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ミズクラゲ3

【第三章】

今日も東京は観測史上最長の真夏日を更新していた。夜になっても熱気の冷めないアスファルトに残り少ない命を託すようにアブラゼミが最後の声を振りしぼる

「ビール?ハイボール?」

気だるく窓の外を眺めていたゆうに圭佑が尋ねる。

「ハイボール。レモンたっぷりで」     「ざんねーん。フロントに聞いたけどレモン用意してないってさ」

ハイボールにはレモンをたっぷり入れるのがゆうの好みであることを知っている圭佑は、事前に電話でレモンを取り寄せようとして断られていた。

「残念。ありがとう笑」    

グラスを受け取り、圭佑の缶ビールにカチリと合わせる。

もうすぐ夏が終わる。春過ぎから始まった二社共同プロジェクトもまもなく終わる。この夏はいろんな意味で特別なものになった。     

寿司屋での食事からほどなくして、圭佑とゆうは深い関係になった。ゆうは結婚してから一度も浮気をしたことはなかった。体だけの満足を得るためにクラブに出かけるようなこともしなかった。なのに圭佑はそんなゆうの壁をいともたやすく乗り越えてきた。

家庭のあるゆうにとって圭佑との時間を作り出すのは大変だった。妻はゆうがゲイであることは知らない。思春期の頃から周りと違う自分の性的指向に苦しんできた。なんのために自分は生まれてきたのか、自分は愛することも愛されることも許されないのか。神様なのかなんなのか、この世の大きなものを恨んだこともあった。そのうちそのような指向を持つのが自分だけではないということを知り、相手を求めて夜のクラブに出かけるようになった。生まれて初めて愛し愛される喜びを知ったゆうを、母は少し悲しそうな目で優しく見守ってくれた。

ゆうがまだ小さい時に夫を亡くした母は女手一つでゆうを大学まで出してくれた。薬剤師をしていた母は頭も勘もよく、ゆうの性の悩みもとっくに気づいていただろうと思う。何も言わずいつも見守り続けてくれた母だが、ある年の暮れ、一緒に大家族のドキュメンタリーを観ながらふと「孫がいるってどんな気持ちだろうねぇ」とつぶやいたことがあった。その時ゆうは気づいたのだ、母が孫を抱くことを諦めているということを。

それから、ゆうは今の妻と出会い結婚した。数年に及ぶ夫婦の努力と高額な不妊治療のおかげで娘を授かった。母は近所に住み今も元気に仕事をしている。孫にプレゼントを買うのが目下の楽しみのようだ。そんな母を見るたび、自分の決断は間違っていなかったと自信をもって言えた。

だが…本当にそうなんだろうか?   

圭佑と出会ってから、ゆうのその自信はぐらぐらと揺れ動き出した。

圭佑といるのはとても楽しかった。その明るさ、人懐っこさに癒やされた。圭佑といると本当の自分が心の奥から顔を出すのが感じられた。妻のことも娘のことも家族として愛している。母や自分を幸せにしてくれた妻に心から感謝している。ここ数年は子育てで疲れている妻とはセックスレスだが、もし妻が求めてきたらできる限り応える心積りはある。

しかし、ゆうの心と身体は圭佑を求めていた。圭佑は男でも女でもないただ一人の人間としてゆうを抱く。立場も上も下も関係ない。圭佑にとって性の境目も役割の違いもなく、ただゆうという人間をそのまま愛するのだ。初めてのキスで二人がうっすら気づいた通り、身体の相性は最高だった。男としてこの世に生を受け、息子そして夫の役目を常に意識しながら生きてきたゆうにとって、それはあまりにも甘く幸せで美しすぎた。神様が、またはこの世の大きなものが今まで溜め込んだツケを一気に支払いにきたような衝撃的な体験だった。今まで苦しんできたのはこの人に出会うための序章だったのか。そんな陳腐なことを考えてしまうほど、ゆうは圭佑に溺れた。

しかし、禁断の果実は毒りんごだった。圭佑との時間を重ね圭佑への依存が深くなっていくうちに、ゆうは気づき始めた。圭佑は人をまるごと受け入れて愛することができる反面、その責任に縛られることもできない人であるということを。

圭佑はクラゲなのだ。深い海をふわふわ漂うミズクラゲ。大きな海をただ彷徨い、愛を与え受け入れる。ただ、それだけ。

苦しかった。初めて自分を性の呪縛から解放してくれた人に、家庭も親も何もかも捨てて飛び込みたかった。誰になんと指さされようが共に生きようと言ってほしかった。しかし、圭佑の中にそんな思考は存在しないのだ。彼の愛は大きく広く、そして永遠ではなかった。ただ目の前の愛を全力で受け入れ、そしてまたふわりと漂うしかできないのだ。それが彼の「人を愛する」ということなのだ。

ゆうは苦しみとともにそんな圭佑を愛したのだ。だから圭佑に「自分と生きて欲しい」とはとても言えなかった。4つも年上の自分が、しかも妻も子供もいる自分が、何もかも捨てるからあなたも覚悟を決めてとはどうしても言えなかった。

圭佑を愛し愛されるほど心と身体がバラバラに乖離していく。圭佑とのくちづけが甘ければ甘いほど胸の痛みがため息に変わる。

もう限界だった。このままでは壊れてしまう。大事なものをこの手で壊してしまう。

圭佑が作ってくれたハイボールを飲み干し、その香りがまだ口の中に溶け残るうちに、ゆうは圭佑との別れを決意した。

グラスに残る氷がカランと音を立てて崩れた。

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