母権膨張で、家族は消耗する。

サラリーマンたちは「仕事」と称して遊んでいるうちに下克上されていた。
「男はバカ」と言い放つ女は喝采を浴び、「女はバカ」と言った男は吊し上げられる。これが時勢というものだ。
安倍首相やトランプ大統領を批判するのはたやすいが、膨張する女権を批判するのは命がけだ。
時の権力者は、いまや政治家ではなく女なのである。
時勢というやつには敵わない。司馬作品ではよく用いられる言葉だ。
家康を勝たせたのも時勢、明治維新を成功させたのも時勢。兵の多寡や将の能力以上に時勢がものをいう。
バブル時代、地位が逆転し、いまや女天下の時代である。早いもので、もう30年になる。
いまの父親たちは、物心ついたころから女天下だったので、これについて疑問を呈する者はもはや少数派だろう。
1970年代に「俺たちの旅」というドラマが放送されていた。中村雅俊演じる主人公は何かにつけて、「女は黙ってろよ」と彼女を怒鳴りつける。いまなら、大騒ぎになって打ち切り必至の場面が連発する。
奥村チヨの「恋の奴隷」が流れると、「あー、やばい、やばい」と男どものほうが慌てふためく。
じっさい、あの時代までは男はのさばっていた。いまでいうセクハラも当たり前、浮気ーーというより女をかこい、飲む打つ買うことにさほどの逡巡はなかった。
これは、明治以来の家父長制に依るところもあったが、それ以上に、徴兵義務という命を張ったお勤めがあったから、男は大目に見てもらっていたというのが実際のところだ。
ところが戦後、兵役義務はなくなり、仕事も命を張るようなたぐいのもの(炭鉱労働や漁師など)はほとんどなくなった。
それどころか、バブル頃から、ゴルフや宴会といった遊びが「仕事」とみなされるようになってしまった。これでは、妻をはじめとした家族の尊敬を集めるはずがない。かくして、男は権力の座から滑り落ちた。
ウーマンリブ運動、フェミニズム思想ーー平塚雷鳥の青鞜社以来の女権拡張の努力が実ったというより、権力の座にあぐらをかいた男どもが自滅したといったほうが実態に近いのではないか。
それにしても、女たちはどうしてこれほどまでに力を握るに至ったのか。その本質については、じつはあまり語られていない。
家庭文化と自己教育という観点からは、これは外せない論点だ。

一介の「経理係」の妻が「財務大臣」に下克上していた。
いつの世も、カネを握る者が権力を握る。妻の権力膨張をもたらしたのは、家計というカネの支配だ。
サラリーマン家庭の一大特徴とは「お小遣い制」であろう。サラリーマンの多くは、月々数万円のお小遣いを妻からもらってやりくりする。
数年前、メガバンクの中堅行員が横領で逮捕された。
犯行の理由が「お小遣いを上げてもらえなかったから」だったことに衝撃を受けた。中学生の万引き事件と変わらないじゃないか。
その昔(昭和40年代頃まで)のサラリーマンは、まだ一家の長としての威厳を保持していた。
給料日に給料袋を持ち帰り、妻に手渡す。妻はつつしんでこれを受け取り、感謝の言葉も述べられたことだろう。
妻はその中から住宅ローンの支払い、酒代や米代、プロパンガスの支払いなどを割り振った。
当時はネット決済はおろか、クレジットカードも行き渡っていない。夫は平日昼間は会社に出ているので、支払いなどの経理庶務は、買い物ついでに妻が担った。だが、これが命取りになった。
カネを握る者が力を握るのは世の習い。誰が稼いでこようとも、現ナマを手にしている者が「所有者」になる。
消費者金融での借金であろうと、現金を手にしたとたん自分のカネと思い込んでしまうのと同じ心理だ。
しだいに、月々の給料は妻の既得権益と化し、それにともない、家庭内での権力を確立していった。そして気づいたときには、一介の経理係が財務大臣になっていたのである。
こんにちなら、各種支払いは夫でもいかようにもできるのだが、すでに時遅し。ひとたび確立した利権を崩すのは容易なことではない。
この利権構造は、サラリーマン子女同士の結婚では自動的に踏襲され、こんにちの一般的な家族モデルとなっている。
世間というものは、カネを握った者にしっぽを振る。
マスコミをはじめとした商売人たちがこぞって女を持ち上げるのは、家計の決裁者だからである。
これだけではない。時勢を背景に、妻たちはもう一つの巨大な利権を手に入れていた。それは「子供」である。

