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【AI支援改稿】マリオネットとスティレット 第十九話 晩餐会

 闘技場の地下通路は、古い建造物特有の湿った空気に満ちていた。石壁の隙間からは、獣の血のような赤錆が滲み出している。不規則に並んだ松明が投げかけるあかりの中、テルとハーマンは大柄なジャドワの後ろでトボトボと歩みを進めていた。その後ろに二人の屈強な獣人傭兵がくっついて歩いている。逃げようがない。
「もう、おしまいだ……」
 ハーマンの震える声が、石造りの通路に響く。暗がりの中、テルは兄同然のタフガイの取り乱した姿を見つめていた。暗い通路のせいだと思いたいが、長身もどこか小さく見える。普段の尊大な態度は消え失せ、額には薄い汗が浮かんでいる。上品な口調も崩れ、ところどころ声が裏返るほど動揺している。それは子供の頃から、いつも兄のように頼りにしてきた人物の、意外なほどの脆さだった。
(ハーマンだって……怖いんだ)
 テルの目線がとらえる、今まで見たことのない、震える指先。強がった声の裏に隠された恐怖。いつもテルに正論を突きつけ、高みから諭してきた兄同然の存在が、今は掻き乱れされた感情を必死に抑え込もうとしている。その姿に、テルは胸が締め付けられる思いだった。今まで散々、現実を直視しろと語ってきた相手が、こうして目の前の現実から目を背けている。その皮肉に、テルは切なさを覚えた。
「まあまあ、そんなにビビらないでよ、悪いようにはしないから」
 気味が悪いほど優しい声のジャドワ。その巨大な影が、壁を這うように揺れていた。彼の歩みには獣人特有の重さがあり、その足音は心臓の鼓動のように規則正しく、二人の貴族の若者たちを追い詰めていく。
「貴族のボクくん」
 振り返ったジャドワの瞳が、暗がりで妖しく輝いた。人間の倍はある体格の獣人は、まるで子供を見下ろすように二人を見つめる。腰から例のリボルバーを出してこれ見よがしに弄ぶ。
「この銃は魔法科学ギルドの技術だね? 最新の……。っふふ、こんなもの持ってきちゃって……迂闊だよ。お父さんにも叱られちゃうぞ?」
 バカにしたようなニヤニヤ笑いだが、牙の間から出る低い声には、獣の唸りのような響きが混じっていた。テルは思わず背筋を伸ばす。傍らのハーマンは一瞬たじろいだものの、すぐに開き直ったように声を張り上げた。
「ふ、俺がローデシア家の人間であることがバレてるなら仕方ない。それでウチをゆすろうという魂胆だろうが……後悔するぞ?」
 その言葉を聞き流すように、ジャドワはリボルバーを腰のベルトに差し込む。魔法科学ギルドの最新兵器が、獣人の手に比べると玩具のように小さく見えた。
「なかなかの代物だ。これが魔法科学ギルドの技術力ってわけね」
 銃身を撫でる爪が不吉な音を立てる。まるで金属同士が立てるような鋭い音だった。ハーマンの顔が青ざめた。
「だから……返した方が身のためだぞ?」
「くくく……」
 ジャドワの声が一瞬だけむき出し獣性を帯びる。その迫力に、ハーマンは言葉を失った。黒い毛皮に覆われた腕が、僅かに隆起する。その仕草だけで、人間とは違う圧倒的な力の差を見せつけられた形だった。
「じゃ、大きい方はもう用済みだ。もう大人しくお家に帰りなさい」
 獣人の傭兵がハーマンの両腕を掴む。石の壁に叩きつけられそうな乱暴さで、通路の出口へと引きずられていく。
「テル!」
