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【小説】後悔売り

 不規則なパターンでこびりついた白い霜の、最後の残りがワイパーのパッキンにこそぎ落とされ、パラパラとボンネットに落ちた。街灯に照らされた霜の粒は、一瞬だけ星屑のように輝き、風に押し流されて夜の真っ黒な道路に落ちていく。男の運転する車は、ある地方の深夜の車道をゆっくりと進んでいた。左右の路肩には、除雪車が押し上げた雪が灰色の壁となって続いている。フロントガラスの端には、デフロスターの温風が届かない場所に、まだ霜の花が咲いていた。ワイパーが不規則に軋む音が、車内の静寂を刻む。助手席には誰もいない。時折対向車のライトが差し込むたび、運転席の男の横顔がホラー映画の演出のように浮かび上がっては消えた。
 バックミラーに青と赤が交互に点滅する光が映った。それは瞬く間に大きくなり、車内までちらつき始める。男はアクセルから足を離し、ゆっくりとブレーキを踏んだ。路肩に寄せた車の周りを、回転灯の光が無言で旋回する。パトカーのヘッドライトが、サイドミラーに反射して眩しい。
助手席側の窓に、制服の影が落ちた。不意に厚いガラスがコンコンと鳴り、男は無造作にパワーウィンドウのスイッチに指を乗せる。車内の暖気が逃げるのも構わず、彼は窓を一番下まで下ろした。ブイーと独特なモーター音が聞こえて。車のウィンドウが下がる。ガラスにこびりついた白い霜がパラパラと落ちていく。
「なんでしょう?」
 運転席の彼は怪訝そうに言った。隣で回転する赤色灯が眩しいので、少し目を細めている。警官はニヤッと笑って、
「随分出してたねえ」
 と言った。彼は少し顔を戻してハンドルを見た。そこにカンペでもあるというように。警官は続けてこう言った。
「免許証見せてもらえる?」
 男は黙っていた。五秒経っても反応がない。警官の顔から笑顔が消え、怪訝そうな、それでいて怒りが滲んだ表情になった。肥満体で、土佐犬を思わせる警官だった。彼はもう一度、
「免許証見せてもらえっかな」
 と、今度は方言の混じった強い調子で言った。運転席の彼は少しも焦る様子もなく、ハンドルから目線を警官の方へ移した。はっきりした視線だった。
「あなたは今朝、11歳の息子と喧嘩した」
 警官の顔から怒りが消え、別のものが現れた。
「え、あんた、なに、言って……」
 運転席の彼は畳み掛ける。
「理由は毎日の日課の観葉植物の水やりを息子さんが忘れたから。ひどく怒鳴ってしまった。でもあなたは後悔している。叱るべきだったのは事実だけど、怒鳴り方が酷かったのは、昨日上司が無理に誘った賭け麻雀で負けた八つ当たりを含んでいたから」
 警官は信じられないという顔で口を開けたまま突っ立っていた。さらに男は続ける。
「そしてあなたは今日帰ってから、息子さんと仲直りする。大好きなお菓子を買って帰るつもりなんだ。でもね、息子さんはそのお菓子を食べないよ。意固地になってるんだ。そしてあなたはまた自分を抑えきれずに息子さんに暴力を振るってしまう。そして明後日、息子さんはその鬱憤を学校のクラスで最悪の形で発散し、嫌われ者に認定される。五年後の傷害事件につながる大きな転落の最初の一歩になるんだ。悪い事は言わない。今日は息子に普通に接した方がいい。それじゃあね。本当に気をつけた方がいいよ。じゃあ。さようなら」
 警官は言葉もなかった。車のウィンドウが閉まる。男が車を発進させる。しかし、警官は動けず、ただ車の後部を見つめて立ち尽くすだけだった。

(ここまでをClaudeの支援のもと北條カズマレが書き、以降をOpen AI o1が書く。方言監修:北條カズマレ)

