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【AI支援改稿】マリオネットとスティレット 第二十四話 反乱の炎
轟音が響き渡った瞬間、アリーナの床が爆ぜた。砂と石の雨が舞い上がり、観客席の石組みが無残にも引き裂かれていく。空気が震え、耳が潰れそうな衝撃波が会場を駆け抜ける。それの発生源は、アリーナの下方、闘技者からも観客たちからも見えない位置。普段であればアリーナに特別な設備を搬入する半地下から、猛烈な勢いで何かが突き上がった。それは観客席の石組みを貫通し、アリーナの一部を下から抉り、敷き詰められた砂を巻き上げもうもうとした砂煙を発生させる。
その破壊の軌跡は、さらに上へ、上へと伸びていった。最上階の貴賓席めがけて、業火の矢が放たれたかのように。そこに着弾したのは、攻城戦で城壁を粉砕するための重砲の砲弾。数十人の兵が息を合わせなければ扱えぬほどの。人の背丈を優に超える砲身から放たれた一撃は、十分に貴賓席全体を崩壊させるほどの破壊力を秘めていた。
衝撃で一部が断線して消えた魔光灯が不規則に明滅を繰り返す。そのまたたきが混沌とした闇と光の狭間を作る。獣人か誰かの叫び声が、誰のものかもわからない喧噪の中に溶けていく。
「レカぁ!」
下から梯子を上り、点検口から観客席に上がったテルは、被害の全体を確認できる位置にいた。砂煙はアリーナを挟んで向こう側に向けて立ち上り、詳細は見てとることができないが、少なくとも被害は甚大だった。……貴賓席は完全に崩れ……組まれていた構造物が崩落し、瓦礫が積み上がっている。無事なものがいるとは思えない。
だがテルにはそんなことよりも……まず幼馴染の無事こそが真っ先に気になることだった。周りの観客、獣人たちは不自然に落ち着いていた。まるで今の大破壊を最初から知っていたかのように。
(これは……)
彼らの目は崩壊した貴賓席に注がれ、誰もテルのことなど見ていない。よくよく見てみると、砲弾が下からえぐった箇所や、貴賓席の周りには、綺麗に観客がいない空間ができており、獣人たちは一人も巻き込まれていないようだ。
(クッ、全て打ち合わせの通りなのか……っ!)
テルはそれを察すると、ヒヤッとする感覚を得たが、とにかくレカのもとに向かわねば。観客席から見下ろすと、アリーナは自分の背丈より高い下方にある。上着を脱ぎ、高級な刺繍は施された袖を手すりに結びつけ、簡易のロープにして下に降りた。普段の彼であれば、絶対にしないことだった。もちろん、上着に隠していた銃を腰のベルトに押し込むことは忘れない。
「レカ!」
異常が生じた魔光灯の青白い光が不規則にまたたき、混沌と化す闘技場をノロマなストロボのように断続的に照らし出す。砂煙はまだ完全には晴れず、テルはアリーナに降りてもレカを確認できなかった。
「どこに……」
しかし障害物のないアリーナのこと、キョロキョロ見回すと、砂煙の影に、テルはその姿を発見した。見慣れた革のスーツ姿が両手を地に突いて喘いでいる。暗い砂煙の向こうに中に浮かぶ彼の金色の髪が、
「レカ! 大丈夫!?」
近づいてみると、様子がわかった。レカは頭部に怪我をしているようだった。金色の美しい髪がどす黒い血の色によごされていく。テルはレカの傍らにしゃがみ込んで、ハンカチでその頭の傷を押さえようとする。
「来るな!」
かけつけてくれた幼馴染に貴族の子の方を向いた白い顔には、頭から流れる血が一本の赤い筋を作っていた。 レカは震える手で血を拭いながら、必死に立ち上がろうとした。
「無茶だよレカ! さあ、今なら誰にも見られない……っ! 逃げよう!」
しかしレカの目は赤く輝く。父から受け継いだ赤い瞳の魔力が、反射的に宿る。
「ダメだ! オメー、まだいやがったのか! さっさと逃げろ!」