不在亭主が下克上されていた。
うかうかしているうちに、男は「財布」と「子供」を妻に奪われていた。これでは勝ち目はゼロだ。
戦国時代、領国を奪われるのは、領主の「不在」が最大の原因だし、農地改革では、不在地主が土地を奪われた。そう、「いない」と奪われるのが世の常なのだ。
にもかかわらず、サラリーマンはとにかく家を空けていた。遠方の勤め先に日々通うのだからしかたないともいえるが、それだけではない。
小津安二郎の映画などに描かれるように、昔の勤め人は陽のあるうちに帰宅していた。
妻の手助け受けて、着流しに着替え、煙草をくゆられてくつろぐ。そんなシーンが印象的だ(「東京日和」だったか)。
こんな暮らしであれば、不在亭主として零落することはなかろうが、仕事後だらだらと飲み歩き、週末も仕事と称してゴルフでは、下克上をくらうのも無理もない。
子育ては積極的に取り組むと楽しく味わい深いものだが、片手間にやると、じつに面倒くさい(歯を食いしばって子守するイクメンたちを見よ)。
彼らの腰のすわらない生半可さに、妻は不満を覚え、子供も侮りはじめる。
「子育ては、妻に任せている」とうそぶいているうちに、「領国」の統治体系はしだいに変質していくのである。
それに追い打ちをかけたのが、親権をめぐる激変だ。

親権争いは「連れ去った」者勝ち。
親権争いは、子供を「連れ去った」側に軍配が上がる。やや乱暴な表現だが、これが実状である。
だから、「開戦やむなし」と判断したら、まず“玉”をおさえる。これは源平の世以来、いくさの常道である。
ある日、妻が子供の手を引いて実家に身を寄せる。こうして親権戦の火蓋が切られる。
奇襲をくらった男はこうなればもう為すすべがない(奪還しようものなら、警察が出てくる。これで逮捕された父親もいる)。
その後の調停から裁判に至る過程は俎上の鯉だ。せいぜい面会交流権をどれくらい確保できるか程度が争わされ、子供との生活は途絶えることになる。
妻サイド(そのときは弁護士や実家の親たちも参戦)は子供を「人質」に、養育費をめぐる交渉を有利にもっていこうと必死だ。
夫は日々の勤務を果たしつつ、収束の見えない消耗戦に引きずり込まれる。
子供がある程度の年齢に達していれば、子供当人の意思が尊重されるという。ところが「ある程度の年齢」というのが平均すれば10歳ということだ。
だが10歳であろうと、意思表示をしっかりしなければ、女親の元に置かれることになる。
その歳で「お母さんとの生活を望みません。私はお父さんとの暮らしを望みます」などと明言できる子供はそういまい。
正確な数字は把握していないが、戦前は父親の親権獲得率は9割近かったのではないか。それがこんにち1割程度であるといわれる。
この大転換の背景には、民法改正による家父長制の消滅もあるが、心理学における新理論も関係している。
心理学者ジョン・ボウルビィの愛着理論がそれだ。幼少期における母子密着(必ずしも母親でなくてもよい)の大切さが説かれていて、私も賛意を表する一人だ。
だが、この理論は、女天下の時勢の中なか、都合よく援用されてしまった。
「愛着理論にあるように、子供は母親から引き離されることは生育上有害である。したがって、親権は母親が保有すべきである」と。
ともかく父親が親権を獲得することは並大抵のことではない。
父親が親権獲得するには、それなりの財産があり、それなりの収入がある。その上で、日常的に子供と一緒にいられる時間が豊富にある(自営業や自由業)ことや自分の両親と同居しているなどの良環境といった難易度の高い条件が突きつけられる。
核家族のサラリーマンではとうていクリアできるものではない。
こういう「情報」は世の中に出回っているから、それを悪用する連中も出てくる。
夫の子供に対する愛情という「弱点」を突いて、やりたい放題の妻はかなりの数になるはずだ。
だが、お天道様はご覧になっている。このような理不尽は長続きしないことは、男がたどった歴史をみてもあきらかである。

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