たちの動きが一瞬止まるが、雄叫びと共に動き出す。まだ彼らの士気は萎えていなかった。すると、タティオンはため息をついて手で何かのサインを出した。古い魔術師のような指の動きで。
その瞬間、空から轟音が響いた。
闘技場の全員が、空を見上げた。
「あれは?」
レカはだんだん焦点が合わなくなっていく目でそれを見つめる。闘技場の上空が、突如として渦を巻き始めた。最初は魔光灯の青白い光の明滅とも見間違えるほどの些細な歪みだったが、一瞬で轟然たる存在感へと変貌した。まるで夜空そのものが裂け、異世界からの来訪者が姿を現したかのように、空間が大きく歪んだ。
「なっ……!」
獣人たちは夜空から目を離せない。闘技場の直上に現れたのは、真鍮とマホガニーで装飾された重厚な装甲と、魔法科学の粋を集めた物体だった。
「何だありゃあ!?」
それは飛空挺だった。全長30メートル以上はある巨大な船体が、鯨のような優雅さでゆっくりと姿を現す。船体側面には魔法科学ギルドの紋章と、ロドヴィコの家紋が交差した意匠が施されている。光学迷彩のルーンが一枚一枚解除されていく様は、巨大な古代竜が鱗を輝かせながら目覚めるかのようだった。その巨大な姿が青白い魔光灯に浮かび上がる。船体からは何条もの魔導灯の光線が射出され、獣人たちの顔を照らし出した。瞳孔が恐怖で縮む様が、その強烈な光の中ではっきりと見える。そしてすぐに、船体の側面が音もなく開き、黒い孔が夜空に浮かぶ。
「き、貴族どもは、こんなものを……」
誰かが呟いた。飛空挺の側面からロープが次々と投下され、まるで黒い雨のように降り注いだ。ロープを通り、闇に溶け込むような黒装束の人影が次々と滑り降りてきた。それぞれが暗殺者特有の軽やかさで落下速度を制御し、アリーナの砂地に着地すると同時に円形に展開していく。
「ボスとレカ、それからアルエイシス家の御曹司を囲め!」
そう指示を飛ばすのはスキンヘッドの大男、スタヴロだ。いつものマフィア然とした黒スーツではなく、都市部用の迷彩パターンの戦闘服に身を包んでいる。手にするのはクロスボウだった。猫族の副官の指示が飛ぶ。
「全員、奴らから離れろ! 近接戦闘は不利だ! もう闘技場から街へ出ろ! 外で陣形を組め!」
それを聞き、アリーナから剣や斧槍を持った獣人傭兵たちが退避していく。ぞろぞろと出口へ移動しようとする傭兵の群れに向かって、タティオンの後ろから現れた影が動いた。目出し帽の暗殺者の一人がクロスボウを発射したのだ。弾帯の速度は決して速くない。レカでも、空中にあるそれの詳細を見てとれた。矢じりと柄の接続部分が青く輝いている。
「あれは……」
音もなく放たれた矢は空中で弧を描き、闘技場の外へ出ようとする獣人の集団の中心めがけて飛んでいく。
「伏せろ!」
誰かが叫んだが、もう遅かった。矢は獣人たちの群れの中心に着弾した。するとそれは彼らの予想とは違い。爆発するでもなく、閃光を放つでもなく、ただ青白い電光を周囲に放出した。まるで落雷が濡れた地面に電導して広がるように。
「ぐああっ!」
獣人たちの悲鳴が上がる。電撃の網に囚われた七、八人の獣人が、まるで見えない鎖で縛られたかのように硬直した。その体から青白い魔術の光が立ち上る。スタヴロたちの攻撃はそれだけではない。別の一人が、今度は逃げようとする別のグループに向かって放った。再び音もなく矢が飛び、今度は十人ほどの獣人たちが同時に電撃の網に囚われた。
「ウギャアァッ!」
残った獣人たちは、無秩序に散り散りになって逃げようとする者、あくまで抵抗しようとする者、様々だった。しかし暗殺者たちの手からは次々と矢が放たれ、青白い電撃の光がアリーナに満ちていく。スタヴロを中心とした暗殺者部隊は、魔法の矢を放ちつつ、レカとタティオンを守るように移動する。
「効率的だな……」
倒れているレカがぼうっとつぶやいた。飛空挺にせよ、その装備にせよ、この世界にはそぐわない技術と発想の存在……。彼らはいずれも暗殺者の装いをした精鋭たち。漆黒のレザーで作られた特殊スーツには、魔道器が幾つも埋め込まれ、わずかに青い光を放っている。その顔は全て覆面で隠され、どこか人間離れした無機質さを漂わせていた。
