見出し画像

【AI支援改稿】マリオネットとスティレット 第二十一話 ガズボとジャドワ

 闘技場の地下通路は、石造りの古い壁に沿って松明が並んでいた。その灯は、石壁の湿った染みを照らし出し、彼女の顔は、まるで無数の傷跡のように見せていた。レカのブーツの足音が、冷たい石の床を叩く。まるで死刑台に向かう囚人のように元気がない。その後ろをガズボが、巨体を揺らしながらついてくる。牙が生え揃った口を目一杯歪ませて、気色の悪い笑みを浮かべている。
「ナアナア、あの彼氏、見なかったことにすんのかな?」
「知らねー」
 ガズボはレカに耳打ちするように顔を近づけた。
「いいのかよ、姐御。あいつと逃げちまわなくて……。泣きそうだったよなあ、お互いよ……グフゥ!?」
 レカの肘が、ガズボの腹に突き刺さった。獣人の巨体が僅かに揺らぐ。普通の人間なら内臓を破壊されかねない一撃だったが、ガズボは呻き声の中に笑いを混ぜている。まるで母親に叱られた子供のように。そしてガズボはレカの前に回ると、真剣な表情になって続けた。その目は殺人鬼とは思えないほど深い慈愛を湛えていた。
「へへへ、まあ心底どうでもいいんだけどよ、これはオメエさんの倍くらい生きてる俺の教訓な」
 レカは怪訝そうに眉を顰めた。ガズボがぶっきらぼうに、
「今のうちから自分の心を守った方がいいぜ。ボロボロになってから気づいてもおせーんだよ」
 と言った。それまでの小馬鹿にしたような調子ではない、落ち着いた声色だった。
「あ?」
 レカは困惑の声を吐きつつ、いつにない雰囲気を見せる獣人を放っておいて。前を向いて歩き続ける。ガズボの言葉が、通路の闇に吸い込まれていく。
「誰にも弱みを見せないのは、傷口の舐め合いなんてしてもなんの意味もないと知っているからだよなァ」
 魔光灯とは違う、ぼうっとした松明の火が、レカの表情の変わらない横顔を過ぎて行く。その度に赤い瞳がゆらめく光を宿す。それは心の揺れの表れでもあった。ガズボはだんだんともとの小馬鹿にする調子を取り戻していく。
「だからこそ、あの老いぼれにしか甘えないって決めてるんだなあ。それ以外、人生になーんにも期待してねえのか? 俺みてえになっちゃうぞ!」
 子供の悪ふざけのようにレカの肩に伸ばされた太い手が、レカの小さな手に触れられる。かと思うと、ガズボの巨体が一回転して通路の石の床に叩きつけられる。
「っぐふう!?」
 ガズボの酒樽のように大きな腹から空気が吐き出された。血の匂いがムワッと広がって、レカは不快そうにため息をついた。
「っち、わけわかんねーことばかりさえずりやがって」
 レカは汚いものでも触ったように手をタンクトップの腹のところで拭いた。レカはさっきからガズボの言葉をあえて無視している。なにか、彼女の心に気づきの火花のようなものを起こさせる、重要な物言い。そうも思えた。しかしレカはそういう火花をあえて無視する生き方をすると決めている人間だ。彼女の足音だけが、静かにうつろに響く。しかしその歩みには、微かな乱れがあった。平気な顔しておきあがったガズボは、それを見逃さない。へこたれない獣人は少し間を置いてから、大げさにため息をついてみせた。そしてそこからさらに吐き出す言葉には、この街の底辺で生きてきた者だけが持つ重みがあった。
「へっへへ。まあいいけどよ。レカの姐御。おまえさんのそういうところがいじらしくて好きだぜ。頭いいくせに、考えることを恐れてるところとかな。俺ぁあんたに懐くぜ。俺を人間として扱ってくれる数少ないやつの一人だからな」
「そーかい」
 レカはそれ以上答えなかった。殺戮を生業とする二人の間に芽生えた、歪な信頼関係。それは街の闇の中でこそ育まれた、独特の絆だった。だがレカはそういう信頼関係を受け止めることに慣れていなかった。ガズボはククッと笑った。
「だが俺の忠告を無視したやつぁ、みんな死んだよ」
 最後の言葉が、地下通路の冷たい空気に溶けていく。通路の先から、観客たちの興奮した声が漏れ聞こえてきた。レカの赤い瞳が、その血に飢えた歓声の方を向く。暗殺者の本能が、戦いの予感に反応していた。地上近くで階段状になった通路を、レカは一段また一段、登っていく。松明は見当たらなくなり、正面から差し込む青白い魔光灯の光ばかりが目立つ。石壁に伸びる影が時折痙攣するように揺れた。前方、地上からは獣じみた歓声が悪魔の咆哮のように聞こえている。最上段で彼女の足が止まる。目の前の光景に、一瞬だけ瞳孔が閉じた。逆光になっている姿の主はジャドワだった。獣人の体から漂う獣臭と血の生臭さが、通路の湿った空気と混ざり合う。彼の手に握られていたのは、見覚えのある革のスーツだった。