必死の声が響く。
「銃を……そのリボルバーを回収してくれ! それは絶対に他のギルドに渡ってはいけないもので……」
 最後の言葉は、重い鉄扉の向こうに消えていった。テルはゆっくりと顔を上げる。その青い瞳には、恐怖を押し隠す何かが宿っていた。
「ジャドワ……さん?」
 テルは恐る恐るといった様子で声をかける。体格差が著しい。大柄な半獣人のジャドワと比べると、頭頂部から生えた耳の長さまで勘定に入れなくてもその差は歴然だ。まるで大人と子供のようだった。
「レカは無事なんですか?」
 テルはできる限り臆した様子を隠して目の前の牙を隠した猛獣を見た。ジャドワはその目を見て、不意に興味を示したように耳をピクリと動かした。
「クックック。やっぱり気になるよね。幼馴染だもんね」
 ジャドワは笑った。テルは背骨が冷凍されたかのような怖気を感じた。
「心配しないでよ。みんなと一緒にご飯を食べなぁ」

*****

「ぐっ、も、もう少し丁重に扱え! 貴族だぞ!」
 闘技場の外に放り出されたハーマンは、冷たい石畳に尻餅をつく。すぐに立ち上がって、自分を無礼にも放り投げた獣人傭兵に抗議の声を上げる。高価な服が汚れてしまったが、気に留める余裕はない。
「おい! 聞いているのか!?」
 ブチ柄の毛皮の獣人は、ッケ、とだけ侮蔑的な響きを吐き捨てて闘技場の鉄扉を閉めた。ハーマンはそれを叩く。びくともしない。八つ当たりで拳で大きく叩く。ドォンと鉄板が鳴ったが、当然歪みすらできなかった。ハーマンは夜の冷気に凍傷になりそうなくらいの温度のそれに額をつけ、歯を食いしばる。
「くっ……無礼者どもめ……! このまま、帰れるものか……!」
 闘技場の鉄扉にくっついたまま、ハーマンは唇を噛んでいた。感情の昂ぶりで震える指が、畑仕事も工房の仕事もしたことがない手のひらに食い込む。かつて経験したことのない屈辱と不安。テルを置き去りにしてきた自責の念も、その感情に拍車をかける。
「……っち」
 立ち上がり、意味もなくウロウロする。夜気に吹かれて、ようやく冷静さを取り戻しかけた時、彼は周囲の異様な静けさに気がついた。闘技場から歓声や怒号が聞こえこそすれ、周囲の建物に人気がない。深夜0時も回っていないのに、街灯の青白い光が照らす石畳の通りには、一人の人影もない。しかも今日はアリーナに赤の旗が立つ、死の試合が行われる夜だ。初めて訪れるハーマンだって違和感を抱く。朝までどんちゃん騒ぎをする人間が一人もいないのは、いくらなんでもおかしい。屋台もない。酔客の一人でも寝転んで凍死しかけていそうなものだが、まるで闘技場前広場は捨て去られたかのように静まり返っている。
「おかしい……みな中にいて誰一人出てきていないというのか?」
 ハーマンは声に出して呟いた。その時、路地の暗がりから微かな呻き声が漏れる。
「うう……」
 よく見回すと、向かいの路地の暗がりに、壁にもたれかかる何者かの姿があった。緑の髪、この寒さにあり得ないほどの軽装、肩当てや胸当ての金属……。ハーマンが近づいてみると、その顔に見覚えがあった。
「君は……!」
「うっ……く……」
 緑の髪が月明かりに揺れた。ティトゥレーだった。彼女は壁に寄りかかるようにして立っている。否、立とうとしているのだ。その姿は、ガズボとの戦いで受けた傷の深さを如実に物語っていた。右腕は明らかに不自然な角度に曲がり、肩から血が滴り落ちている。
「あ……」