テルは狼狽えた。その声には、庇護してくれる姉代わりのレカが、これまで決して見せなかった激しい感情が込められていた。その表情は焦りと緊張に満ちていた。
「テル坊! ここはオメーのくる場所じゃねえってんだ! さっさと闘技場の外を目指せ!」
「レカだけ置いて逃げられるわけないだろ!? 一緒に逃げようよ!」
テルの声が砂煙の中で空しく響く。その必死の叫びは、闘技場に充満する獣人たちの怒号の中に吸い込まれていった。
「っち、これだからガキは……貴族の貧民街見物だかなんだか知らねえが……くっそ、こんな時に来やがって……。あーしの領分だぜ……ったく」
レカは血を拭いながら立ち上がる。その仕草には、いつもの幼馴染の姉代わりらしい余裕は微塵もなく、むしろ追い詰められた野生動物のような警戒心が漂っていた。
「なあ、テル坊よぉ。あーしには……オメーが実家の責任から逃げるみてえに、暗殺ギルドから逃げる選択肢なんて……あーしには、あーしには最初からなかったんだよ……っ!」
その声は震えていた。タティオンへの絶対的な忠誠と、テルへの複雑な感情が交錯する中で、レカの言葉は引き裂かれたように途切れる。
「え……?」
テルは息を呑んだ。これまで見たことのない、レカの素顔が垣間見えた気がした。いつも強がっていた幼馴染の、痛々しいまでの弱さが。レカは顔を上げた。天を見上げるその顔には、絶望色の嘲りが混ざり、赤い瞳は虚空を見つめていた。
「ははっ、いいよなあ、オメーは。嫌なことから逃げて、好きなことだけやって、それでも小言を言われる程度でさあ。絵を描いて、アトリエに籠って、たまに救貧院なんか手伝ってよお!」
まるで長年の苦悩が一気に噴き出すように、レカの声は次第に激しさを増していく。その瞳に宿る赤い光が、怒りと嫉妬の炎のように揺らめいていた。テルは……かたわらに立ち、黙って受け止めるしかない。
「レカ……」
テルの胸に、これまで気づかなかった罪悪感が重くのしかかる。レカの言葉の一つ一つが、彼の特権的な立場を容赦なく照らし出していた。レカは荒い息をつきながら言葉を吐き続ける。心理的な興奮が暗殺者としての穏やかな呼吸を乱していた。
「あーしはちげえんだ。ボスの元に拾われた時から、この街の闇で働いてきた。ボスの期待に応えなきゃいけない。人を殺して、血に塗れて……」
テルは何度手を伸ばしてレカに触れようと思ったかわからない。しかし彼には、まだ他人をなぐさめることができた経験が圧倒的に足りなかった。目の前で自分に向けて激しい感情を露わにしてしまった、恋人にする覚悟も足りない異性の幼馴染を、どうしてあげることもできなかった。
「テル! オメーとあーしは違うんだ……オメーには屋敷も貴族の未来もあるだろうさ! 救貧院で罪悪感を誤魔化すお遊びをして、一人で小屋にこもって絵を描いてれば暇は潰せるだろうなあ! でもよお、あーしには暗殺者として期待に応え続ける生活しかねえんだ! それが、あーしの居場所なんだ、わかるか!? こんな仕事だって誇りなんだよ!」
その叫びには、自分を納得させようとする必死さが滲んでいた。それは誇りを高らかに宣言するというより、運命のもたらす呪いに苦悶しているように聞こえた。しかしテルは言葉を失った。今日はあまりにもたくさんのことがあった。テルには……それに対応できる精神的な力は、まだないのだ。目の前で血を流す幼馴染の姿に、これまで気づこうとしなかった現実を突きつけられて、二人の世界のあいだにもはや埋めることのできない深い溝があることにきづかされて、巨大な壁と深い崖の前で、テルは立ち尽くすしかなかった。
「レカ……」
レカの心臓から絞り出す叫びが、砂煙の渦の中で残酷なまでにテルの心をうちすえていく。その声には、これまでテルに向けたことのない憤怒が込められていた。しかしそれはテルへの恨みではなかった。まるで自分自身の弱さを呪うかのように、哀れな女暗殺者の口から思ってもいない言葉が吐き出されていく。
