『オナ禁エスパー』はエヴァの代わりになれるか?
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まずエヴァという作品が存在することを忘れてほしい。あなたは中学生だ。エヴァはもちろん泣きゲーもシャナもハルヒも君の名はも何も知らない。そういう中学生のあなたが人生一発目(変な意味ではない)にこの読み切りに出会えた時、それら作品と同程度の感動を得ることができるだろうか?もし『オナ禁エスパー』がエヴァの感動を凝縮した存在だとしたら、エヴァより上なのか?新時代のエヴァなのか?
この問いに安易に答えを出すつもりはない。例えば近所の貸ビデオ屋で借りたエヴァテレビ版+旧劇のVHSで心に消えない傷を負った私のような人間が、上の問いに冷静に答えられるはずもないのだ。だが問いに答える代わりに色々と語ることはできる。
「オナ禁エスパーは2002年くらいに古の個人サイトのミサト×シンジ二次創作でオナニーしていた自分を救った」
これは事実である。おねショタ……?そう言ってしまえばテンプレ臭くて閉口するが、「年上の女性に憧れを持つ中学生」出会った自分というものは確実にいて、確実にそれはシンジとミサトの共同生活というシチュエーションに感応していた。オナ禁エスパーはそこで得られたあの性的欲望を極限肯定してくれたように思うのだ。
最初の問いに立ち帰ろう。いや、その前に問いをもう一つ。そもそも、作品とは何か?いや、なぜ作品は生み出されるのか?そうではない、なぜ作品は生み出され「続ける」のか?過去の作品はなぜ数年で古びてしまうのか?過去の神作が現在の名作を上回れないのはなぜか?それは商業的理由もあるが、最も大きな理由は、「人は大人になるから」……。中学生が中学生でいられるのは三年だけだし、その三年に出会った作品の重さは本当に重い。私が旧エヴァに消えない傷をつけられたように。まあ、とりわけエヴァが重かった、ということはある。では最初の問い。『オナ禁エスパー』はエヴァの代わりになれるか?そんなこと決まっている。「人による」としか言えない。なんともまあ反知性的な結論ではあるが、まあ待ってほしい。
そもそも、「あるたった一つの作品に人生を変えられました」というのが健全なのだろうか?作品数が限られていたり、誰もが一つの作品に熱狂していたりする時代であるなら話は別だが、今は令和である。インターネット配信を含めると作品数はあまりに膨大で、Twitterムラでいくら騒ごうが、次のガンダムやエヴァやハルヒが生まれるはずもない。必然、誰かの人生をたった一つの作品で変えてしまえる、というほどのパワーを持つ作品も出てきにくい。我々は、「いくつもの作品によって人生を変えられてしまう時代」に生きているのだ。そしてどの作品をピックして自分の人生の糧とするかは自分が決めるんだ(あるいはAIのリコメンドが)。30代後半がエヴァで語り合えるような光景はもうそんな共通の話題をもつ世代が現れなくなることで無くなりそうだが、海外アニメでもなんでも自分の好きなものを欲望のお赴くままに摘んでいいのだ。その履歴があなた自身なのだ。最初の問いに、人それぞれ、だなんてくだらない答えではない、真正面の答えを返そう。
「代わりになんかならない。一つの作品の比重がとても重かった時代と今とを比べることなんかできない。今の時代は、たくさんの作品を足し合わせた重みで変わる時代なんだ」
つまり、エヴァの持つ感動の一部を読み切り一本で表現したなら、残りのピースは他で補えばいいのだ。『オナ禁エスパー』がエヴァを凝縮した感動を持っているように見えるからって、そのまま代わりになることなんて、絶対にない。……というのを一つの結論として記事を締め括りたい。読んでくれてありがとう。