そして彼女は畏怖とともにタティオンを見た。老人は傍に静かに立って笑っていた。この街にそびえ立つ時計塔のように、彼はこの場では絶対の支配者だった。その笑顔には、息子の仕事ぶりに対する満足と、反乱を試みた愚か者たちへの侮蔑が混ざっていた。
「全員を拘束せよ。街へ出すな」
スタヴロの指示が飛ぶ。電撃に包まれた獣人たちは、痙攣しながらも致命傷を負うことなく床に伏せっていた。この矢の効果は一時的な麻痺と魔力の封印。後で尋問するための準備だった。
テルもまた、暗殺者たちに保護されていた。その光景を、息を飲んで見つめていた。暗殺ギルドの力は圧倒的だった。こうして秩序は維持される。しかし、その秩序の中で苦しむ者たちがいることもまた事実だった。彼の目に映る光景は、救援というよりも、抑圧のように見えた。タティオンがそばにきて、砂と血に塗れたテルに、あれだけ戦ったのに血がついていないシワだらけの手を差し伸べる。
「怪我はないか?」
テルは頷いて手を取り、立ち上がって砂を落とした。ふと、リボルバーを掴んでいた方の手が、ガチガチになって、銃を離さないでいるのに気付いた。緊張が解けていくが、指の感覚はないままだった。引き金も引けるかわからない。テルはフーッと息をついた。
「彼らを……殺さないんですね」
テルの言葉に、タティオンはうなずいた。
「大部分はただ、騙された哀れな獣にすぎない。傭兵ギルドの募兵に応じ、ジャドワの演説で唆されただけの……」
その言葉が慈悲なのか、あるいは別の目的があるのか、テルには判断できなかった。暗殺者たちはわずか二十人ほどだったが、その包囲網は完璧だ。数百人を完全に拘束しつつある。反乱軍はもうすでに完全に封じ込められている。闘技場の出口はとっくに何本もの魔法の矢の電撃で塞がれ、アリーナには断末魔の叫びや、怒号、そして悲鳴だけが響いている。砂地を這いずって逃げようとする獣人もいたが、既に一歩先に暗殺者の足が置かれていた。そんなアリーナに散らばる青白い魔法の光の中で、レカの赤い瞳だけが、異質に輝いているように見えた。
テルは無意識に走り出す。
「レカ!」
彼はは血に染まった獣人の制服を脱ぎ捨て、アリーナの砂を踏みしめた。金の刺繍入りのシャツは汚れ切り、貴族の象徴はもはや形だけのものになっていた。だが彼の目には、それを気にする色はまったく見えない。
彼は、命懸けで銃を撃ったその理由の根源へと、駆け寄っていた。呼吸も忘れるくらい必死に。テルの瞳には、これまでにない決意が宿っている。レカとの距離を縮めるごとに、彼の背筋はより伸び、肩の力は抜けていった。その姿には、もはや逃げ場を求める貴族の未熟な子の影はなかった。
うつ伏せになっていたレカは、彼の接近に気づくと、ハッと息を飲んだ。闘技場に轟かせていた闘気も、他人を寄せ付けぬ冷徹さも、どこかへ消え失せていた。タティオンはその様子を見て、片眉を上げた。テルが目前まで来て膝をついた。
「レカ!? 怪我は……」
テルは初めて幼馴染みの女の子の惨状を見た。手を取ってやろうとしたが、レカの血まみれの両手はどちらも酷い怪我で……。
「レカ……」
周囲では青白い魔術の光が散乱し、獣人たちの苦しむ声が響いていたが、彼の耳にはもうそれらは聞こえない。彼の視界には、砂の上に横たわるレカの姿しかなかった。
「……テル」
レカの声は弱々しく、かすれていた。あの力強い、時に高圧的な声色の面影もない。彼女の右腕は不自然な角度に折れ曲がり、左手は手のひらに深い貫通した傷があった。下半身は動くこともできず、革のスーツには無数の裂け目と血の染みが広がっていた。
「大丈夫だから。もう大丈夫だから」
テルは必死に声をかけながら、汚れた金髪の隙間の彼女の顔を覗き込んだ。レカの赤い瞳には、まだかすかな光が宿っていたが、その輝きは明らかに弱まっていた。
「……帰れっつったのに」
テルは首を振った。彼の青い瞳にはもう迷いはなかった。
「逃げない。もう絶対に逃げない」
テルは震える手でレカの肩に触れ、彼女を少し起こそうとしたが、レカの顔が痛みで歪んだのを見て、すぐに手を引っ込めた。