 一瞬、目が合った。ティトゥレーの紫の瞳には、この街が生み出した全ての悲しみが映し出されているようだった。
「あなた……た、助け……獣人たちが……反乱を……」
 ティトゥレーがよろめく。ハーマンは咄嗟に彼女を支える。ボロボロに成った彼女。近くで見ると、ちくりとハーマンの胸を罪悪感が刺した。さっきまで、その命が必死に戦っているのを、単なる見せ物として身勝手に楽しんでいたのだ。彼女の冷や汗に濡れた体が、震えていた。

「ま、待っていてくれ。冒険者ギルドを呼んでくる、詰め所は……?」
 ハーマンの声は寒さ以外の理由で震える。が普段の高慢な調子は消え、代わりに必死さが滲んでいた。
「エリオン兄ちゃんに……伝えて……」
 ティトゥレーの声が途切れる。意識が遠のいていくのを必死に堪えているのが分かった。ハーマンは彼女の体を優しく路地の壁際に寄りかからせる。
「ジャドワが……この街を……」
 その言葉が、夜の闇に溶けていった。ハーマンは決意に満ちた表情で立ち上がる。武器工房の跡取りとしての誇りか、それとも人としての責任感か。彼の瞳には、今までにない強さが宿っていた。

*****
 闘技場の地下深く、魔光灯の青い光すら届かない場所に、分厚い鉄の扉が設けられていた。そのさらに奥、ジャドワの酒場で、レカは大きなテーブルに片足を乗せ、ドリンクの瓶を傾けていた。肩の厚い筋肉がむき出しの、タンクトップ姿。少し寒いが文句は言えない。隣では、ガズボが巨大な体で椅子をきしませながら、一心不乱に肉を頬張っていた。シャルトリューズの触手が、ガズボの食べ残しの骨を拾いながら、時折テーブルの上をくねくねと這う。
(クソ……失態だぜ。あーしとしたことが……)
 刺激の強いそれを喉に通しながら、レカは心中毒づいた。思い出されるのはタティオンの言葉だ。
(レカ。エリオンは一旦は手を引いたようだが、獣人傭兵部隊は止まらないらしい。ガズボは関わっていないようだが……。積極的に反乱阻止に動いてくれるわけではないようだな。所詮、両方のギルドの言うことを聞く制御しにくいコマでしかないか……)
 タティオンは執務室の机の向こうで、重苦しい顔をしていた。
(中心となるジャドワは、我々が暗殺する必要があるようだ。ジャドワ……獣人傭兵部隊の傭兵隊長。傭兵ギルドの獣人の待遇改善は目覚ましい。かつては斬り込み隊の倍給兵になる他なく、恐ろしい死傷率だった。それを変えたのが、十年前に隊長になったジャドワだ。ジャドワはまず戦術を改善した。獣人の身体能力の高さを、切り込み隊として真っ先に使い潰すことをやめた。前時代の重装騎兵のような突撃にこそ活用の道を見出したのだ。やつのおかげで、ただの奴隷だった獣人は戦場の決定要因になり、その地位は急激に上昇した。だが所詮傭兵。ガズボのような、品性が欠けていた者たちが街の防衛戦で英雄になると、今度は今までの意趣返しとばかりに、人間に対して抑圧を始めたというわけだ。街の周辺の村々での掠奪も目に余る状態だったしな)
 タティオンは大きな仕事をレカに頼む時特有の、カリスマを感じさせる決意の顔でこう言った。
(ジャドワを殺せ。相手はお前以上の戦闘力を持つだろう……弟分のガズボは性格的に協力も邪魔もしないはずだ。無理そうなら共に潜入するスタヴロの部隊の支援のもと、撤退せよ)
 レカはため息をつく。
(だが捕まっちまうとはな。通路へは鉄の扉。ガズボもシャルトリューズも頼れねえし、どうしたもんか……しかし、仲間はどうしてるんだ?)
