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【明治産業革命世界遺産登録②】 ユネスコ登録の裏技「一つでダメなら〇〇シリーズで行け!」 2024年12月28日放送分

# ユネスコ産業遺産登録までの道のり
(ゲスト)加藤康子氏:元内閣官房参与

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自由な言論から学び、行動するための政経プラットフォーム、ITビジネスアナリストの深田萌絵です。本日は元内閣官房参与の加藤康子さんをお迎えしています。加藤さん、よろしくお願いします。

(加藤)
よろしくお願いします。

(深田)
今回は、「ユネスコ産業遺産登録までの道のり」というテーマでお話を伺います。前回はスミス先生との出会いについてお話しいただきましたが、その後、登録までにはまだ長い道のりがあったのですよね。

(加藤)
そうです。

(深田)
そのスミス先生が九州に目をつけられて、それで……。

(加藤)
ええ。スミス先生がおっしゃったのが、「ここは1つの遺産では世界遺産にならないけれど、『シリアル・ノミネーション』と言って、複数の遺産をつなげて一つのストーリーにまとめれば、日本の産業遺産群は世界遺産になるよ」と。なぜなら、明治における日本の産業の勃興は世界史に残る奇跡だから、とおっしゃったのです。

(深田)
奇跡だとおっしゃってくださったのですね。

(加藤)
はい。アジアの小国が、あの鎖国状態から突然開花して、国際舞台で一等国として評価される工業立国の土台をわずか半世紀で築いた。これは世界史における奇跡でこのような国の変革が、どうして可能になったのか。それが世界の七不思議のように注目されるようになったのです。この産業の変化の道程をまとめて遺産群として登録すれば、世界遺産になる、ということだったのですね。侍が科学に挑戦したその始まりがどこにあったのか。そして、そこにはどのような技術があり、侍たちがいかにして短期間で大量生産型のシステムを短期間で構築したのかを立証しよう、ということになったのですね。

(深田)
それは、識字率の高さも関係があったのですか?

(加藤)
そうです。その背景には識字率の高さが関係していました。江戸時代、ヨーロッパの学者たちが日本を訪れ分析をしていました。その中で彼らが一致して称賛しているのは、「刀剣の技術」ですね。刀剣の技術は非常に優れており、さらに銅の細工も美術品と呼べるほどの精緻さを持っていました。ヨーロッパでも真似のできないレベルの技術力があったのです。

(深田)
そんな中で、日本にとって最も大きな変化が訪れたのはやはりアヘン戦争でしょうか?

(加藤)
そうですね。清が敗北したことで、日本の侍たちは大きな衝撃を受けました。大国・清が、イギリスの海軍力によって屈服させられる。これを目の当たりにしたことで、日本も何とかして鉄製大砲を製造しようと考えるようになったのです。そこで、長崎のユーリッヒ・ヒュゲーニンという蘭書を翻訳し、鉄製大砲の製造方法を学ぼうとしました。当時の藩士たちは、自ら蘭書を読み解き、技術者の支援なしにその設計図を理解しようとしました。

(深田)
侍たちが自力で科学に挑戦したのですね!

(加藤)
そうです。それが日本の科学技術の出発点です。反射炉や鋳造炉を全国に設け、試行錯誤を重ねました。その数、反射炉は11か所、鋳造炉は19か所にも及びます。侍たちは指導者のいない中で鉄製大砲を作ろうと努力を続けたのです。

(深田)
それを聞いただけでも、衝撃を受けますね。

(加藤)
そうでしょう。鎖国を続けていた中で、立ち上がった侍たちが試行錯誤し、新しい技術に挑戦していく姿勢は本当にすごいですよね。

(深田)
すごいですね。

(加藤)
鎖国をしていた中で立ち上がり、その中の19か所の高炉と11か所の反射炉で実際に今の技術に進化して繋がっていったのは岩手県の釜石です。日本の鉄鉱石は東北にしかなく釜石で大きくブレークスルーしたのです。釜石には、その後の鉄の歴史に繋がっていく鉄鉱石が採れました。

(深田)
日本の産業遺産は、基本は九州と山口県に集中していますよね?

(加藤)
鉄鉱石が採れる岩手県の釜石も入ります。砂鉄を原料としたたたら製鉄では鉄大砲の鋳造には不向きでした。なので、鉄鉱石の資源が豊かな釜石で蘭書を片手に鉄に挑戦し開花した釜石は、産業革命の発祥の地になったのです。

(深田)
釜石の鉄の技術は、現在はどちらの会社なのですか?