「あの、その……どこが、どこが一番痛い? 何をすればいい?」
レカはかすかに笑った。その笑みには自嘲と、どこか諦めが混じっていた。
「……あーし、全部痛ぇ」
テルは周囲を見回した。タティオンはスタヴロと共に傭兵たちを拘束していて、彼らに注意を払っていなかった。しばらくの間、二人だけの時間があるように思えた。またレカを見た。
「レカ、本当にごめん……。僕は……僕はずっと……気付いてたのに……」
テルの声が詰まる。これまで見て見ぬふりをしてきた現実、暗殺者として生きざるを得なかったレカの苦悩、その全てが重荷となって彼の声を押しつぶしそうになる。
「いーからよ……説教は……また今度……」
レカの血まみれの左手がわずかに動き、テルのシャツの裾をつかもうとした。しかし力が入らず、すぐに砂の上に落ちてしまう。テルはその手を両手で包み込んだ。流れ出る血と一緒に。少女の手は冷たく、震えていた。
「あったけ……」
レカがつぶやいた。その表情には、いつもの強がりは見当たらなかった。ただ少女らしい、か弱さだけがあった。そして彼女は、父タティオンに感じるのと同じ安らぎを、今初めて幼馴染みに感じていた。
「テル……あーし……気づいちまったよ…」
テルは彼女の手を優しく包むように握った。
「なんだい? レカ……」
レカの唇が震えるのは、失血によるものだろうか。いや、心理的なブロックが、今溶けようとしているのだ。
「あーしも……あんたみたいに……責任から逃げたかったんだ。けど……あーしには……」
レカの言葉が途切れた。テルは彼女の血のついた顔を見つめながら、初めて自分の中に湧き上がる怒りを感じた。なぜレカだけがこんな目に遭わなければならないのか。なぜ彼女だけが街の重荷を背負わされるのか。テルはゆっくりと首を横に振った。
「もういいんだ、レカ。もう一人で抱え込まなくていい」
テルの声は静かだったが、決意に満ちていた。彼はもう一度レカの体を見て、彼女を運ぶにはどうすればいいか考えた。これ以上彼女を痛めつけたくなかった。足も怪我をしているのだろうかと見てとった。レカは顔を伏せて、ホワイトゴールドの金髪が表情を隠した。
「あーし……マジで立てねぇ……恥ずかしい」
レカの声には、一瞬だけ昔のような強がりが戻っていた。テルは微笑んだ。
「大丈夫。肩を貸すよ」
そして、できるだけ優しく、彼はレカの肩を抱き、彼女を支えようとした。レカの表情がまた痛みで歪むのを見て、テルの心が締めつけられる。しかし、彼はもう後戻りはしないと心に決めていた。
「テル……あんがと」
レカの囁きは、アリーナの喧騒の中でかすかに消えていった。彼女の頭が、テルの肩にそっと寄りかかる。テルはその重みを、全身全霊で受け止めた。
「父上、包囲は整いました」
スタヴロの声が、重々しく響く。その声には、彼の実力と権威を示す威厳が満ちていた。周囲では暗殺者がクロスボウを構えて傭兵たちを警戒し、銃を構える者がいれば電撃の矢を撃ち込んでいる。彼らはまるで一つの生命体のように完璧に同調し、黒い影のように素早く展開していった。
「ご苦労。では、この作戦最大の功労者に報いなければな」
タティオンはテルに支えられたレカのもとまで歩み寄ると膝を突き、彼女の両腕の様子を見た。
「怪我が酷いな」
タティオンの声には、いつもの柔和さがあった。それは敵の前でさえ変わらない。しかし、その赤い瞳に宿る光は、若き日の伝説を思わせる鋭さを帯びていた。レカは力無く笑みを浮かべる。
「へへへ……死にゃしねーっす……よっ」
レカはそう答えながら、立ち上がろうとするが、膝が砕けた。テルが、無理しないで、と言った。
「無理をするな。戦いはもう終わりだ」
スタヴロも近づいてきて、その傷を見つめ、眉をひそめる。
「自力治癒不能の傷を負うとは、暗殺者失格だな」