 レカは改めてこの部屋の様子を確認する。分厚い鉄の扉は古く、錆びついた蝶番から滲む油が、獣の血のような赤黒い痕を床に残している。しかしだからといって破れるようには見えない。ここは有事の際に籠城にでも使われるのか、その扉はレカの全力でも破れそうにない。
(馬鹿力のガズボは……)
 レカは横目で巨大な獣人を見る。黄色い瞳は狂気じみた食欲に染まり、脇目も降らずに一心不乱に肉を貪っている。レカはため息をついた。
(こいつは一応はあーしの部下とはいえ、誓約では傭兵ギルドの命令の方が優先だったな……)
 協力は得られそうになかった。中は意外にも広く、天井まで5、6メートルはあろうかという空間が広がっていた。かつて地下牢か何かに使われてたのか、石造りの壁には鎖の跡が残る。その無骨な内装に不釣り合いなほど豪華な調度品――とってつけたようなクリスタルのシャンデリアや、高級な木材で作られたテーブル、そして絹のカーテンが、ジャドワの趣味を思わせる。シャンデリアはよくここまで魔導線を引き込んだものだと感心するが、魔光の青白い光で輝いていた。
 奥では数人のエルフの給仕が、無表情で肉を解体している。首輪代わりの魔導具が、彼らの長い耳に青く光る印を刻んでいた。それは逃亡を防ぐための烙印であり、同時にこの場所の残虐性を象徴するものでもあった。意に反した行動をすれば苦痛を与えるものだからだ。給仕の一人が寄ってきて、裸同然の扇情的な格好。テーブルの上のグラスに酒を注ぐ。その手の震えは、恐怖なのか、それとも限界を迎えつつある肉体の悲鳴なのか。彼らの長い耳は片方がカットされ、奴隷であることを示してある。
 一人の給仕が近づいてくる。その緑の瞳は、かつての誇り高き種族の面影など微塵も感じさせない。むしろ、魂を抜き取られたような虚ろさを湛えていた。彼女はレカの前に新たな瓶を置く。
 その時、鉄の扉がギギっときしんだ。時間をかけて開くそのありさまは、破格の重量を感じさせた。
「さあ、みなさん。特別なお客様だ」
 姿を現したジャドワの低い声が響く。彼の巨大な影に寄り添うように、小さな人影が見える。魔光灯がその顔を照らし出した時、レカの体が強張る。
「テル……!」
「座れ! 妙な動きはしないほうがいいと思うよ?」
 思わず立ち上がろうとした彼女の動きを、ジャドワの一喝が止める。その声には、レカですら逆らえない威圧感があった。テルは、目の前の光景に言葉を失っている。いつもの幼馴染みの姿だったが、まるで別の世界の住人に見えた。
 一人の女性エルフが、震える手つきでレカの前に新しいボトルを置く。彼女の緑の瞳は、かつての誇り高き種族の面影など微塵も感じさせない。むしろ、魂を抜き取られたような虚ろさを湛えていた。大きく開いた胸元に刻まれた所有者の烙印が、魔光灯に照らされて青く輝いている。
「おい! 俺にも酒を持って来い」
 ガズボの声に、エルフたちの体が一瞬ビクリと震えた。それは条件反射のような、深く刻み込まれた恐怖の反応だった。レカは声を上げる。
「ガズボ! 調子に乗るな!」
 エルフの給仕は言われた通りに新しい酒瓶を運んでくる。一番下品な酒場の踊り子のような華美な格好だが、ぼうっとした幽霊のような雰囲気は、とっくに生きることを諦めている様子が見受けられた。レカはつい、彼女の姿を目で追う。不意に、不自然なタイミングで給仕の足が滑る。いや、滑ったように見えた。レカの赤い瞳が、一瞬の違和感を捉えた。
(え……っ!?)