「無力な正義なんか、この街じゃ意味なんかねえんだよ! テルの優しさは……この地獄では……っ!」
テルは動けなかった。腰のベルトに突っ込んだ金属の塊……異物としてのリボルバー拳銃の冷たい重さだけが場違いで……そればかりが意識された。そういえば、テルは一度も銃を撃ったことがない。父は拳銃を使った決闘の話を良く晩餐会で披露していたというのに……。その事実が、彼の無力さを否応なしに彼自身へと突きつける。レカはテルのそんな無力感を知ってか知らずか、より深い絶望の中へと沈んでいくようだった。
「オメーに……あーしのことなんて……」
最後の言葉は、まるで自分自身への呪詛のように、砂塵の中へ消えていく。レカの声は震えていた。金の前髪が赤い瞳を隠す。それは怒りなのか、悲しみなのか、もはや判別がつかない。とにかく何かやりきれない思いが、噴出していた。テルの青い瞳に映るレカの姿は、もはや幼馴染みのそれではなかった。血に濡れた暗殺者の影。しかし、その影の奥に潜む痛みだけは、確かに見えていた。レカは再びテルに向き直った。頭部の出血は止まったようだった。アドレナリンか、あるいは赤い瞳の能力か……。少なくともその瞳には、もはや迷いはなかった。ただ深い諦めと、それ以上に深い愛情だけが宿っていた。レカは血のついた金のポニーテールをかきあげて、フーッと息をついて言った。
「もうお前のアトリエにあーしの居場所なんかねえ。リリアとよろしくやって、テキトーに絵でも描いてろ」
血に濡れた唇が震える。それは最後の願いのような、別れの言葉。
「あーしは血にまみれてでもこの街の汚い現実の中で戦う!」
その叫びには、すべてが込められていた。タティオンへの忠誠、街への責任、テルを巻き込みたくないという思い、そして何より……正体を知られてしまったことへの絶望。テルは唇を噛む。目の前にいる人は、助けを必要としているように見えた。彼女の金色のポニーテールがだんだんと晴れてきた砂煙の中で揺れる。それはかつてアトリエで見た夕陽に輝く姿の、最後の残光のようでもあった。
(僕に……)
テルは拳を握りしめる。
(僕に何ができる? 何をしてあげられる?)
その時、レカがテルの胸を押した。軽く押したように見えたが、その力は超人的だ。テルは一気に後ろへふきとばされた。
「レカぁああああ!!」
ドン! ドン! ドン! ドン!
高級なシャツの背中を砂が削っていくのを感じながら、テルは聞いた。それは砂煙の向こうから聞こえてきた。獣人たちの怒号が闘技場に満ちていく。
(太鼓の音……?)
あたりの把握が困難な混沌の中で、テルはアリーナの隅にまで飛ばされた。控室の方につながる意思の通路の前だ。テルが腰に突っ込んでいた銃が骨に当たった痛みに耐えていると、砂煙がだんだんと晴れていった。
「レカ……っ?」
煙がおさまるとともに、魔導線が繋ぎ直されたのか、会場全体を照らす魔光灯のちらつきが収まり、再度最大光量であたりを照らしだした。すると、闘技場の惨状があらわになった。青白い光が貴賓席の残骸を照らし出す。パラクロノスの権力者たちが集う豪奢な空間は、突き上がるように打ち出された巨大な砲弾によって完全に崩壊していた。金箔を施した装飾も、深紅の絨毯も、そして宝石を散りばめたカーテンも、今や瓦礫の山と化していた。木材がまるで折れた肋骨のように突き出している。崩れ落ちた瓦礫の前で、奇跡的に助かったエルフ奴隷が金切り声をあげてパニックになっている。
「こんな……」
テルはそれを信じられない気持ちで見ていた。これは事故ではない。もちろん、ちょっと新聞をにぎわす程度の事件でもない。この惨事は、明らかに街の秩序に対する挑戦だった。
ダダダダン! ダダダダン !ダダダダン!
