藤野論52:エイズが心配になって2回検査したラプソディ
34年前の夏の昼下がり、私は河合塾の模試をさぼって、新宿のアルタビジョンでライヴエイドの中継に食らいついていた。
我が両親は洋楽にうつつを抜かす私を弾圧したので、家ではテレビをみられず、こうした仕儀になったが、苦難の末の体験はむしろ感動を生み、今もなお記憶の印画紙に強く焼きついている。
中学生の頃、英語の個別指導を受けていた先生がNHKのラジオ講座を受け持つことになった。その初回で流れたのが「Radio Ga Ga」だった。
「へえ、先生はこんな曲が好きなんだ」と驚き、それがきっかけでクイーンを少しかじったが、フレディ マーキュリーの風貌とパフォーマンスは当時の私にはハードルが高すぎた。
マッチョのホモおやじという印象が強烈で、その音楽性、ましてや人間性に共鳴することはなかった。さらにその後「不治の病エイズ(当時)」に罹患していると囁かれるに至り「きめえー」となって早三十有余年。
フレディとはジャンルも違うしスケールも比較にならないが、30歳過ぎの頃、私は「時の人」になったことがある。神楽坂時代のことだ。
NHKで特集され、四大紙でも賞賛された(「天声人語」にも出たぞ)。さらには、今はなき親方日の丸銀行からも賞を頂戴して、さらに箔をつけた。
ビジネスも絶好調。我が世の春とは、あのことをいうのだろう。上げ潮とカネにものを言わせて、私は放蕩のかぎりを尽くした(いや実際は、そうでもしなければ、自分を維持できなかったのだが)。
ある日、常軌を逸した私の「交際費」について税理士が苦言を呈した。私はキレて「プロなんだから、なんとかしろ!」と暴言を吐いて、その場で契約を切られた。こんなふうにして当時、たいせつにすべき縁をずいぶん失った。
同時に夜の巷では、さまざまな出会いがあった。私はゲイではないから、そっち系のつきあいは御免こうむったが、情を交わした女性は少なくなかった。
そんなとき、30代以上でエイズ発症者急増中というニュースを目にした。驚愕した私は即座に電卓を取り出した。すると、私の感染率は「50%」(もちろん私流の超計算だw)。
以来、2ヶ月にわたって私は廃人と化した。日がな一日、エイズについて調べまくっては絶望の淵に立ちつくした。前後2度、大久保の最前線病院で検査を受けた(潜伏期間があるんです)。
童貞と処女によって懐胎した私が何故こんなことに――。あの時ばかりは、尊敬する祖父由来の荒ぶる血を呪った。
ともあれ私は無事生還した。そしていま「ボヘミアン・ラプソディ」をみて元気に号泣している。
この映画でLGBTに対する認識は一変した。元来偏狭な私だが、すこし多様性受容度が高まったように思う。
だがLGBT諸君よ、時勢を背景にして、のさばってはならぬよ。それでは藤野民の轍を踏むとになる。
フレディ マーキュリーにしても苦悩に煩悶を重ねて、それを楽曲に昇華させた。追い風に便乗しておのれを安売りすることなく研鑽し続けるように。さすれば、その特異ともいうべき個性は伝説として語り継がれることになるかもしれない。
抑えきれぬ衝動と冷徹な自己客観視という、アクセルとブレーキのスパークがレジェンドになる。上っつらだけ真似て、フレ男やマキュ子になってはならない。それは、あなたが憧れるフレディ マーキュリーとはいちばん遠い姿だからだ。
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