見出し画像

事業承継物語②

毎週1回更新していこうと思っていたのですがなかなか難しいものですね。

今日は事業承継物語その②です。

主に私がどうやって入社したのかを少しお話します。


実は今、新しい会社を作ろうと模索しています。

私だって最初は普通の右も左もわからない新人です。

いきなり社長になったわけではありません。


 

子供の頃の夢は『ゴミの回収車の運転手』というなんでそこに行った!と、もし私に子供がいたら突っ込みいれるところでしたが、私の両親もヒザから崩れかけたそうです。


画像1

普通子供の夢と言ったら当時は野球選手とかスーパーマンとか、憧れのヒーロー的存在が多かったのですが私はなぜかゴミ回収車の運転手。

これには理由があります。小学1年生の時に今までの幼稚園生活とは違い明らかに行動範囲が広がった6歳児。

とにかく見るものすべてが新鮮でした。そんな時に学校の帰り道、1台の青い車の中にどんどんゴミが吸い込まれていくではありませんか!

『なんだこのカッコいい車は!あの車はきっと宇宙に繋がっていて地球上のゴミを全て回収できるスーパーカーなんだ!!!おれ、あの車の運転手になりたい!』

完全にアホな小学生です。


そんな幼少期だったのですが両親は私に公務員になってほしかったようです。

それでも父と叔父が会社経営をしているので周りの大人たちには 秀君は将来社長だね!とよく言われたものです。

でも当時の私は社長???って何???なんか偉い人なのかな?・・

ぐらいでした。


それから中学生になり高校生になり身体だけは丈夫に育ちました。

大学進学のために必死に勉強もして無事に現役で夜間大学💦に合格しました。


実は高校3年生の夏ぐらいに決まってしまったのでそこからはバイト三昧です。

大学は東京理科大学理学部第2部物理学科。

ここは当時としては珍しく、入るのは超簡単なのですが卒業するのがとても大変で平均6年ぐらい通って卒業という話も聞いたことがあります。

 

そんな話は露知らずの高校3年生の私。

学校は飯田橋にあるから御茶ノ水辺りのスキーのショップ店員でもやってお金稼ぎながら大学に通おう。あわよくばショップ店員ならモテるんじゃないか?と地獄の大学生活が待っているとも知らずにウキウキな毎日を過ごしていました。


 

それから順調に卒業式を迎えて晴れて大学入学式までの間遊ぶぞー!と意気込んでいた時に父からこんなことを言われました。

父『お前、バイトいつまで続ける気だ?』

私は何を言っているのか意味が分かりませんでした。大学生活の間中バイトをするつもりでいたので いつまで?と言われても卒業するまでとしか答えようがなかったからです。すると、、

父『そんなところでバイトしてるならうちの会社で働けばいいじゃないか』

へ?????

ポカーーンな私。想像もしてなかったのです。自分があの小汚いw町工場で働く?18歳だよ、おれ。青春真っ盛りだよ、おれ。なんであんなところで汗塗れで働かなくちゃならないんだ!即答でNO!を突きつけました。すると、、

父『給料はどれぐらい貰えてるんだ』

私『10万ぐらいは行くと思う』

父『なら15万出すからうちで働け』

じゅ、じゅ、15万!!一瞬心が揺れました。18歳の右も左もわからない小僧です。イキってタバコなんて吸ってた頃です。

画像2


それでもモテたい!ということもあったので選んだスキーのショップ店員。実際ちょっといい感じになりかけの女性の先輩もいました。

私『いや、でも飯田橋から御茶ノ水近いし・・通勤と通学が理想的なんだよね。。。』

父『・・・お前車の免許取らないのか?』

作戦を変更してきました。

私『もちろん取るよ。バイトしてお金たまったら夏休み辺りで一気に取るつもり』

父『夏休み?馬鹿言ってんじゃない、今日から取りに行け!教習所のお金は全部だしてやるから!』

完全に金で釣りに来ました。


小鹿のような私は完全に金を握らされて即バイトを辞めてきましたw

ここからが私の地獄の大学時代の始まりです。


朝8時に家を出て15時まで高砂の工場で汗塗れで仕事をし、17時からの授業までに学校に向かい23時ぐらいまで勉強をして、帰り際に1杯飲んで終電近くで帰宅。翌朝また仕事に・・・という青春とは完全にかけ離れた生活が始まったのです。

しかし。

 

 

これが3代目になる最初のきっかけです。

社会の役に立ちたい!とか夢をかなえたい!とか人の役に立ちたい!とかそういう大きな目標を持って入社したわけではありません。お金に釣られて渋々入社したのが現実です。


今日はここまで。

次回は小僧時代、修業時代の悪戦苦闘と開眼の瞬間のお話をしようと思います。

お楽しみに。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?