 足を滑らせる前、給仕の緑の瞳が、座っているガズボではなく、立っているジャドワの方をチラリと見上げていた。瓶がテーブルの方へ飛んでくる。床に落ちる寸前、レカの腕が反射的に伸びる。腹の底から込み上げる不吉な予感と共に。その瞬間、ジャドワの殺気が、まるで実体を持ったかのように部屋の空気を切り裂いた。シャルトリューズの触手が、生物の本能的な恐怖でビクリと跳ねる。ガズボの顎の動きが止まる。レカも、手が止まった。
 バリンッという音と共に、床に飛び散る液体。砕け散るガラスの破片。しかしそれは、レカの超人的な動体視力ですら捉えきれなかった一撃の、残響でしかなかった。
(い、今のは……)
 レカの様子は驚愕と恐怖が入り混じったものだった。給仕の命が、ろうそくの火が吹き消されるように消え去った瞬間は、彼女にすら捉えられなかった。初めての経験だった。ジャドワはニヤニヤしながら、
「ククク、きみもあまり調子に乗らないように」
 とだけ、ニヤニヤ笑いを崩さずに言った。レカは立ち上がってエルフの亡骸に歩み寄る。首筋に手を当てると、頸椎がボキボキにひしゃげ、内部の髄が流れ出ているのが、グジュグジュと不快な感触になってわかる。レカは敵意の視線をジャドワに向ける。それは見せしめであり、同時にジャドワの圧倒的な力の証明でもあった。
「てめえ、こういうことをするやつなんだな?」
 レカの声には、怒りよりも深い警戒が滲んでいた。父から受け継いだ赤い瞳の持ち主ですら見切れない速度。それは暗殺者としての誇りを根底から揺るがすものだった。当のジャドワは、ククックと心底おかしそうに笑った。まるでちょっとしたイタズラを咎められ、悪びれる様子を見せない悪たれガキのように。
「エルフを殺したくらいでなんだい?」
 ジャドワの低い声が、獣の唸りのような響きを帯びて部屋の空気を震わせる。
「ねえ、レカちゃん?人間や獣人と違うじゃないか……?」
 テーブルの上のグラスが、かすかに共振して揺れた。ガズボとシャルトリューズは黙々と食事を続けている。ジャドワはスーッと歩幅も気配も意識させない影のyいうな歩法でレカに寄ると、意図的にゆっくりとレカの横顔を覗き込む。
「それとも、最近仲良くなったエルフでもいるのかな?」
 その言葉には、相手の心の闇を知り尽くした者の残酷な余裕が滲んでいた。レカは静かに息を吐く。突然、パッとおどけたような表情になった。テルの視線を感じていた。
「はは、仲良くなったエルフ? 冗談はやめてくれよ」
 レカの声は、いつもの気の抜けた調子を装っている。だがその赤い瞳の奥底で、決して消えることのない炎が渦を巻いていた。その炎は、タティオンから受け継いだ魔力の光ですらなかった。
「あーしにゃ、そんな優しいこと、できるわけねえだろ?」
 その言葉に込められた自嘲には、底なしの闇が潜んでいた。
 テルは息を呑んだ。幼い頃から、レカの感情の機微なら、誰よりも分かっているつもりだった。怒ったレカも、悲しむレカも、嬉しさを隠しきれないレカも、全て知っているはずだった。しかし、今目の前にいるレカは、まるで別人のようだ。中身がすっかり入れ替わって、マリオネットにでもなってしまったかのようだった。その赤い瞳に宿る光は、今まで見たことのないものだった。それは単なる怒りではない。もっと深い、そして根源的な何か――人の心を焼き尽くすような業火に似ていた。
「フー……」
 テルもまた、静かに深呼吸をした。今感じているストレスはなんだろう。友達の秘密を最悪な形で見せつけられているせい? それとも、大好きな恋人が苦しんでいるのをどうにもできない悔しさのせい?
