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事業承継物語①
精工パッキングです。
1つ前の記事にビクトリア型って?①と書いたので本来ならその②を掲載しようかと思っていたのですが、より面白いご紹介ができそうなのでちょっとネタを集めてしっかり描きたいと思います。
ということで3代目となる私がどのようにして3代目となったかを少しお話していこうと思います。
私は1974年(昭和49年)3月に生まれました。
ちょうどオイルショックの頃です。
その年の10月に読売巨人軍の長嶋さんが引退しています。
父は若いころから野球が好きで大のジャイアンツファンです。
20代には今の仕事を始めていて仕事をしながら野球のラジオを聞いていたそうです。
会社創業年は1961年。有限会社として設立したのが1971年。
その3年後に私が生まれています。
オイルショックの頃はかなり仕事が厳しかったようです。
私が生まれてすぐの頃に仕事がほとんどなくなり生活に困り果てていたらしいです。
仕事がない時期が数週間続き、いよいよこれでは生活ができないということで車の2種免許を持っていた父はタクシー会社に面接を受けに行き転職を考えたそうです。
そして面接に受かり出社する当日に お客様から電話がかかってきて
『精工さん!この仕事引き受けてくれないか!』
と、電話がかかってきてそのままタクシー会社は無断欠勤し精工パッキングが繋がっていきました。
もし、その電話がなければ精工パッキングは廃業していたのかもしれません。
そこから会社経営もそれなりに順調に進みました。バブル景気の時は本当にすごかったらしいです。
こちらが昭和時代の平屋建ての精工パッキングの唯一残っている写真です。
ここで最初に私が”3代目”と触れましたが、創業したのは父です。
元々、今の工場がある場所は私の祖父がデザイン印刷会社を営んでいました。
いわゆる現代でいうところのデザイナー兼印刷屋です。
祖父は絵画の才があったらしく有名な化粧品会社のパッケージをデザインして印刷して高級な箱を作っていたようです。
その箱を作る機械が今の精工パッキングの基礎につながります。
祖父は血液癌で父が20歳の時に亡くなっています。
そもそもデザインができるのが祖父だけだったので(父および私には絵心はありません)デザイン印刷屋は廃業となりました。
祖父の仕事を手伝っていた中学しかでていない父が途方に暮れていたところとある方が・・・
『箱を作ることができる機械を持っているなら、この型でこの材料を打ち抜いてよ』
と1つの型を持って来てくれたそうです。
お金になるならなんでもやります!ということで父はそれからその方が持ってくる型でひたすら打ち抜き作業をしていたようです。
それからしばらく忙しくしている時に父の兄が結構な遊び人でフラフラ仕事もしてなかったので 『兄貴手伝ってくれ!』と父が呼びかけて一緒に働くことになったそうです。
とはいっても生粋の遊び人の兄(私の叔父)
機械工作など疲れる仕事は大嫌い。汗かいて仕事するのも大嫌い。
もっぱらデスクに座り電話のやりとりや事務仕事中心で納品にでかけるだけでした。
それでも父からしたら余計な仕事から解放されて機械工作作業に没頭できるので助かったと言っています。
こうして兄弟で町工場を営み始めたので1971年の有限会社設立の時に初代社長は父の兄(私の叔父)が就任し、私の父はそれからずいぶん経って後、2代目となりました。
今日はここまでです。
次回は私が入社するきっかけになったお話です。
お楽しみに。