和気清麻呂が歩いた道 宇佐神宮
大分の旅 2023.11 感動ポイント No.1
和気清麻呂が勅使として歩いた道
JR宇佐駅から宇佐神宮に行く途中に、和気清麻呂が勅使として訪れた際、船をつないだ石が残されています。
当時は、この付近まで海だったらしく、宇佐神宮に参拝する際は、ここまで船で来ていたようです。宇佐の平野は干拓してできた土地なんですね。また、約二千五百年前、神武天皇東征の際、船を着けた場所だとも伝えられています。
「船繋ぎ岩」は、高さ一メートルくらいの苔むした丸い石柱で、上記の案内板と共に公園として整備、保存されていました。
以下、北馬城地区まちづくり協議会説明板より引用します。
「奈良時代、弓削道鏡は、孝謙天皇の寵愛を受け、権力を欲しいままに、しばしば政治に介入していた。そのうち皇位を狙い、「道鏡を皇位に就けたならば、この国は安泰である。」とする託宣が、宇佐八幡大神よりあったと、偽りの奏上をした。
当時の宇佐八幡神は、「隼人の乱」「東大寺大仏建立」「藤原広嗣の乱」など、天皇家や国家を守る神として大変崇敬されていた。
宇佐神宮を、深くご崇拝になっておられた天皇は、道鏡を皇位につけるべきか否か、宇佐神宮からお告げを聞くため、勅使として和気清麻呂(わけの きよまろ)を宇佐神宮に派遣した。清麻呂は、八幡神に真意をお示しになるよう祈ったところ「我が国では、始めから天皇と家臣の関係は決まっていて、家臣が天皇になったことは一度もない。無道の者は早く除け。」という託宣があった。 清麻呂は、それを持ち帰って報告したので、道鏡は、やがて下野国(栃木県)薬師寺に流され、事件は終わる。
和気清麻呂が、真意を確かめるため宇佐に派遣された際、船を繋いだとされる「船繋ぎ岩」である」
目を閉じて
潮騒の音
清麻呂が
船のきしみに
手をそえる
秀翁
はるか昔、孝謙天皇が、道鏡の手練手管によって利用され、国を危うくする寸前、和気清麻呂の、勇気ある行動により、危機を回避したのでした。清麻呂は、道鏡の意に添わぬ託宣を持ち帰って公表すれば、自分の身が危ういことも顧みず、正しい託宣を報告しました。間違ったことを許さない、誠実な心をもった清麻呂らしい行動だと感じました。
和気清麻呂は、現在の岡山県和気町の出身で、桓武天皇の信任を得て、近畿地方の治水事業や、美作・備前の安定と発展に努めました。
常に誠実に業務をこなし、平安遷都は彼の立案であったことなどは有名です。
はるか昔の史跡を大切に保存、整備してくださっている地域の方々に感謝、感謝です。
勅使道と呉橋
和気の清麻呂が歩いた道を、清麻呂と共に歩きます。宇佐神宮では、朱塗りの呉橋(最初の写真)を渡り、勅使道を通って本殿に向かいました。
紅葉の時期は過ぎていましたが、和気の清麻呂も眺めたであろう菱形池には、鏡のように周囲の樹々が写り素晴らしい風景でした。
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