 警官はしばらくその場に立ち尽くしていた。さっきまで吹き荒れていた警官としての威圧感や怒り、そして職業的な警戒心まで、雪に吸い取られるように消えてしまったかのようだ。男の車は、後部ランプを淡く残して闇の中へと消えていく。パトカーの回転灯だけが道端に取り残され、青と赤の点滅を寒空の下に投げかけている。警官は無意識に自分の胸を押さえると、ゆっくりと唾を飲み込んだ。頭の中は男の言葉でいっぱいだった。
(あのアンちゃん、なんで知っでんだっぺなあ)
 「息子との喧嘩」「観葉植物の水やり」「昨夜の賭け麻雀」——どれもが、最も近しい人間でも話していない事柄である。あり得ない、何かの偶然や成り行きだとしても、説明ができない。警官は強張った喉からようやく声を絞り出し、無線機に手を伸ばした。しかし何を報告すればいいのか。思いつくまま言葉を並べれば、ただの与太話として処理されるだろう。自分が幻覚を見ていたと思われるかもしれない。警官は言いようのない不安と動揺を抱えたまま、決断できずにハンドルの横の無線機を掴んでは離し、掴んでは離した。
 「……息子さんと仲直りする。でも息子さんはお菓子を食べない。再び怒鳴り散らして、暴力を振るう……。学校で最悪の形で発散して、やがて傷害事件に……」
 なんだこれは。頭の中で男の声がぐるぐると回っている。デタラメだ、馬鹿馬鹿しい。だが、妙に脳裏に突き刺さるリアリティがある。とにかく、今はここで立ち尽くしている場合じゃない、と警官は思った。こんな深夜の寒空で、肩に降り積もった雪の冷たさすら気づかなかった自分が恐ろしくなる。再度ためらいながらも無線機の受話器を持ち上げた。
 「こちら11号車、現在取締り中の車輛は……いえ、違反や抵触事項なし。以上」
 単なる形式的な報告に終わらせる。指令室からの短い応答を聞き終えると、警官はふと息を吐いた。言えなかった。何をどう言えばいいのか分からなかった。それでも警官としてではなく、一人の父親として——いや、一人の人間として、どうしても胸にわだかまった警告を振り払うことができない。そのままパトカーを発進させる代わりに、ハザードを点けたまま降り、車の脇に立った。打ち捨てられた感情をどうにか始末しようと、白く曇る息の向こうに暗い夜道を見つめる。
 「おんら、どうすらええんだろ?」
 言葉にしてみると、雪明かりに小さく吸い込まれ、空しく感じる。今すぐ家に帰って、息子の寝顔を見て謝るべきか。それとも男の言う“予言”は全てデタラメだと信じて、何事もなかったように過ごすべきか。だが、もしも男の言葉が当たっていたら。それは自分に取り返しのつかない後悔を生むことになる。警官の胸には“生涯後悔”という言葉がずっしりと圧し掛かっていた。
 やがて、彼は冷え切ったパトカーに戻り、エンジンをかけた。フロントガラスにわずかにこびりついた霜の残りをワイパーが静かに拭い落とす。視界の先は深夜の単調な雪景色だが、その奥底に潜む何かを、警官は今までになく恐れた。スピード計が緩やかに数字を上げていく。無意識にいつもよりも穏やかにアクセルを踏んでいた。まるで自分の人生そのものの加減を確かめるかのように。

 一方、その頃。男はほとんど車内で音楽もかけず、ただ黙々とハンドルを握っていた。助手席が空いたままなのは先ほどと変わらない。警官との一幕など、まるで最初から想定内の出来事のように受け止めているかのようだ。周囲の夜景は、除雪で積み上げられた雪壁ばかりで単調そのもの。けれど男の脳裏には、数えきれない“光景”が同時に映っている。血の繋がった家族から無関係な赤の他人まで、そしてその人々の未来や運命までも。あまりに多くの情報が、深夜の闇を塗り替えるように男の思考を揺るがす。
 「さて、次はどこで止まろうか」
 男の言葉は寒さを帯びた車内の空気に、静かに染み入る。彼はある地点まで走るつもりでいるようだが、その行き先を知るのは、どうやら男自身だけらしい。ワイパーの不規則な軋む音がまたひとつ、車内の沈黙を刻む。まるで遠い未来からの“呼び声”を聞くかのように、彼はアクセルを再び踏み込み、夜道の闇に溶け込むように走り続けるのだった。

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