 表面的には取り繕った態度を見せているレカだが、その指先が微かに震えているのを、テルは見逃さなかった。それは決して恐怖ではない。むしろ、抑え込もうとしている激しい感情の表れ。救貧院で見せる無邪気な笑顔も、街で見せる不良っぽい態度も、今のレカからは跡形もない。まるで仮面が剥がれ落ち、その下から本当の素顔が覗いているかのようだった。
「へえ……随分と上手く取り繕うじゃないか」
 ジャドワが再び口を開く。その声には、獲物を追い詰めた猛獣のような残虐な愉悦が混じっていた。
「その隠し事のうまさのせいで、君の大事な幼馴染くんはショックを受ける羽目になったというわけだ」
 ジャドワがゆっくりとテルを見た。もう、彼は怖気付かない。ショックが彼を強くしていた。
「ジャドワ、さん」
 テルが静かに言った。
「へえ……」
 低い声が、石造りの壁に反響する。その時、テルが静かに顔を上げた。
「ジャドワさん」
 その声には、これまでの怯えは微塵も感じられなかった。むしろ不思議な落ち着きがあった。ガズボが興味深そうに肉を咀嚼する手を止める。
「この街で、誰一人として暗い秘密を持たない人なんていません」
 シャルトリューズの触手が、テーブルの上で不規則な動きを見せる。その言葉の意味するところを理解したかのように。レカは思わずテルを制止しようと身を乗り出すが、彼の青い瞳には凜とした光が宿っていた。
「貴族だって、商人だって、ギルドの長だって、誰もが自分のことで精一杯です。でも、その中でレカは……」
 テルは一瞬言葉を切り、ジャドワの赤い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「少なくとも街の人々のことを、本気で考えている」
 ジャドワの笑みが一際大きくなった。
「ククク、ククク」
 半獣人特有の、概ね人間に見える中で、いくつかの部分だけが動物の特徴を備えるという見た目……ジャドワの狼の耳と尻尾、腕の毛皮……以外に、見落としていたものがあったようだ。ジャドワの低い笑いは、やがて裂けた口から唸り声に変わっていった。
「グルァ……アハハハハ」
 テルもさすがに戦慄した。顔から血の気が引く。獣人や動物の自然な笑みとは違う、ハーフ故の歪みが、ジャドワの顔に悪魔的印象を乗せていた。それに反応したのか、ガズボが獣のような笑みを浮かべる。肉を囓る手を止め、舌なめずりをするその仕草には、獲物を前にした肉食獣のような残虐さがあった。シャルトリューズの触手が、まるで愉悦に震えるかのように、テーブルの上で蠢く。二人は明らかにこの展開を楽しんでいた。自分の正体を隠す暗殺者と、その幼馴染みの貴族の若者。その複雑な関係性が引き裂かれる瞬間を、彼らは上質な余興として眺めているのだ。
「テル……」
 レカの手がテルの肩に触れた。嵐の海面がコップの中のさざ波程度に、一瞬で落ち着いた気がした。
「とりあえず座ろうか」
 レカはジャドワに一瞥を投げかけると、血の気を失ったテルを促して席に座る。その仕草には、これまでテルが見たことのない冷静さがあった。テルは思わず息を詰める。仕事人としての穏やかな職務の遂行。そんな印象を得た。幼馴染に初めて見る一面だった。
「死体を片付けろ」
 レカとテルを無視して、ジャドワが言った。獣人傭兵がゴミでも片付けるようにエルフ女性の体を引っ張っていく。裸同然の薄衣の衣装が破けて、裸体が顕になり、テルは顔を背けた。悲惨なむごさと、情けない劣情がどうにもきつい。テルはその光景を見て、さらに手足が冷たくなるのを感じた。ジャドワがレカの肩に乱暴に毛むくじゃらの手を置いた。
「暗殺ギルドの犬でも、奴隷には情けをかけるってことか」
 ジャドワの嘲笑うような声が響く。レカは拳を握りしめた。シャルトリューズの触手が、血の滲んだ骨の破片を愉しげに弄びながら、テーブルの上を這っていく。ジャドワはテルの肩にもおおきな手を置く。ちくちくする体毛がテルの頬を刺す。
「まあまあ、せっかくおいらが食事に招待したんだ。君たちは幼なじみだったよね?」
 その仕草には、何かを楽しむような残虐さが滲んでいた。レカが舌打ちをした。
「なんでもお見通しなんだな」
 レカのため息混じりの言葉に、ジャドワはおかしそうに笑う。
「積もる話もあるだろう?」
 レカの赤い瞳が、一瞬だけテルと視線を合わせる。しかしすぐに逸らされた。ガズボが肉をちぎる音だけが、重苦しい空気の中に響いていた。シャルトリューズの触手が、まるでその空気を愉しむかのように、ゆっくりとテーブルの上を這い回っていた。ジャドワが出て行った後の沈黙は、長かった。

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