そのあまりに無慈悲な物言いに、テルが強い視線を向ける。初めて見る暗殺ギルドのナンバーツーは、いつものテルであればあまりに威圧的。ハーマンより背が高くスキンヘッドで、見たこともない戦闘服に身を包んでいる。そんな相手に向かって、全く物怖じせずに睨みつける。それを見て、本来笑わない男であるスタブロがフッと笑みを浮かべた。そして腹側に装着されたポーチの中から、不気味な輝きを放つ大きな注射器のような器具を取り出した。見たことのない異質な魔力の光を帯びている。
「スタヴロ……?」
レカが訝しむ声を漏らす。スタヴロは部下に指示すると。何かを持って来させた。黒装束の部下は、貴賓席が崩れた瓦礫の方から何かを担いで走り寄ってくる。それは、すでにこときれていたエルフ奴隷の遺体だった。スタヴロは躊躇なく、遺体の首に器具を刺す。透明なシリンダーの中に、赤い血液がどんどん流れ込む。そしてスタヴロが器具を操作すると、それはだんだんと白い乳液に変わっていく。そこから漂う異様な生命力に、レカは思わず息を呑んだ。
「ス、スタヴロ! まさか吸血鬼って……! お前が……!?」
あまりの驚きに、体力の限界だったはずのレカの声が大きくなった。だがそばにいたタティオンは、静かに、しかし低い声で言った。
「黙っていろ。何も聞くな。何も覚えるな」
その叱責するような声色には、いつもの温かみはなかった。
「暗殺者には、それが何より重要なことだ」
レカは黙るしかない。スタヴロは器具をレカの手の傷やスーツの裂けた足に向け、完成した乳液を霧状にして吹きかける。テルの手の上で傷が奇跡的な速さで修復されていく。その光景に、テルは目を見張った。
「これは……」
「アルエイシス卿の実験の成果だ」
タティオンがぽつりと言った。
「君の血縁に敬意を表し、それだけ教えておいてやろう」
テルは信じられないといった顔でタティオンの顔を見た。彼の赤い瞳は目を合わせることもなく、穏やかな表情に戻る。テルは上空を見た。白い巨体はまだそこにとどまり、魔光のスポットライトを闘技場に当てている。
(あれも父の……?)
そこには二つのギルドの間の、想像を超える秘密の協定があったのだろう。テルにはまだ、わからないことだが……。
(この街は、反乱をこうして抑え込んだこの街は、その核心に一体何を抱えているんだ……)
そんな思いを強く抱いた。レカがテルの手を握り返してくれた。テルは彼女を見た。少し顔がいつもより青白い。彼女の体から滴った血が、砂地に小さな赤い水たまりを作っている。エルフの治癒の魔力の力でも、失血は補えないのだろう。普段の活力は消え失せていたが、その赤い瞳だけはまだ力強く輝いていた。
「どうやら、我々の予想通りでしたね、父上」
スタヴロがジャドワの倒れた方向を見ながら言った。彼の声には満足感と共に、わずかな失望が混ざっていた。期待していた挑戦者が、思ったほどの強さではなかったという失望か。
「獣人傭兵の反乱計画も、これで終わりです。後始末は冒険者ギルドに一任しましょう」
スタヴロは詳細を報告するように続けた。彼の声は、周囲の混乱の中でも、明瞭に聞こえた。テルはレカを支えて立ち上がらせつつも、漏らさずにそれを聞いていた。
「共犯者全員を一網打尽にできました。あの緑の髪の若い冒険者には、感謝すべきですね。レカのサポートをしていた暗殺者が、全員やられて状況が把握できませんでしたから。恐ろしいことです」
レカの手にぎゅっと力がこもった。テルはそこに悔しさと後悔の感情を感じ取った。テルはスタヴロに憎々しげな視線を向ける。それからあたりの様子にも。アリーナの砂地には、動けなくなった獣人傭兵たちが後ろ手に拘束されて並べられ始めている。信じがたい手際の良さだった。タティオンがレカとテル、二人の肩に手を置いてくれた。
「最大の功労者たちよ、君たちがジャドワを倒してくれなければ、こんなに簡単には行かなかっただろう」
「ボス、あいつは……」
タティオンは頷き、レカをテルと一緒に支える。レカは感覚を失っていた足をトントンと突いて、もう全く問題ないことを確かめる。そして観客席の方に視線を向けた。タティオンはすでに気づいていたが、レカも気づいたようだった。
「レカ。戦えるか?」
タティオンがそういうと共に、アリーナに異様な気が満ちた。観客席の一部、ジャドワが吹き飛んだあたりから、赤く揺らめく光が煙のように立ち上った。