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母の支配が怖い!トム・アット・ザ・ファーム

僕たちは、愛し方を学ぶ前に、嘘のつき方を覚えた。

こんなキャッチコピーのついた映画をアマプラで観てみた。

大切な人を失った悲しみについて、紙ナプキンに殴り書きするシーンから始まるこの映画。そのあとフランス語の女性ボーカルが歌うドラマティックで切ないアカペラ挿入歌が流れ、繊細そうな金髪の美青年、カナダの田舎の美しい田園風景。からの、唐突な不穏な空気、唐突な暴力、唐突な脅迫。冒頭から一気に心を奪われて、いったいこれはなにごとなんだ?と最後まで見入ってしまった。

ゲイの恋人?誰とでも寝る男?くそビッチ?弟はなぜ亡くなった?良い息子の幻想を求める母親、芝居をする長男。暴力、ドラッグ、芝居の強要、監禁?幽閉?

冒頭とラストが特に切なく美しく、二度三度と観てしまった。素敵な音楽がとても効果的に使われている。ストーリーとしては決して気持ちのよいものではないはずだが、嫌な気持ちにならないのはこの美しい映像と音楽のせいかも知れない。疲弊しきった主人公が、ギリギリの状態でなんとか美しいものにすがりながら生きているような世界観。

主演で監督の グザヴィエ・ドランは、若く美しきゲイの天才監督として有名らしい。私は初めて観たけれど、これは夢中になる人が少なくないのもわかる。

トムアットザファーム公式サイト


以下感想、だいぶネタバレ

ゲイであることを隠し演技を強要される主人公の苦しみ、長男が暴力とドラッグと酒を使って主人公を支配していくおそろしさもさることながら、私は母親の存在が一番怖かった。この母親も一度、長男をひっぱたくシーンはあったものの基本的にフィジカルの激しい暴力は使わない。けれども長男を支配している。

一番印象的だったのが、主人公と長男がドラッグをキメてタンゴを踊るシーン。踊りながら長男は家庭の愚痴のようなものを語る。この生活はもううんざり、母親が死んでくれればいいのにといったことを話している途中からドアのところに黙って母親が立っている。怖い。それに気が付いて慌てて離れる二人、冗談を言ってもムスっとしている母親に、話を聞いていたのか尋ねても不機嫌そうに立ち去るだけだ。

長男の本音を聞いてもショックを受けるでもなく、怒るでもなく、ただ不機嫌な母親。機嫌を取ろうと冗談をいう長男、母の立ち去ったあとにお前のせいだ、とつぶやく長男。私がこのシーンから受け取ったメッセージは、「この母親は息子の真実や本音に興味がない。彼女は息子に対し、自分の機嫌をとるための芝居を続けることを要求している」

母の奴隷と化した長男、長男の奴隷と化す主人公

彼女の息子たちは農場のイケメン兄弟、長男は農場を手伝う母親思いの兄でなければならず、彼女のご機嫌取りのために人生を捧げる奴隷だ。次男は都会で美人の恋人がいたはずで、葬儀の時に友人一人しか来ないのは、優秀で嫉妬されていたせい。息子は人に自慢できる理想的な息子であるはず、そうであってくれ、そうでなくてはならない。彼女の幻想への憧れを前に、真実は無力である。

しかしこの長男もつくづく異常である。真実を語ろうとした若い男の口を素手で引き裂き、初対面の弟の友人たちに暴力やドラッグを使ってまで芝居をするよう強要する。弟のギヨームがどのような人物だったのか、あまり明確には描かれないが、恋人のふりをさせられていた女性によれば誰とでも寝るので有名な男で自分も寝たと言う。こうなるともうギヨームはゲイというかバイ、というか本当に無節操に男女問わず誰とでも性的関係を持っていたのでは。LGBTにまつわる問題については詳しく知らないのだけれども、ギヨームが抱えていた問題は性自認や性的対象以前に愛情の問題であって、ゲイなのにカミングアウトできないとかそういう問題でくくれるものではなさそうに思える。

それを言ったら主人公トムも同様だ。トムは冒頭でギヨームを亡くした苦しみを紙ナプキンにかきつけていくが、最後に「残された者にできることは君の替わりを見つける事」と締めくくる。これが大切な恋人を亡くした人が言う言葉だろうか?たいへん心を痛めているようではあるものの、最後の「君の替わりを見つける」には非常に違和感をおぼえる。

トムはギヨームの兄に脅され、殴られ、腹を立てるものの抗いきれず無力である。逃げようとしてつかまり、ドラッグとダンスとほんの少しの優しい言葉で懐柔される。恋人のふりをしてくれそうな女性を呼び出し巻き込んで「彼らは家族同然だ」と言い出したりする。自分は無価値な人間だがこの農場は人を必要としている、と言う。想像するに、誰とでもセックスしていたけど葬儀に誰一人友人が来ないギヨームはきっと孤独な人間で、トムは無価値な自分でもギヨームの役になら立てると思っていたのかも知れない。トムの替わりに自分の居場所を与えてくれるのはトムの実家の農場だと感じたのかも知れない。

ラストシーン、いよいよ身の危険を感じたトムは荷物をまとめて農場を去るけれど、長男フランシスは追いかけてくる。再びつかまる悲惨な末路も、逃げ切る大団円も描かれない、そういう意味ではすっきりしない映画だ。にもかかわらず見た後の気分がそんなに悪くないのは音楽や映像の美しさに加えて、心底トムが疲れ果てている様子と、それでいて逃げようという意志をギリギリ保っているところだと思う。

ラストに流れるのは「Going To A Town」。 I'm so tired of America、というフレーズが繰り返されるこの曲に、アメリカ的父性的な支配への疲弊が強烈ににじんでいる。

コロナ渦中に思う、支配と教育の問題

コロナ対策について、現在は国内外で一部で閉鎖が緩和されたり各自治体の方針、企業の決算報告もだいたい出そろって、現時点での明暗が分かれた原因を分析しつつ、次の方針を考えようといったフェイズにある。コビット-19を人類を上げて殲滅すべき敵と認識するなら全世界が結束してこの対策に当たらなくてはならない。けれども国家間、自治体間、個人間でも対策法についてそれぞれ作法の違いがあるし、コロナを撲滅すべきだという考えにすら疑義があるくらいだから厄介だ。

感染症という敵の特性からして人間の隔離や行動の制限が撲滅のためには有効になるが、それがどのぐらい人道的なのか? かといって、ある程度の死者を出すことを受け入れながら経済を走らせていくことは正しいのか。どこかにしわ寄せがいくのは避けられないとしても、「見捨てられた」「犠牲を払わされた」と感じている層を無視して走れば必ず将来の禍根になる。これは理想ではなく倫理の問題でさえなく現実の問題として。

日本の政府は欧米のような厳しい外出禁止令を出すこともできなければ、中国のように政府が徹底的に監視するしくみもとらない。政府が弱い。権力が弱いし知力も弱い。

この映画の母親は親という立場を利用して長男に自分の意向を忖度させ、嘘をつかせる。長男は暴力的な方法で主人公を支配する。日本の政府はこのお母さんみたいで、自粛警察やネトウヨも同じようだと思う。私はアメリカ政府には湾岸戦争の頃からずっとうんざりしてる。

長々書きました

最後まで読んでくれたかた、ありがとうございます。

アマゾンアソシエイトというのをこの記事で初めてはってみた。

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