(加藤)
日本製鉄です。大島高任が現在は残っていませんが釜石の大橋で始めました。現存しているのは、笛吹峠の橋野鉄鉱山が残っています。それまでは、たたら製鉄では炉を毎回壊していました。しかし、洋式の高炉では連続的に鉄を製錬することが可能になります。そして、その高炉跡地には石切り場から炉の構造まで、全ての工程がそのまま残っているのです。それが釜石です。

(深田)
ぜひ多くの方々に見ていただきたいですね。

(加藤)
釜石には本当に深い歴史があります。その後、明治政府が開国し、鉄鉱石の豊かな釜石の鉱山に最新のイギリス製設備を導入しました。ただ、政府が取り組む事業が必ずしも成功するとは限らないものです。実際、3年でギブアップしてしまいました。これを引き継いだのが田中長兵衛という鉄製の技術者です。田中長兵衛がその事業を民間として引き継ぎました。しかし、最新設備を用いても、原燃料の違いにより稼働がうまくいかず、失敗を繰り返しました。彼は48回も挑戦しましたが、そのたびに失敗し、ついには資金が尽きてしまいました。

(深田)
ええ……。

(加藤)
しかし、従業員たちが「給料はいらないから、成功するところを見たい」と言って挑戦を続け、ついに成功を収めました。

(深田)
まさにベンチャースピリットですね!

(加藤)
その通りです。たゆまず挑戦を続け、ついには成し遂げる。これが日本製鉄の始まりです。

(深田)
お金ではなくやりがいへの情熱は、今の日本が失ってしまったものかもしれませんね。日本製鉄の始まり……感動しますね。その挑戦し続ける心、失敗を恐れず挑む姿勢が日本の精神ですよね。

(加藤)
そうなんです。そしてヨーロッパでは木炭からコークスへの転換に250年かかりましたが、日本はわずか30年で成し遂げたのです。

(深田)
ええ、驚きです。

(加藤)
それこそ世界史における「アジアの奇跡」と言えるでしょう。当時の幕府は1635年に「大船建造の禁」を出し、大型船の建造を禁じました。外国との接触を避けるためです。サスケハナ号と弁才船との技術格差に驚愕し、眠れぬ夜を過ごす侍たちがいたのです。その状況から、わずか30〜40年で軍艦まで作り上げました。

(深田)
本当にすごいことですね。

(加藤)
ええ。日本のスピード感、たゆまぬ挑戦、そして精神的な強さは、現代の日本人が自信を持つべき点です。当時の日本の人口は3000万人ほどでした。それでも近代国家を自力で築き上げた。この事実を忘れないでほしいですね。現在の日本は人口減少や縮小が問題視されていますが、少ない人口でも近代国家を作り上げた歴史があるのです。これを未来への希望として理解してほしいですね。

(深田)
本当にそう思います。

(加藤)
産業遺産を見ていただくと、明治日本の産業革命遺産には、明治後期の挑戦が色濃く残っています。例えば、軍艦島(端島)もその一つです。

(深田)
端島に電気が通ったのはいつ頃ですか?

(加藤)
1900年の頭頃ですね。当時の日本人は、絶海の孤島に電気を通したのですよ。

(深田)
すごいですね。ところで送電網はどちらから来たのですか?

(加藤)
高島の陸用蒸気タービンを発電所に設置し、海底ケーブルを通して電力を供給したのです。これが日本の底力ですよね。絶海の孤島であり岩礁の端島を海底深くまで掘り掘ったもので埋め立てて住宅を作りました。

(深田)
他にも、三池港の建設など、日本人の挑戦はすさまじいものがありますね。

(加藤)
そうなのです。1908年、大牟田で三池港が完成しました。干潟に港を作るという非常に困難なプロジェクトでしたが、当時の日本人は6年という短期間で完成させました。現代技術でも10年かかるところを、未経験のエンジニアたちが成し遂げたのです。

(深田)
すごいですね!

(加藤)
やったことがなくても、挑戦し続ければ成し遂げることができる。この精神が日本人の強さです。

(深田)
本当にそうですね。そして、その産業遺産を世界遺産として登録した加藤さんの行動力も素晴らしいです。今回のお話を多くの方に知ってもらい、挑戦する心を学んでいただきたいですね。

(加藤)
そうですね。ぜひ皆さんも産業遺産を訪れ、日本の誇りを再確認してください。

(深田)
今回は、加藤康子さんに「ユネスコ産業遺産登録までの道のり」をお話しいただきました。次回もよろしくお願いします!

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