学校一のバカ生徒だった僕が、沢山の人を笑顔にする物語
現在、恵まれない子供や、夢を持った子どもを支援するためのサロンを作るために日々奮闘中。これまでには、130人のサロンオーナーや営業・企画コンサルを経験。
そんな僕が、どのような経緯で今に至ったのかを書いた記事になります。普段は、昔と変わらず大バカ者ですが、やると決めたことは徹底的にやり切る性格です。
面白おかしく書きながらも、僕の思いがつまった記事になるので読んでいただければと思います。
【お笑いメーカー】
僕は、本当にどうしようもないバカな生徒だった。
そのバカさ度合いは自分の学校だけに収まらず、他校にまで名前を轟かせていた。
他校の文化祭に行けば、声を掛けられ写真撮影が始まる
自動車学校に行っても知らない人から声を掛けられる
ショッピングモールやスーパーなど、どこにいてもseikunに遭遇!というLINEが広がり、すぐに居場所がばれるほどだった。
理由は、地元や部活の友達が、自分の学校で友達を増やすために、面白話のネタとして僕を使っていたらしい。
他にも、学校行事にカメラが入れば、専用と言わんばかりにカメラが張り付き、僕の行動を記録した。理由は、僕がテレビに映ると視聴率が安定するからとか…
そんな、お笑いメーカーだった僕は、ご想像通り頭が悪かった。
その実力は、5教科で50点という偉大な記録を持つほどだ。
そんな僕が大学に進学できるほど世の中は甘くなく、高校卒で就職することにした。
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【悲劇】
高校を卒業後、兵庫県の大手製鋼会社に就職が決まり、意気揚々と地元を離れ旅だった。
がしかし。4月の最終日、悲劇が起こった。
ゴールデンウィークで帰省していた僕は、友達と遊ぶため雨の中車を走らせていた。ところが、土手沿いの道をUターンしたところで、意識を失った。
意識がもうろうとする中、辺りを見回すと、血だらけの道路に「大丈夫ですか!!」と叫ぶ男性。周りには人だかり。
その時、下半身が温かいことを感じ目とやると、
『僕の体が車に飲み込まれている』という衝撃的な光景が広がっていた。
トラックとの正面衝突だった。
事故当初は、『一生歩けない体になる可能性がある』と医師から告げられるほど、悲惨な状態だった。
だが、その後6カ月間の入院・通院をしながら、リハビリに励んだ結果、自力で歩けるまで回復した。
ここまで回復したことは喜ばしいことだが、治療期間は会社に出勤できる訳もなく、半年間の休職扱いになった。
会社からすると、1か月弱しか働いていない社員を半年も休ませ、その間給料を払い続ける。非常に迷惑な社員だ。
そして、半年では職場復帰できず、+3カ月も休業にして欲しいと頼まれる始末。なんて烏滸がましい社員なんだ。
だが、会社はそんな僕を快く受け入れてくれるだけではなく、
「万全になるまで休みなさい」と休職扱いを継続してくれた。
なんて優良企業なんだ。こんな会社は日本中探しても多くないと僕は確信している。
だが、そんな心優しい言葉に反して僕は、
『退職』という恩知らずな行動をとったのだった。
読者の方も、「何なんだこの小僧は」とイライラしていることだろう。
今振り返りながら書いている僕も、自分の行動に嫌気がさしている。
今思い返しても、本当にいい会社だと心から思う。
もう一度お礼が言いたい。ありがとうございました。
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【出会い】
退社後しばらくの間は、働くことができない状態だった。
必然的に僕のリハビル・オンリー・ライフの幕が開けた。
そんな生活送ることで、輝いていたはずの自分が、廃人まで落ちることにそう時間は掛からなかった。
そんなある日、自分を鏡でみて嫌気がさした。
それから、「自己啓発」「営業」「投資」の勉強を始めることにした。
学びを続ける中で、どこにも勤めることなく個人で仕事をする
『フリーランス』という職業の存在を知った。
これが、”僕”と”フリーランス”の初めての出会いだった。
だが、フリーランスとして活動したくても、何をしたらいいのか分からないので、まずは大阪で営業職を始めることにした。
営業職に就いてから3カ月後、仕事での結果も安定しだし、仕事と勉強をするだけの日々に飽きてきていた。
そこで、学ぶだけではダメだと思い、発信する場所を作った。それは、当時流行っていたオンラインサロンだ。
そのサロンでは、僕が日々学んでいる内容を、”記事” ”動画” ”音声”にまとめ毎日配信をしていく。というものだった。
開始後3カ月ほどで、20歳という小僧が配信する内容にしては面白いと評判になり、会員数約130人が集まるまで大きくなった。
驚くことに、70歳のおばあちゃんが応援したいと会員になってくれていたことだ。
もちろん、ご年配の方は少なく、多くは20代30代の方だった。
そんな生活を一年ほど続けたのち、個人的な理由でサロンを閉じることになった。
そこから最近まで、地元で若手起業家を夢見る人たちのお手伝いをしてきた。
ですが、日々思いつくアイデアを自分で形にすればより沢山の方を笑顔にできるのではと考えるようになってきました。
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【幕開け】
そんな僕は、2021年から新しい会社を作ろうと思います。
その会社は、
『地方の子どもが、夢を叶える手助けをする』
を目標にしています。
その先駆けとして、来年夏から養護施設の子どもに洋服を届けたいと考えています。
そのプランは、一枚購入につき一人にお客様と同じデザインの洋服をプレゼント。そして、シリアルナンバーで紐づけし、支援者(お客様)と子どもがオンライン上で間接的に繋がれる仕組みにします。
この狙いは、髪型や服装など外見で判断できる要素が、いじめの対象になることが多いと思います。なので、少しでも綺麗な洋服を届けるだけでなく、支援者と同じデザインにすることで、街を歩いていても、同じ洋服を目にするだけで人との繋がりを感じられるのではないかと考えたからです。
現代は、インターネットが普及し世界中の人と繋がる可能性がありますが、案外人と人との繋がりを体感しにくく孤独を感じている人が多いです。
そこで、このプロジェクトに関わる人々全員が、人の温かみを実感し、孤独や劣等感に悲しむ人を少しでも減らせしていければと思います。
そして、3年後からは夢を追いかける子どもを対象に
『夢追い人応援基金』をスタートしたいです。
つたない文章ですが、自分の過去と未来について少しだけ語らせていただきました。
最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。
今後とも配信していきますので、読んでいただければと思います。