太鼓のリズムが変わった。アリーナの砂地の上に、獣人傭兵たちが整然と布陣していく。赤だの青だの緑だの……戦場であまりにも死亡率の高い彼らの死装束が、翼を広げるフェニックスの五色の羽のように開いていく。陣形指示の太鼓の音は、まるで彼らの心臓の鼓動のようだった。数百もの拳が、その音に合わせて突き上がる。白い毛皮の狼族は牙を剥き、黒い毛並みの熊族は喉の奥で唸り、様々な獣人たちが長年の訓練で培った完璧な隊形を作り上げていく。その動きには、人間の軍隊とは異なる、本能的な意思の統一があった。
「うーん? だいぶ崩れたけど……」
中心に立つのは、獣人傭兵隊長ジャドワ。黒い狼の耳をピクピク動かし、首を傾げてみせる。見据えるのは、アリーナの向かいにある、瓦礫の山と化した貴賓席。黒いホコリにまみれ、奇声をあげて騒ぐエルフ奴隷以外は、生き残りがいるとは思えない。主を失った哀れなエルフの娘は、半狂乱で瓦礫をかき分けている。ジャドワは腰の装具からから革紐を取り出すと、それを掲げて遠心力で振り回した。まるで魔導エンジンの駆動音のごとき唸りをあげるのは、投石用スリングショット。およそ人間と比べものになるパワーではない。十分に速度が乗ったところでジャドワは親指を離す。火縄銃用の球形の鉛玉が音速を超える速度で飛び出し、30メートルは離れたエルフの頭蓋を破裂させた。
「お見事。先込めの鳥撃ち銃でもこうはいきますまい」
そう言ったのは、傍に立つ小柄な猫族の副官。女性ながらジャドワの腹心として長年戦場で共に傭兵たちの指揮をとってきた存在である。
「さっきの砲撃、一石二鳥を狙ったんだがねえ。一羽はまだ健在か……」
ジャドワは鬱陶しそうな表情で言った。赤く燃えるような視線の先には、レカの姿があった。観客席の獣人たちはいよいよ興奮が頂点に達し、革命前夜の決起集会のようだった。
崩れ落ちた貴賓席の瓦礫の山へ向けて、ジャドワが腕を上げる。その瞬間、太鼓の音が止まり、闘技場に不気味な静寂が訪れた。千人以上の獣人の呼吸だけが、闇夜の濃霧のようにアリーナに漂う。テルは思わず通路の壁側に寄った。物音を立てないように。石組みの壁面の凍えるような冷たさで声をあげそうになるのを必死で堪えた。自分の鼓動が、今にも周囲に聞こえてしまいそうなほど高鳴っているのを感じた。
「見よ!」
そして、ジャドワの声がアリーナに響き渡る。その声音には、洗練された指揮官のカリスマの響きと、奴隷の烙印を押された獣人としての怨念が混ざり合っていた。
「見よ!」
ジャドワは崩れ落ちた貴賓席を指差す。その仕草には、人間の貴族にも劣らない優美さがあった。
「貴族どもは我々の力の前に脆くも崩れ落ちた。彼らは正しかった。我々獣人を恐れ、抑圧し、そして利用することで、この街は発展を遂げてきた。だが今宵、その秩序は終わりを告げる。我々には、この腐敗した街を根底から覆す力がある」
獣人たちの間から、人の言葉とは思えない唸り声が上がる。それは、獣としての本能が人としての理性を押し潰そうとする瞬間の声だった。ジャドワの言葉は、彼らの心の奥底に眠る獣性を呼び覚ましていく。
「……長きに渡って、我々は人間どもに使役されてきた。パン焼き、荷運び、娼婦、そして傭兵として……。俺も、そしてお前たちも、人間に飼い慣らされた家畜のように生きることを強いられてきた。しかし今夜、その鎖は断ち切られる」
彼は両手を大きく広げた。獣人たちを抱擁するように。人間の街を威嚇するように。
「もはや我々は、人間の与える仕事に縛られる必要はない。戦場を除けば、獣人が人間と対等に渡り合える場所は、この闘技場だけだった。この血まみれの砂場こそが、我々の解放の舞台となる。この場所から、人間への復讐が始まるのだ!」
「ウオオオオオオオオオオオオ!!」
何万もの雷が一度に落ちたかのような大音声だった。石造りの闘技場全体が震える。テルは額の冷や汗を拭った。ジャドワの声には、街の歪みに対する憎悪と、同胞たちへの慈しみが奇妙なまでに混ざり合っていた。それは単なる暴徒の叫びではない。奴隷の身から身を起こし、傭兵の隊長となった男が、長年温めてきた復讐の計画の実行を告げる宣言だった。
(レカは……暗殺ギルドはこれを察知していたのか……)
テルは初めて、幼馴染みの暗殺者が背負っていた責任の重さを悟った気がした。それはあまりにも重く、あまりにも大きい責任だった。しかしそんな少年の思いを、ジャドワの決起の声がかき消す。
「今宵より、パラクロノスは我らが手に! 人間どもよ、抑圧された獣人の怒りを思い知るがいい!」
轟くような咆哮が上がった。槍が突き上げられ、大地を踏みならす音がアリーナを揺るがす。テルは思わず眉を歪めて耳を塞いだ。それは人間の作り出した文明への、獣としての本能からの宣戦布告のように響いた。
振動で魔光灯が不規則に明滅し、獣人たちの影が舞踏のように伸び縮みする。まるでこの街の秩序そのものが、彼らの怒りに震えるかのように。その光の中で、テルはレカの姿を探した。しかし彼女の金色の髪は、もうテルには捉えられない場所に行ってしまったのだろう。アリーナの砂は、あらゆる感情を飲み込んでいく。そしてそれはこぼれて、街へと吹き出していくだろう。テルの呼吸は荒くなっていく。