「どうぞ、お着替えくださいませんか? 暗殺ギルドの姫様?」
 丁寧な言葉とは裏腹に、その声は歪な愉悦に震えていた。レカの鋭い目が、スーツの異常を即座に察知する。袖口どころか、胸元まで染み込んだ血の痕。必死に拭い取ろうとした跡が、布地を擦り切れさせている。レカの喉が締まった。
「てめえ……っ!!」
 そのスーツは、変装したレカが脱出時に着るものだった。その予定だった。それを確保して待機してくれていたのは、スタヴロの部下、ミーナ。いつもレカが動くとき、連絡役を含むサポートをしてくれていた、スタヴロの腹心。年齢は相当上ながら、だからこそ信頼のおける、レカの裏の任務を知る数少ない存在……。
 レカはジャドワを睨んだ。父から受け継いだ赤い瞳に、魔力が灯る。それは怒りの証であり、同時に己の感情を押し殺そうとする意志の表れ。だが、暗殺者にそのような激しい感情の揺れは不要……。そのタティオンの教えが、心の奥底で冷たく響く。
「ククク、なかなか面白い獲物だったよ。クレバーに立ち回っていたようだがね」
 ジャドワの声が、耳元で這うように響いた。彼の赤い瞳には、人間の仮面を脱ぎ捨てた獣の狂気が満ちている。
「断末魔の声が、とても愛らしくてね。『レカさん、逃げて』って」
 その言葉の一つ一つが、レカの心を引き裂いていく。ジャドワの手から力無くだらりぶら下がるスーツは、まるでミーナの亡骸のように感じた。レカの手が震える。それは恐怖ではない。ミーナへの謝罪と、殺意の炎が、胸の中で渦を巻いていた。しかしレカは、その感情を氷のように凍りつかせる。今はまだその時ではない。確実な復讐のために。
「着替えは、あちらだ」
 ジャドワが示した先の控室は、まるで獣が口を開けたような暗がりだった。レカは無言でスーツを受け取る。その生温かさが、ミーナの体温の名残のようで、胃の底が捻れた。
「……ああ」
 静かな声の底には、殺意と悲しみが沈んでいた。テルとの別れの重みも、今はもう遠い。レカの中で、何かが決定的に変わっていく。人の心を持った暗殺者から、ただの殺戮機械へと。
「おいおい、レカの姐御。手加減はしてくれよ。一応言っとくけど、あんたは負け役だぜ」
 背後でガズボがこぼし、ジャドワが薄く笑う。レカはその笑みの意味を悟っていた。これが彼の望んだ通りの展開。人間性を捨て去り、獣と化していく過程。暗殺者の掟を守りながら、心の奥底では復讐の炎を燃やし続ける矛盾。
(フーッ、だめだ。冷静になれ。まだやつの狙いは分かってねえんだ)
 魔光灯が不規則に明滅する中、レカは呼吸を整えつつ控室の暗がりへと消えていった。手に抱えたスーツからは見知った人間の血の匂いが漂い、それはこれから始まる惨劇の予兆のようだった。頭上の闘技場からは獣じみた歓声が轟き、地下通路に満ちる血の匂いと混ざり合って、まるで地獄の入り口のような空間を作り出している。
 レカは薄暗い控室へと促される。扉は分厚く、格子付きの窓が据えられ、まるで監獄だ。奴隷同然の待遇の闘士を閉じ込めておくためのものなのだろう。レカは観察もそこそこに、革のスーツの袖に腕を通した。その時、手袋の指先に目が留まる。雑に拭き取ろうとした跡があり、まだ仲間の血が染みついていた。指を開いたり閉じたりすると、乾いた血が微かにひび割れる。
(まだ温もりが残ってる気がする……)
 握られた拳に自然と力がこもる。特殊な術式が施され、赤い瞳の怪力にも耐えるはずのスーツが、ミシミシと悲鳴をあげる。怒り。仲間を殺した相手に言いなりになるしかない現状への悔しさ。
(ジャドワの野郎……っ! ボスから指示があれば、すぐにでも……)
 スーツのベルトを締め、呼吸を深くして精神を整える。落ち着きを取り戻した彼女の思考は、先ほどの闘技場へと飛んだ。
(あの緑髪の女の子、逃げ切れたかなあ……)
 あの剣闘士……冒険者ギルドのティトゥレーの姿を見失ってからずっと気になっていた。恐怖に揺れていたあの目の光。本来任務に関係ない、護衛対象でも何でもない命。だがガズボを止めたことでたまたま救った命のことが、今は気になっていた。
(ん……?)
 分厚い扉に据えられた鉄格子の向こう側から声が聞こえる。階段通路での会話……。ジャドワたちのものだ。父から受け継いだ超人的な聴覚が、距離と反響でおぼろげになった振動を捉える。
「今日はみんな興奮している」
 ジャドワの声だった。
「人間の御歴々やエルフ奴隷は貴賓室から出ない方がいいでしょう。後で迎えに行きます」
「フン、礼儀正しいのは結構だがな」
 オーナーの声。その後に続く短い沈黙。そしてピシャーンという音がした。
「クッ……!」
 ガズボの呻き声だ。今のはムチの音だったのだとレカは気づく。途切れた会話が再び始まる。その声は……。
「このデカブツはヘマをしたようだな。侵入者に試合の邪魔をされるとは……」
 その声は、先ほど通路ですれ違ったオーナーと呼ばれた男のものだ。ブヨブヨに太った体から発せられるだろうあの低い声は間違えようがない。レカの赤い瞳が闇を切り裂く。ピシャーン、ピシャーンと、会話の音声よりもはるかに大きい音が通路に響いた。低い声が怒りに震えている。
「お前たちは、ワシの闘技場の見世物に過ぎん。それ以上でも以下でもない。いつまでもただの獣のままでいろ」
 オーナーの言葉に続いて、また一つ、鞭の音。ガズボの苦悶の吐息が空気を振動させる。怒りのせいか鋭敏になったレカには、そんなものまで感じ取れた。
「へへ、確かに……確かにそうですよ。俺たちは獣だ。だからこそ……」
「黙れ! お前たち兄弟でワシと会話していいのはジャドワだけだ!」
 三度目の衝撃。ガズボがぐう、とくぐもった声を上げる。年単位でがズボと付き合いのあるレカにはそれが、苦しみではなく敵意と復讐心を含むものであることがわかった。巨漢の獣人は、まるで痛みを愉しむかのように笑い声すら響かせている。
(まずいな)
 レカはそう思った。彼女とて、`ガズボとは年単位の付き合いである。声色で彼の感情を読み取ることくらいはできる。これは……明確に暴力に発展する雰囲気だった。そうなったら自分はどう反応するべきだろう? 思案していると、
「なあ、ケダモノたちよ」
 オーナーの声が、まるで腐った蜜のように粘っこく響く。猫撫で声というやつだが、気色が悪い響きだった。
「ワシはお前らのことを大切な息子だと思っている。実子でももっと酷い扱いをする親はいるものだ。食い詰め者として工場に売り払うよりは、まだマシな境遇を与えているぞ。わかっているな?」
 その言葉に、レカは思わず眉をひそめた。彼女の赤い瞳が、薄暗がりの中で冷たく光る。この街の理不尽の響きを聞き取ったのだ。
「わかってますよ、パパ。なあ弟よ」
 ジャドワの返答には、どこか芝居がかった愉悦が混じっていた。その声音は、まるで高級劇場の役者のように洗練されている。しかし、その下に潜む殺意は、もはや隠しようもないほど濃密だった。オーナーの呼吸が乱れる。レカには、その心臓の鼓動の乱れまで感じ取れた。ガズボの放つ殺気さえも。
「な、なら、いい。今日の興行は……」
 オーナーは言葉を探るように間を置く。その声には、今まで聞いたことのない不安が混じっていた。
「暴動にでもなりそうな雰囲気で、貴賓席以外の人間たちが帰ってしまった。それは損害だが、代わりに随分獣人たちが多い。ここまで盛況なのは初めてだ。獣人傭兵の顔役であるお前のおかげか、ギリギリ秩序があるようだ。不気味なほどにな。何かワシが把握していない事情でもあるのか?」
「いいえ」
 即答だった。ジャドワの声から、レカは彼の口元が獣じみた笑みで歪んでいるのが想像できた。ゾッとするような、嘘の匂いだ。純粋な、血に飢えた狩人が愚かな獲物が罠にかかったのを見つめるような……。冷や汗の匂いが漂ってきた。レカの鋭敏な嗅覚が、その恐怖の臭気を捉える。脂肪をまとったオーナーの体臭は、レカの嗅覚にははっきり嗅ぎ分けられる。
「だ、だったらいいんだが……」
 その声が少しだけ震えているのを、レカは見逃さなかった。長年の支配者が、初めて飼い犬に手を噛まれる恐怖を知ったような、そんな印象だった。手袋の血の染みを見つめながら、レカは静かに息を吐いた。今宵の闘技場で、何かが大きく変わろうとしている。その予感が、彼女の全身を緊張で満たしていった。通路の向こうから新たな足音が聞こえ始めた。何十という獣人たちの、整然とした歩調。しかしその規則正しい響きの下に、抑えきれない獣性が潜んでいる。レカの鋭敏な聴覚は、その歩みの一つ一つに潜む危険な意図を感じ取っていた。
 レカは革のスーツの最後のベルトを強く締めた。レカは最後のベルトを締めながら、もう一度手袋の血を見つめた。その染みは、今や彼女の決意の証となっていた。アリーナからは既に観客たちの興奮が伝わってくる。咆哮のような叫び。獣人たちの抑圧された怒り。革のスーツが軋むような音を立てる。それは今宵、この街に起ころうとしている変革の予兆のようでもあった。一つの足音が聞こえる。ジャドワのものだ。目の前の扉が開いた。

いいなと思ったら応援しよう!